09話 祠と孤独な少年
「はいはい、もう少しですよー」
セイジは陽介に上機嫌で答えた。
しまった、今のは校長先生のモノマネじゃなかったけど、ま、いいか。
セイジは、これから案内する場所を思うと、クスクス笑いが止まらなくなっていた。
みんな、びっくりするぞぉ。
はははのはー。
これもあのバケモノのお陰かも、なんてね。
昨日の日曜日、セイジはバケモノに遭遇した。そして、そのお陰で今回の発見をしたともいえる。まあ、それはバケモノではなく、独り身の父親が連れてきた女の人といった方が一般的かもしれない。しかし女嫌いのセイジにはそうとしか思えなかった。
セイジの父親は、セイジが幼い頃に母親が浮気相手と逃げ出してからというもの、しょっちゅう女の人を家に連れてきていた。そして、今ではセイジもそれに慣れっこになっていた。父親が完璧に隠しだと思いこんでいるアダルトビデオも発見していたし、一通りの知識もあった。
いろんな女の人がセイジの家に現れる。
オヤジも好きだよな。セイジはいつからか、醒めた目でそれを見るようになっていた。
しかし、本当のところ、女の人と一緒にいる父親は見たくなかった。デレデレと媚びへつらう父親の姿は大嫌いだった。特に相手が若い女の人だと、無様で目も当てられなかった。普段おっかないだけに尚更だった。
オレは女なんて相手にするもんか。セイジは固く心に決めていた。
もちろん父親との会話なんてあるはずもない。学校では饒舌なセイジも、家に帰ると途端に無口になった。二人きりでいると時々無意識のうちに父親に話しかけている時もあったが、父親の反応を見る前に、問いかけから独り言の形へ変えてしまうのがセイジの常だった。
ね、そういえば今日裕太がさ……………裕太だけにUターンした、なんちゃって。はは。
最後はいつも口の中に小さく消えてしまうので、おそらく父親に聞こえてはいないだろう。そんな時セイジは無性に腹が立った。
駄洒落なんて言いたかった訳じゃない。なにやってんだろ、オレ。
不甲斐ない自分に腹も立ったが、二人きりの時ですら相手にしてくれない父親が憎たらしく、セイジは二度と父親と口を利くまいと誓うのだった。
昨日、急にセイジの父親は家に女の人を連れてくることになった。
今度の人は子供好きだぞ、お前もまあ役に立つよな。
そんなことをセイジの父親は言い捨てて、上機嫌でその女の人を迎えに行った。セイジはむかっ腹が立ったが、玄関でお出迎えをしろという父親の言付けは絶対だった。
こんにちはぁ。子犬を小脇に抱えて玄関に入ってきたその人を見るなり、セイジは腰が砕けた。
お、お化けだ。オシロイ星人だ――すっかり女嫌いになったセイジの目にはそうとしか映らなかった。
あらあ、これがセージちゃんねぇ、はじめましてぇ。くねくねとうごめくその物体にセイジは鳥肌が立った。
化粧の甘ったるい匂いが放射能のようにセイジに襲いかかる。
オエッ。寄るなバケモノ。オヤジ勘弁してくれ。
セイジが父親を見ると、怒りで爆発寸前なのが分かった。出掛けに教えていった挨拶をとっととやれ、そういうことらしい。
そ、そんなこと言ったって。
セイジはゴクンゴクンと二回唾を飲みこんでみたが、どうしてもその女の人を見ながら笑顔なんて作れそうになかった。
しかしセイジは、彼女が耳だけは化粧をし忘れていることに気付いた。アップにまとめられた髪の下で、耳だけが雪原に捨てられた粗大ゴミのように茶色に残っていた。
これだ!
セイジは彼女の耳だけを見ながら、父親に言われた挨拶をまるでお経のように唱えた。環境破壊万歳。誰か琵琶も捨てといてくれ。ははは。
が、いつまでも相手が出来るものではない。
女の人が連れてきた犬の散歩を口実に、セイジは家から逃げ出した。
ひとつにはセイジがピーターという名前のその犬に同情していたこともあった。ご主人様の強烈な化粧の臭いで、哀れにも嗅覚をやられているのではないか、そう思われたのだ。セイジはピーターを引き連れて新鮮な空気の中へ飛び出した。
ピーターは結構いいヤツだった。
リードを持つセイジの手を引っ張りながらちょこまかと走りまわっては、時々セイジを見上げる。その楽しげな表情に、ついセイジも笑ってしまう。セイジがチョコレートを買ってやると、大喜びであっという間に食べてしまった。
はは。尻尾を振ってら。
セイジは犬の散歩なんて初めての体験だったが、全然悪くなかった。こんなに可愛いヤツなのに、ご主人様があれじゃなあ…。
セイジは心の底からピーターに同情した。
ピーターとの散歩は、セイジが思っていたより長くなった。セイジ自身が家に帰りたくないというのもあったし、それに、ピーターとの時間が楽しかったからだ。
ピーターは何にでも興味を示した。秋風に枯れかけた雑草、道端の空き缶、道路にできたオイルの染み…。どうやら嗅覚は生き残っているようで、しきりにクンクン嗅ぎまわっている。
こいつの目、いや鼻には、世界はどんなふうに映っているんだろう、セイジはそんなことを思ったりした。
セイジとピーターは、いつのまにか学校を通り過ぎ、町外れの林まで来ていた。
この先の小さな山を越えれば隣町になってしまう。セイジは小さな祠でUターンすることにした。セイジ自身あまり知らない土地になりつつあったからだ。が、ピーターはなにか動物の匂いを見つけたのか、急に地面に鼻を押し付けて、しきりに林の奥に進みたがった。
どうしよう。セイジは判断に迷った。
この先って行ったことないよな。
でも、まだ時間も早いし、そう、それに家にはアレがいるんだった――オヤジもホント趣味悪いよなあ。
いつかみたく、オヤジが裸で女の人と抱き合っているところにぶつかっちゃうかもしれない。
うわ、今回はアレだ。まさに、オエッ、だよ。
いつもはその光景を考えると心臓の鼓動が異様に速くなるセイジだったが、今回はあの甘ったるい匂いが鼻に蘇ってきて、頭に浮かんだその光景から猛ダッシュで逃げ出した。
でもオヤジ、オレよりあんなのの方がいいんだよな。
そう考えると、セイジは急に悲しくなった。
オレなんて、いてもいなくても同じなんだろうな。
普段なるべく考えないようにしていることだったが――事実セイジはすっかり忘れていることが多い――今日はなぜか切実な思いとなってセイジの胸を締め付けた。
父親もセイジと普通に話せないことに悩んでいるかも、とは、セイジは考えもしなかった。セイジの頭にあったのは、二人きりでいる時の父親の難しい表情、セイジが話しかけても無反応のその態度だった。
行くぞピーター。セイジはピーターを追い越して林の奥に進んだ。
ピーターは勇んで臭いを追いかけた。
セイジはその後をくねくねとついて行ったが、しばらくすると同じ所を行ったり来たりしていることに気付いた。やはり、ピーターの嗅覚は何らかのダメージを受けていたらしい。
セイジがとりあえずもう林を出ようとリードを軽く引っ張ると、ピーターは満足したのか素直に臭いを諦めて、何事もなかったかのようにセイジについてきた。
その時だ、セイジがそれを見つけたのは。
セイジは興奮のあまり、ピーターのリードを放してしまいそうになった。
こりゃすごいぞ。
うわ、中もバッチリだ。
裕太達に教えたら…。
うん、これは絶対教えてあげなきゃ。
セイジはもうオシロイ星人なんてどうでもよくなった。父親との溝もどうでもいい。
セイジはその時からニヤニヤ笑いが止まらくなった。