不破と不和
「もうお別れなのか?」
オヒトは寂しそうに言った。志乃はごめんね、と小さく言う。
あのあと、三人は一度、村へと帰り、体の調子を取り戻すことに専念していた。
運よく、京士郎と志乃には外傷はなかった。
血の一滴も流さずに鬼に勝つこと。それは志乃からすれば、あまりにも出来すぎたことだと言う。
本来であれば一軍を差し向けて勝てるかどうか、という相手である。それを、わずか二人で倒してみせたとあれば、誰もが耳を疑うだろう。
一晩あけて、二人はすぐにでも旅立つことに決めたのだ。
志乃はオヒトに、一枚の書状を預けた。
「これを持って、不破関まで行きなさい。ここであったことをきちんと伝えること」
それは一人残るオヒトを思ってのことだった。
このあたりにはもう、誰もいない。オヒトの親戚はみな、土蜘蛛とともにいなくなってしまったのだ。
そんな彼を一人置いていくのは偲びないと、不破関を頼るように言ったのだった。
土蜘蛛討伐の話を土産にすれば、彼らだって無視することはできないだろう。
幸いにして、不破関は道沿いに進んで半日もせずに到着する。オヒト一人であっても大丈夫だろう、という志乃の判断だった。
分かれ道。京士郎と志乃は、オヒトの背を見送った。
「ずいぶん優しいんだな」
京士郎が志乃に言うと、彼女は少しだけ物憂げな瞳を見せた。
「わかるでしょ。お父さん、お母さんがいない寂しさ」
それには答えず、京士郎は頬を掻く。
「それに、なんか弟みたいで、可愛いじゃない?」
「そういうもんか」
「ええ、そういうものよ」
志乃は満面の笑みで言った。
小さいことは気にするのに、自分が鬼に売られたことはあっさり許してしまう。そんな志乃の神経はわからないが、京士郎にはそれが好ましく思えた。
ぐっ、と志乃は体を伸ばす。まるまる一日、寝たきりだったのだ。体のあちこちが痛むのだろう。
「顕明連は、あなたに預けるわ」
志乃は改めて、そう言った。
京士郎は手の中にある刀を見る。宝刀、顕明連。志乃が言うに、この世に類を見ない宝であるのだという。
その重みを理解することはできない。
しかし、鬼と対抗できるという事実そのものが、この宝の重みを語っているように思えた。
「いいのか? 俺が使って」
「自分しか使えない、って言ったのはどこの誰よ。いいの。使われてこそ、なんだから」
使えるものはなんでも使う主義、という考えは二人が同意するところだった。
ならば使わせてもらおう、と京士郎は刀を腰に帯びる。
以前よりも少しだけ、重みが増したように思える。それは志乃からの信頼からなのだろう、と思った。
「さあ、早く精山様を追いかけないとね」
志乃がそう言って、京士郎は一瞬だけ首を傾げてしまった。すると彼女は、京士郎の胸ぐらをぐっと掴んでくる。
「もしかして、忘れたわけじゃないよね?」
「わ、忘れてねえよ! ただ俺の目的じゃねえから、うっかり失念したというか」
「それを忘れたって言うのよ!」
ふん、と志乃はそっぽを向いた。これには京士郎もむっとしたが、そんなことよりも大切なことを言わなければならないと思った。
「おい、もうあんなことを言うなよ」
「なんのことよ」
「死んだ方がまし、だなんてことをだ。あんなこと、言うもんじゃない」
ばつが悪そうな顔を浮かべる志乃は、だって、と小さくつぶやく。
京士郎は志乃の身に何が起こったのかは知らない。あのとき、土蜘蛛の元へ向かうと、志乃の口から聞き捨てならない言葉が聞こえた。だから近づいて、言葉を遮った。悲しいことを言うな、と伝えるために。
死んでも構わない、というのはとても悲しい言葉だと思った。
どうして悲しいのかはわからない。もしかするとそれは、寂しいという感情なのかもしれない。
その二つの区別を、京士郎は明確につけることができない。
けれども、どちらも志乃へと向けたものであり、よくないものであることはわかる。
死を望まないでくれ。それは同時に、ともに生きてくれ、という意味でもあることを京士郎はまだ知らない。
けれども京士郎は、純然たる想いを志乃へとぶつけていた。
「……わかったわ。その場限りだとしても言わないわよ、もう」
顔を赤らめて、志乃は言った。
よかった、と京士郎は胸を撫でおろす。
「だいたい、胸を揉まれたくらいで大げさだ。それとも腹だったか?」
「はあ!? 乙女にとっては大きな問題よ! あとお腹は揉むほど肉ないし! 」
「そういうものなのか」
「あんただって揉んだでしょうに!」
そう言われて、京士郎は思わず自分の手のひらを眺める。わきわきと、指を動かした。
「思い出すなあ!?」
「いってぇ! 叩くことはないだろうが!」
「あんたねえ……」
はあ、と志乃はため息をつく。
「最後まで精山様探し、手伝いなさいよ。責任とってよね」
「なんのだよ」
「私の胸を揉んだだけじゃないでしょ。唇だって奪ったくせに」
初めてだったんだからね、と志乃は言った。
しかもあんな、舌まで入れて。
京士郎はそう言われて、胸のことよりも思い出してしまう。
顔面蒼白だった彼女の、けれども艶やかな唇に、自分の唇を押し当てるときの感覚。
やむを得ない状況だった、志乃を生かすためには仕方なかった。
そんな風に言葉を重ねることもできたが、上手く口が回らなかった。
いま思い出している光景は、あのときよりもずっと鮮明で、色彩に溢れているのだ。
きっと自分の記憶の志乃に、目の前の志乃を重ねてしまっているのだろう。
無意識のうちに神通力も働いていて、五感が鋭敏になる。志乃の匂いが強く感じられて、京士郎は思わず顔を赤らめた。
「え、えっ、そこは照れるの!?」
志乃はさらに顔を赤らめる。火が吹くのではないか、というほどに。少なくとも茹ってはいるようだった。
二人して口を開いたり閉じたりし、そして黙りこくる。
気まずい空気が流れた。オヒトが去ったあとでよかった、と思う。
沈黙を破るように、志乃が言った。
「い、行きましょう。今度こそ精山様を見つけるために!」
「……関所を破ったのを咎められたくないからだろ」
「それは言わないで!」
あれこれと言い合いながら、二人は道を進んでいく。
さらなる東、朝日が昇る方へ。
不破関を越えて、二人の不和は少しだけ、解けていた。
* * *
土蜘蛛が去った洞窟に、その鬼はいた。
妖艶ながら快活な女の鬼、茨木童子。
彼女は闇の中に生きるのをよしとする者であった。
かつて土蜘蛛が居た残骸を眺める。
京士郎と志乃が潜った洞窟は、実のところ大して深くはない。
それもそうだ。彼らが土蜘蛛から逃げるために走った距離は、明らかに山の規模を超えている。
土蜘蛛は己の住処を、己の理で塗りつぶしていたのだった。物理的な距離を変質させてしまうほどの陰気で淀ませている。
陰気であろうと、陽気であろうと、その均衡を崩せば、現実の空間に歪みを生み出してしまうものである。
ここは多くの魂が集い歪められたがゆえに変質していたのだった。
「なるほど、京士郎。やつはまこと、我らが弟よ。それも特に似ておるな、あやつに」
そう声をかけたとき、茨木童子の背後に現れた影があった。
くすり、と茨木童子は笑う。それは鬼としての嘲笑ではない。愛しい者へと向けたものだった。
「妬いたか、お前さまや?」
「そんなことより首尾はどうだ、茨木」
むう、お前さまは女心がわからぬ。茨木童子はそう言った。
「上々よ。もう少しだけ頑張ってもらいたかったが、いま京へと攻め入られてはちと困る。我が妹たちが仕事を終える前に来られては、計画がおじゃんだからな」
「そうか」
そっけなく、その影は言った。
まるで当然であるかのように、だ。
裏を返せば、それは茨木童子への信頼でもあった。決して口にはしないが、彼女であればできて当然であると言っている。
「お前さま、まさかそんなことを聞きにきたわけではあるまい? 不完全な分身とは言え、こんなところに顕現させる余裕もないはずじゃろ? あまり無理はするな。妹たちが悲鳴をあげる。無論、私とてだ。ああ、私に会いに来たかった、というのなら大歓迎だ。ほれ、もっと近うよれ」
茨木童子がそう言うも、影は答えない。
むう、と頬を膨れさせる茨木童子は、まるで人の少女のようであった。
「つまらん。これならば京士郎の方がからかいがある」
「京士郎か。どうだ、あいつは」
ようやく、影は茨木童子の言葉に反応を示した。
構ってもらえたのが嬉しかったのか、茨木童子は少し機嫌をよくする。
「うむ。ずいぶんと活きがいいやつだ。このままいけば、数年のうちに私と同じほどの力は手に入れるだろうよ。いまも心が揺らいでおる。少し押してやれば、傾くだろう。ただ……」
あの小娘め、忌々しい気配がする。
茨木童子はそう言った。眼中にないように振る舞っていたが、茨木童子が真に危険視していたのは志乃であった。
彼女の存在がどうにも気にくわない。握り潰せば死ぬような存在のくせに、目障りなのだった。
それこそ、嫉妬にかられているようだった。鬼としての情か、女としての情か、判別がつかないのだ。
「あの小娘がいる限り、京士郎は決して傾かぬ」
京士郎が暮らしていた鈴鹿村へ迷い込むあのときに殺しておけば、とも思ったが、もはや遅い。
人の娘だと侮っていた。いまだってそうだ。だが、京士郎にあのような影響をもたらすとは思いもしなかったのだ。
まだ遅くはない。京士郎から上手く離さなければ、と。いま殺してしまえば、京士郎が鬼に堕ちたとして、茨木童子の味方には絶対にならないだろう。
「……邪魔になるのであれば、殺せ。その小娘も、京士郎もともどもだ」
「もちろんだ。だが、あの小娘の魂が甘美な匂いを放っているのは確かで、喰らえばさぞかし精がつくだろう。お前さまの目覚めを三ヶ月は早めるかもしらん。京士郎を引き入れれば我らの計画も盤石のものとなろう。お前さまも見ていただろう、違うか?」
茨木童子がそう聞いた。影は答えない。
くっくっく、と茨木童子は笑った。
「やはり妬いておるだろう? あの晩のことを見ていたんだろう? そりゃあ、てっとり早い手段で接吻したのはやりすぎたかと思ったが。お前さまはともかく、京士郎には少し刺激が強かったか」
「くだらん。俺にはもう、そんなもの残されてはいない」
びしり、と影は言った。茨木童子も冗談を紡いでいた口を閉じる。
「俺はまた眠りにつく。他のやつらも好きに使え。やつらが障害になると判断したならば容赦をするな。一年、時機がずれたとて問題はない」
「御意に」
茨木童子が答えると、影は消えた。
去っていったあとを眺めて、嘆息する。
まったく、素直にならないやつだ、と。京士郎のことが、離れた弟が気になって気になって仕方ないくせに。
本当によく似ている。容姿もさることながら、性格も、力も、その有り様も。京士郎はそっくりであった。
自身の思い出と、京士郎の姿が重なる。
同じ悲しみと、同じ寂しさを持つ彼は、やがて自分たちと同じ道を辿るだろう。
気づかせてやらねばならない。大切なものを失ってからでは、遅いのだぞと。
それと同時に、もしかすると、という予感があった。
京士郎は自分たちが思っている以上に、大きなものになっていくのではないか。
「なあ、お前さん。もしかしたら、いつまでも寝てるわけにはいかなくなるやもだぞ」
京は北西、大江山。そこに陣を張り、未だ本体は寝ている愛しい人……酒呑童子に向けて、茨木童子は言った。
第二章完結




