1話 シングルマザー
1970年代後半、初夏のサンフランシスコ。
週末の朝、ラブはベッドで目が覚めた。
少し開いたカーテンの隙間から、乳白色の朝霧が見える。
この季節、サンフランシスコは霧が多い。
ラブは、30歳代のシングルマザーだ。
そして二人の子供たちとアパートの二階に住んでいる。
長女の名前はアマンダ、弟はベンジャミン、二人ともティーンエイジャーだ。
彼らはもう出かけたらしく、部屋の中は静かで、外から、かすかに車の音や人の声が聞こえる。
子供たちは、もう幼子のような手間はかからないけれど、反抗期という別の問題はあった。
それはラブを悩ませる。
とは言え、仕事と家事に追われる毎日で、母親として彼らにかまってやれる時間はさほどない。
ラブは、まだ疲れの残っている重い体を起こすと、キッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。
そしてオレンジジュースの入ったボトルを取り、それをグラスに注ぐ。
その時、ドアのベルが鳴った。
ラブは、アマンダが忘れ物をしたのかと思う。
彼女はそうやって、忘れ物を取りに戻ることが多い。
ラブはオレンジジュースを飲みながら玄関へ行くと、ドアを開ける。
すると、そこに立っていたのはアマンダではなく、品の良い婦人だった。
「ジョーン・・・」
ラブはそう言って立ちすくむ。
ジョーンは、ラブの姉だ。
ロサンゼルスに住んでいる。
そしてこの二人は、長い間、会っていなかった。
この二人は、子供のころは仲の良い姉妹だった。
ところがラブにボーイフレンドができると、二人の関係は険悪になる。
ジョーンは、彼のことを気に入らなかったのだ。
彼女は、ラブのボーイフレンドはアルコール中毒の両親がいて、素行もあまり良くないと言った。
それに対し、ラブは、ジョーンの偏見だと答えた。
もちろんジョーンも、そんな環境で育っても立派な大人になった人がいることは知っている。
とは言え、そんなジョーンの心配は、ラブにとって意味はなかった。
人生経験の少ない若い女の子が、自分に優しくしてくれる男の子に熱を上げるのは簡単なことだ。
ラブはそのボーイフレンドと結婚し、東海岸のニュージャージー州へ移り、二人の子供が生まれる。
そしてジョーンが心配していた通り、夫はアルコール中毒になり、離婚し、カリフォルニアへ戻ってきた。
ラブは戻っても、ジョーンには連絡しなかった。
ジョーンのことを怒っている訳ではない。
それは、ラブのプライドの故で、エゴの問題だった。
ラブは、ジョーンが正しかったのは分かっている。
それでも認めたくなかった。
ジョーンは、良い夫と子供たちに恵まれ、プール付きの大きな家に住んでいる。
ラブとは全く違った世界に生きている人だ。
今更、そんな幸せな奥様のジョーンと話が合わないとも思っている。
ジョーンも、そんなラブの性格は分かっていた。
だからラブがその気になるまで、そのままにしておくことにしたのだけれど、彼女にとってラブは可愛い妹であることに変わりはない。
そしてジョーンは、自分から歩み寄ることにしたのだ。
ジョーンは、アパートのドアの外で、ニコニコしながら立っている。
ドアのベルを鳴らす前は、どきどきしていたのだけれど、ラブを見ると自然に笑顔がこぼれていた。
「そんな所に突っ立ってないで、入んなさいよ」
ラブは、無愛想に言った。
ラブはそう言いながら、最後にジョーンに会ったのはいつだっただろうと思う。
子供たちが生まれる前だから、二十年近くにもなるはずだ。
ジョーンはもう40歳になろうとしていた。
もうあの若々しさはないけれど、満たされた専業主婦の匂いがする。
それは、こんな雑然としたアパートに住み、必死に生きている自分を惨めにさせる。
とは言え、わざわざロサンゼルスからやって来てくれた姉に、自分のこの態度はないだろうとも思う。
思うが、それしか出来ない。
「元気そうで良かったわ。
本当に会いたかったのよ」
ジョーンは中に入ると、ラブを抱擁した。
ラブも、一応、ジョーンの背中に手を当てる。
それがすむと、ラブはジョーンをリビングルームへ案内する。
そしてソファの上に置かれていた雑誌や、子供たちが食べのこしたシリアルの入ったボールを片付ける。
「とにかく座って。
この時間だったら、ずいぶん早くロサンゼルスを出たんでしょ?
それとも、昨日来てホテルに泊まった?」
ジョーンは、ハンドバッグを持っているだけだ。
遠出をするには荷物が少なすぎる。
「今朝、一番の飛行機よ。
それに、今日中には帰るつもりなの」
「えっ? 泊まっていかないの?」
そのラブの言葉に、ジョーンは頬をほころばせる。
「嬉しいわね。 泊まってもいいの?」
ラブは、しまったと思うのを隠すかのように答える。
「ロサンゼルスからわざわざ来たんだから、まさか追い返すわけにも行かないでしょ」
「ありがとう。
そうしたいんだけど、突然だったし、あなたがいないかもしれないから日帰りにしたの」
ラブは、話題を変えようとしてそれに続けて言う。
「そうよ、もし私が仕事に出ていたら、どうするつもりだったの?」
ジョーンは、笑いながらそれに答える。
「そうね、その時は、アマンダとベンジャミンにだけでも会えたらと思っていたの。
あなたが許すならね」
「許すだなんて・・・別に、会うのを禁じている訳じゃないわ」
「そう、それは良かったわ。
まあ時間はまだ十分にあるから、今日一日、ゆっくりできるわよ」
ラブは、いつかこんな日が来るとは思っていた。
自分がカリフォルニア州へ戻ってから、何人かの友人や家族とは連絡を取り合っている。
それでも、ジョーンにだけは連絡していなかった。
もちろん、ジョーンが自分を待っているのを分かっていたのにだ。
そしてラブは、そんな自分はなんて頑固者なのだろうと思う。
「ラブは、サンクエンティン刑務所で働いているんですって?」
ジョーンは、キッチンでコーヒーを入れているラブに向かって言った。
「そうよ」
「刑務所だなんて怖くはない?」
「そんなことは言ってられないわよ。
二人の子供を育てなきゃならないんだし」
「そうね・・・
父親から養育費はもらえないの?」
それを聞いてラブは、笑い出す。
「そんなもの、当てにしてないわ。
もう、どっかの街角で野垂れ死んでいるんじゃないの」
ジョーンは、そのラブの言い方から、彼女が苦労したのだと思う。
そしてジョーンが何かを言おうとすると、ラブは笑うのをやめて、拒否するかのように口を硬く閉めた。
ラブは、同情されるのが嫌だった。
特にジョーンからだ。
そして、強がるように話を続ける。
「とにかく、私は大丈夫。
それに、上司に、コレクションオフィサーにならなかって誘われているの」
「コレクションオフィサー? 女性の?」
「そう」
「なれるの?」
「まあ、カリフォルニア州では初めての女性のコレクションオフィサーになるわね」
「すごいじゃない!」
そのジョーンの言葉に、ラブは少し優越感を覚える。
それまでラブは、この上司の勧めをどうするのか迷っていた。
そして思う。
「そうだ、カリフォルニアで始めての女性のコレクションオフィサーになろう」
生きていくのに必死で、あまり希望の無かったラブは、この時、一筋の光が見えるような気がした。




