第八節 悔しさを、次のバトンへ
梅雨の気配が漂い始めた6月初旬。市総体を終えた水泳部は、さらなる高みを目指し、県総体に向けた追い込み練習に励んでいた。5月下旬から続く緊張感は、日に日に増している。
プールサイドには先輩・後輩が整然と並び、ストップウォッチのシャッという音が水音と重なる。三年生たちは個人種目の最終調整に余念がなく、バタフライ、背泳ぎ、自由形、それぞれの泳ぎに集中していた。メドレーリレーを担う四人の選手たちも、その中にいる。
補欠として名を連ねるハルとユキも、先輩たちに交じって泳ぎ、フォームやストロークの一つひとつに意識を向けていた。
プールサイドの端では、さちが助走台の補助をしながら声をかける。
「ユキ、今のターン、すごくスムーズだったよ。腰のライン、すごくきれいだった」
「ありがとう、さち。ハルも最後まできっちり泳いでたね」
ハルが顔を上げ、少し息を整えながら言う。
「うん。でもまだ詰められると思う。市総体よりもっと速くなるよ」
「さち、ラップお願い! もう一回、全力でいくから!」
そう言って、ふたりは再び飛び込んだ。補欠でも、この場にいることには意味がある。その思いを、ひと掻きごとに水へぶつける。
少し離れた場所では、まひろがリンの泳ぎをじっと見つめていた。時折ストレッチを挟みながら、プールサイドを行ったり来たりする。
「リンちゃんのドルフィン、本当にきれい……。私も、いつかあんなふうに泳げるようになりたいな」
リンは水から上がり、息を整えながらそばに来て、まひろの肩に手を置いた。
「きっと、すぐだよ。まひろも、すごくフォームきれいになってきた。引き締まった二の腕、誇らしいくらいだよ」
練習のたびに身についた筋肉の感触を、まひろはしっかりと感じ取った。
──
プールから上がると、全員がプールサイドに整列する。顧問の西園寺先生と部長の瑞希が前に立ち、静まりかえった空気を背に言葉を発した。
「まずは、市総体。みんな、本当によく頑張った。本番は、いよいよ2日後の県総体。今日、明日の練習を、すべて本番につなげよう」
瑞希も一歩前に出て、真っすぐな目で部員たちを見渡す。
「勝ちたい。だからこそ、今ここにいるんだよね。一つひとつの練習を、全部、自分の力に変えていこう。悔いのないように」
全員で一礼し、練習は終了した。
──
練習後。いつものように、5人はトレーニングルームに集まり、筋トレに取り組んでいた。
「ハル、ユキ、今日のタイムすごく良かったよ。フォームも安定してきてる」
「ありがとう、さち。でも、さちだってタイム伸びてるよね。50メートル、前よりずっと速くなってた」
「うん。でも、まだふたりには追いつけない。でも……もっと一緒に頑張りたい!」
「私たちの力で、もっと上を目指そう」
「……うん。もっと、強くなる」
──
そして、いよいよ迎えた県総体当日。会場には湿気を含んだ熱気と、各校の声援が満ちていた。
各種目が次々と進み、メドレーリレーの予選が始まる。出場メンバーと補欠のハル・ユキは円陣を組み、拳を合わせる。
「絶対、決勝へ行こう!」
その掛け声とともに、第一泳者がスタート台へ。笛の音が響き、試合が始まった。
順調に泳ぎが進んでいたが、第二泳者の三年生が、バトン直後に足を痛め、スピードを落とす。それでも必死で泳ぎ切り、次の選手へバトンをつなぐ。
最終泳者の瑞希が強烈なストロークで巻き返し、かろうじて予選通過を果たしたとき、会場には大きな拍手が響いた。
しかし、第二泳者の先輩はプールサイドに座り込む。軽い肉離れだった。
「ごめん……ここまで来たのに……」
悔しさをこらえきれず、目に涙を浮かべて瑞希に謝る。
「大丈夫。私たちでカバーするから」
そう言って、瑞希は静かにハルへ視線を送る。
「ハル、2番手、お願いできる?」
一瞬の静寂の後、ハルは深く頷く。
「……はい。全力で、泳ぎます!」
ユキがそっと声をかけた。
「大丈夫。今までずっと一緒にやってきたんだから、自信持って」
「うん。先輩たちを、ちゃんと上位まで連れていく」
──
決勝。会場中が注目する中、ハルは力強く飛び込んだ。
全身に張りつめた意志をのせて、ストロークごとに加速していく。ターンもスムーズに決まり、しっかりと次の泳者へタッチをつなぐ。
そして最後の瑞希がゴールの壁をタッチしたとき、電光掲示板に浮かび上がったのは「3位」の文字。
惜しくも、広域大会進出には届かなかった。
瑞希とハルはプールサイドで抱き合い、悔しさをこらえきれずに涙を流した。
──
控室。
出場メンバーが揃う中、西園寺先生が静かに言った。
「……よくやった。ここまで来られたこと自体が、奇跡に近い。三年生は、これで引退だ。あとは、お前たちに託す」
瑞希が涙をこらえながら、微笑んで続ける。
「ありがとう。ここまで来られたのは、みんなのおかげ。悔しさもバトンにして、これからもっともっと遠くまで泳いでいってね。絶対に、全国へ行って」
その言葉を受けて、ハルが静かに言う。
「先輩……ごめんなさい。私が、もっと……」
「違うよ、ハル。あなたが飛び込んでくれたから、ここまで来られた。むしろ、ありがとう」
瑞希はハルの肩をやさしく叩く。
──
その後、5人で並んで帰り道を歩く。
「……0.3秒。ほんの少しの差で、広域に届かなかった」
「でも、それが現実で――今の私たちの力なんだよね」
悔しさと、それを超える意志が5人の間に流れていた。
「私たち、もっと強くなる。次こそは、あの舞台へ」
「絶対に、行こう」
拳を握り合い、誓い合う。
夕焼けの光が彼女たちの背中を包み込み、長く伸びた影がまっすぐ未来へと続いていた。




