第7話「五月、六人の最初の杯」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
配属から二週間が過ぎた、五月の中旬の金曜日。
同期六人で、初めての飲み会をすることになった。
言い出したのは丸山くんだった。木曜日のお昼休み、社員食堂でたまたま六人が揃った時、丸山くんがこう切り出したのだった。
「皆、配属されてからばたばたしてるっすよね。一回、皆でどっか行きませんか? 歓迎会、まだ社内ではちゃんとやってもらえてないっすし」
全員が即座に頷いた。
お店は葉山さんが探してくれた。駅前にある「居酒屋・かいかん」という店。地元の人がよく通うお店らしい、ということを葉山さんは寮の管理人さんから聞いてきたそうだった。
金曜日の夜、七時。
桜並木通りの若葉が街灯の光に照らされて、夜の中でほんのり緑色に光っていた。仕事を終え、寮で一度シャワーを浴び、私服に着替えて店に向かった。
店の引き戸を開けると、暖かい空気と出汁と魚の焼ける香りが、ふわっと僕を包んだ。
「いらっしゃい!」
大将らしい男性の声が、奥から飛んできた。
六人席は店の小上がりに用意されていた。すでに葉山さん、黒木、丸山くん、杉本さんが座っていた。アユシュさんは僕の少し後に入ってきた。
小上がりの端に、皆のかばんが寄せて置いてあった。その中で、丸山くんの黒いリュックだけ、ファスナーのところに小さなキーホルダーが揺れていた。まるい、ねこのマスコット。日に焼けた腕と、がっしりした体格の人の持ち物としては、少しだけ意外だった。
「丸山くん、それかわいいね」
葉山さんが目ざとく見つけた。
丸山くんは、一瞬だけ言葉に詰まってから、照れたように頭を掻いた。
「あー、それっすか。トラック乗ってたころ運転席が寂しいんで、こういうの飾ってたんすよ。一人で長距離走ってると、なんか、ね。その名残っす」
「意外」
黒木がぼそりと言った。
「でしょ? よく言われるっす。強面なのに、って。でも、好きなもんは好きっすから」
丸山くんは、ぜんぜん気にしていない様子で、からっと笑った。
「全員、揃ったね」
葉山さんが軽く頷いた。
「とりあえず、生?」
丸山くんが皆を見渡した。
「私、生」
葉山さんが即答した。
「俺は、ウーロン茶で」
黒木が短く言った。
「Beer for me」
アユシュさんが笑った。
「私は、レモンサワー……あ、でも、最初の一杯は、皆さんに合わせます。生で」
杉本さんが控えめに言った。
「俺は、生っす」
丸山くんは、自分のこともしれっと付け足した。
僕は生ビールを頼んだ。
注文には、性格が出た。葉山さんは即決で生ビール。丸山くんも生。黒木はメニューを三十秒読んでから、ウーロン茶。二十歳になってから、と短く付け足した。アユシュさんは「same, please」。杉本さんはレモンサワーを頼みかけて、最初だけ皆に合わせます、と生に変えた。僕は最後で、いちばん考える時間があったのに、結局、生。
五つの生ビールと、ウーロン茶がひとつ。同じテーブルでも、そこへ来る道筋が、六人ぶん違った。
飲み物が来て六人で乾杯した。
「乾杯」
全員の声は、揃わなかった。葉山さんと丸山くんは「乾杯!」、黒木は「乾杯」、アユシュさんは「Cheers!」、杉本さんは「乾杯です」、僕はたぶん、いちばん小さな声で「乾杯」と言った。
声が揃わないことがなぜか、僕には心地よかった。
最初の一杯は皆、ぐっとまとまった量を飲んだ。
「ふうー、染みるっすね」
丸山くんがジョッキを置いた。
「染みる、ってなんかおじさんっぽいけど、わかる」
葉山さんが笑った。
「葉山さん、おじさんっぽくはないっすよ」
「丸山くん、その『〜っす』、本当に規則的に出てくるね」
葉山さんがにっと笑った。
「これ、運送会社時代の癖なんすよ」
丸山くんは自分の頭を軽く掻いた。
「現場で上司に何か言う時、語尾を強めにするとトラブルになるんで、緩く返事する癖がついて、結果『っす』になったんすよ」
……「っす」にも来歴があるのか。
心の中で僕は思った。
「丸山くん、運送会社、どれくらいいたの?」
葉山さんが聞いた。
「七年っす。トラック、関東一円走り回ってました」
「七年ドライバーで、よくエンジニアに転向できたね」
「いやー、それなんすよ。俺、運送会社の経理部の人がね、Excelで超大量の売上集計やってるの見て『これ、自動化できないかな』って思って独学で始めたんす」
丸山くんは二杯目の生ビールを頼みながら、続けた。
「で、最初は自分の会社の業務改善でちょこちょこやってたんすけど、面白くなってきて。会社の仕事が終わってから、夜中、プログラミング教材で勉強して、二年半、独学で続けて、今年転職したっす」
「すごいな……」
杉本さんがしみじみと言った。
「いやー、すごくはないっす。ただ、面白かったから続いただけっす」
「面白かったから、続いた」
葉山さんが繰り返した。
「それ、たぶんいちばん強い理由ね」
丸山くんは照れたように、ジョッキを傾けた。
黒木がそれを見て、小さく笑った。本当に小さな笑いだった。けれど、確かに笑った。
「黒木は、どこの出身?」
葉山さんが黒木の方を向いた。
「県内」
黒木は一言で答えた。
「具体的には?」
「港川市から、車で一時間くらい」
「県外、出たことある?」
「……ない」
黒木はそう答えて、グラスのウーロン茶をぐっと半分くらい飲んだ。
「県外の人、多くて緊張する」
付け加えた言葉はいつもの黒木よりも短かった。けれどその短さの中に、明らかに本音があった。
全員が黙った。
黒木の正直な言葉に何を言うべきなのか、皆たぶん、迷っていた。
最初に口を開いたのはアユシュさんだった。
「Kuroki, you're not alone. I'm from Nepal. So, I'm『県外』, too. We can be『県外仲間』」
全員が笑った。
黒木が最も大きく笑った。
「ありがとう、アユシュ」
「No problem」
六人で飲んでいると、年齢の幅が、ふと見えた。県外に出たことがないと言った黒木は、十九。僕と葉山さんと杉本さんは二十二。アユシュさんは二十四。そして丸山くんは二十五で、この中の最年長だ。
葉山さんは、その年齢の幅を、ぜんぶ見ていた。誰がどんな顔で飲んでいるか、目だけで、ゆっくり一周させていた。考えごとをするとき、肩までの髪の毛先を指でくるくる巻くのが、葉山さんの癖らしかった。
ふと、葉山さんがお通しの小鉢を持ち上げた。その持ち方が、妙に、きれいだった。背筋も、いつのまにか、まっすぐだ。安い居酒屋の小上がりに、その所作だけ、別の場所から来たみたいに浮いていた。
葉山さん自身も気づいたらしい。小鉢を置いて、ふっと笑った。
「……育ち、出ちゃうね。気をつけよ」
そう言って、また毛先を、くるくる巻いた。
「丸山くん、七年も働いてからよく転職したよね」
葉山さんが言った。
「そっす。社会人としては先輩でも、エンジニアとしてはここにいる全員が俺の先輩っす」
丸山くんは、まっすぐそう言った。卑下でも、謙遜でもなかった。事実を、事実として置く言い方だった。
「待遇も、新卒と同じスタートっす。七年トラック乗ってても、業界は未経験だから、年齢ぶんも経験ぶんも色はつかない。新卒と、横並びっす」
「それ、悔しくないの?」
葉山さんが聞いた。
「いやー、ぜんぜんっす。むしろ、すっきりっす。下手に前職を持ち込むより、ゼロから裸一貫で飛び込んだほうが、気合が入るっす」
裸一貫、という言葉が、丸山くんには、よく似合った。
「黒木さんなんて、十九でこれだけ手が早い。すげぇっすよ。俺、その歳のころトラックの助手席で寝てたっすから」
黒木が、また小さく笑った。
配属の日に「丸山くんで」と言ってくれてから、僕らはもう、丸山くん、と呼んでいる。けれど丸山くんのほうは、相変わらず「桐谷さん」「黒木さん」と、さん付けを崩さない。年下にも、さん。七年、いろんな現場で、いろんな年齢の人と働いてきた人の、距離の取り方だった。こちらはくん、自分はさん。その非対称が、丸山くんらしかった。
アユシュさんはジョッキを傾けて、こう言った。
「By the way, ジャパニーズ・ビール、おいしい、very much」
全員がまた笑った。
「ネパールのビールも、ありますよね?」
葉山さんが聞いた。
「Yes, but, ジャパニーズ・ビール、cleaner」
「クリーンなビール、ね」
「Clean, yes. And, cold. Always cold. Nepal, sometimes, not so cold」
アユシュさんは両手を広げて、寒さの表現をしてみせた。仕草がなぜか可愛かった。
「アユシュさん、日本にいつから?」
杉本さんが聞いた。
「Three years ago. 大学院、二年。それから、研究室でもう一年。それから、Yokiel、就職です」
「ご家族は、ネパール?」
「Yes. Father, mother, and one sister. 妹、Sabina、と言います。今、十六歳、ハイスクール。研究、好きです。仕事も、頑張ります」
……アユシュさん、お兄ちゃんなのか。
心の中で僕は思った。
「桐谷くんは、家族どんな?」
葉山さんが僕に振ってきた。
「両親と、妹がいます。妹は高校一年生」
「妹、可愛い?」
「うざい」
葉山さんが笑った。
「お兄ちゃんっぽい返事、ね」
杉本さんの手元では、生のジョッキがいつのまにか空になり、代わりに淡い色のレモンサワーが置かれていた。最初の一杯だけ皆に合わせて、ここからは、本当に頼みたかったものに戻したらしい。そのレモンサワーをゆっくり飲みながら、杉本さんはこう言った。
「私、姉が一人います。五歳上でもう結婚しています。家族は、埼玉に皆」
「杉本さんも、関東から?」
「はい、生まれは埼玉、大学も埼玉から関東の私立大学に通っていました」
「文学部、史学科だっけ」
「はい、近世日本史専攻でした」
杉本さんはレモンサワーを、もう一口、飲んだ。
「IT、本当に未経験で。配属はパッケージ事業チームのサポート/QAですけれど、二週間、毎日『これ、何の話?』って思いながら過ごしています」
「分からないことを分からないと、言えるっすね」
丸山くんが感心したように頷いた。
「私、文学部だから、たぶん皆さんのような論理的な思考が苦手です。でも、文章を読み解くのは得意なので、そっちで貢献できたらと思っています」
「分担、っすね」
「はい、分担」
杉本さんは控えめに頷いた。それから、少しだけ考えるように、続けた。
「あと、たぶん。『何を作るか』より『なぜ作るか』のほうが、私、気になるみたいで」
「なぜ、作るか」
葉山さんが繰り返した。
「お客様の問い合わせを読んでいると、たまに思うことがあって。この機能、本当に要るのかな、って。……まだ、新人が言うことじゃないですけど」
杉本さんは、自分の言葉に照れて、レモンサワーに口をつけた。
……なぜ、作るか。
その問いは、僕にはまだ、なかった視点だった。
空いたジョッキが下げられ、新しい飲み物が運ばれてきた。
「桐谷くんは、どう? 最初の二週間」
葉山さんが僕の方を向いた。
「諏訪さんのチーム、よかった?」
「うん、よかった」
「いま、何やってるの」
「ドキュメントを読んでる。あと、Slackで質問すると返事が二種類来る」
「二種類?」
「うん。……これは、また今度」
うまく言える形になっていない観察を、僕はまだ手の中で転がしていた。
答えてから、僕は少し迷った。
白瀬さんと赤坂さんの違い、立花さんと古川さんの空気、それをどこまで話していいのか、まだ決めかねていた。
迷っているうちに葉山さんがこう言った。
「ま、それぞれの場所で観察してるよね、皆」
……観察。
その一言で、僕の中の迷いがふっと消えた。
「葉山さんは、チームBどう」
質問をこちらから振ってみた。
葉山さんはジョッキを軽く揺らした。
「『美月ちゃん』って、たぶん五十回呼ばれた」
答えになっているような、なっていないような、答えだった。
でも僕にはその意味が、ちゃんと伝わった。
葉山さんと、目が合った。
葉山さんも、僕と目が合った。
お互いにたぶん、同じことを考えていた。
言葉にしなくても伝わる。それがこういう時の、いちばんいいコミュニケーションなのかもしれない。
飲み会は十時頃まで続いた。
最後の方は、丸山くんと黒木が、トラックの話と組込みの話で、なぜか盛り上がっていた。
「黒木さん、組込みってなに作るんすか」
「工場の検査装置とか。あとは趣味で、家のセンサーを作ってる」
「家の、センサー?」
「温度と、湿度。最初はラズパイで動かしてた。今は、マイコンに自分で書き込んで、基板も自分で起こす」
黒木の口数が、急に増えていた。普段は一言で終わる人が、自作の話になると、目の奥が違った。
「それ、楽しいんすか」
「楽しい。世界で一個だけの、自分の装置だから」
……世界で一個だけ。
その一言に、黒木の芯のようなものが、ちらりと見えた気がした。
「Kuroki、ラズパイ、私も使った。大学院でデータを集める時」
アユシュさんが、料理の話の輪から、ひょいとこちらの輪に移ってきた。
「センサー、何を使ってる?」
そこから先は、部品の名前と通信方式の話になって、僕にはほとんど分からなかった。分からなかったけれど、黒木とアユシュさんが初めて長い会話をしているのは、分かった。組込みチームの二人が、仕事の外で、仕事の言葉で繋がっていく。
杉本さんが、僕の隣で小さく言った。
「あの二人、月曜日からもっと話すようになりますね、きっと」
「うん、たぶん」
杉本さんの観察も、なかなか鋭かった。
それからアユシュさんはネパール料理の話に戻って、葉山さんと杉本さんに、熱心に続きをしていた。
お会計は一人三千五百円だった。幹事の葉山さんが一円単位まできれいに割って、最後に残った十円を誰が持つかで、三分ほど揉めた。最終的に、十円は次回の幹事が預かる、という決まりができた。それを「制度」と呼んだのは、杉本さんだった。
店を出て、夜の桜並木通りを六人でゆっくり歩いた。
寮への道、駅への道、それぞれの別れる場所が来た。
「皆、月曜日、また」
葉山さんが軽く手を振った。
全員が軽く手を振った。
寮に戻ってシャワーを浴び、机に座った。
まだ、ほんのり酔いが残っていた。
スマホを開くと、大学同期のLINEグループにメッセージがたくさん流れていた。
早川:こっち、入社1ヶ月で、残業もう80時間
早川:新人なのに、上限ギリギリ
早川:辛い
早川:メンタル、もう、限界かも
三浦:早川、それ、産業医とか、いないの?
早川:いるけど、今、面談、二ヶ月待ち
三浦:二ヶ月!?
安西:私のとこ、市役所だけど、相談できる窓口は、ある
安西:早川、ヤバそうなら、転職、考えていいよ
西原:大手通信、私のとこも、相談窓口は、ちゃんとある
西原:早川、無理しないで
山本:研究室から、応援
山本:いつでも、戻っておいで(言い方が変だけど)
僕はしばらく、画面を見ていた。
送られた時間を見ると、ちょうど僕らがヨキエルの飲み会で笑っていた頃と重なっていた。
同じ夜の、同じ国の、別の場所。こちらは十円の預かりで笑っていて、あちらは産業医の面談が二ヶ月待ちだった。新卒、という同じ言葉の下に、こんなに違う夜がある。
三浦:桐谷、お前のとこ、どう
三浦:地方のIT中小、楽そうだから、暇だろ?
最後の三浦からのメッセージは僕宛てだった。たぶん皆で、僕の返信を待っているのだろう。
しばらく、何を書くべきか迷った。
書きすぎると、自慢しているように見える。書かなさすぎると、冷たく見える。
迷った末、こう書いた。
蒼太:今日、同期六人で、初飲み会だった
蒼太:皆、それぞれ違う場所から来てて、面白かった
蒼太:早川、無理しないで
蒼太:転職するほど、辛いなら、それも、いいと思う
送信してから、もう一行、付け足した。
蒼太:でも、早川は、早川のペースで、決めればいい
送信した。
しばらくして、早川から返信が来た。
早川:桐谷、ありがとう
早川:お前の言葉、なんか、ほっとした
早川:皆も、ありがとう
LINEのグループはそれからしばらく、静かになった。
僕はスマホを置いて、ノートを開いた。
今日のページに、こう書いた。
同期六人で、飲み会。
葉山さんは、関東から。
黒木は、県外、出たことがない。
アユシュさんは、ネパールから。お兄ちゃん、妹あり。
丸山くんは、運送会社七年、独学転向。
杉本さんは、埼玉。文学部史学科卒。
僕は、地元の県立大、情報科学部。
六人、それぞれ違う場所から、ここに来た。
書きながら、僕はほんの少しだけ笑った。
ふと、丸山くんの言葉が、頭の隅に残っていた。面白かったから、続いた。丸山くんは仕事のあと、夜中に二年半、独学を続けた。誰にも言われずに。
……僕は、いまやっていることを、面白いと思えているだろうか。
配属されて、まだ二週間。覚えることに必死で、面白いかどうかなんて、考える余裕もなかった。でも、丸山くんの「面白かったから」が、僕の中に、小さな棘のように残った。いつか僕も、義務ではなく、面白くて続けられる何かに、出会えるだろうか。
書き終わって、もう一行書いた。
大学同期、東京の会社で、辛いらしい。
ペンを置いた。
窓の外、五月の夜、街の灯りがいつもよりぼんやり見えた。たぶん酔いのせいだ。
明日は土曜日。
明日はゆっくり寝るつもりだった。
今日、僕はたくさんの人の、それぞれ違う場所からの来歴を聞いた。
それをノートに書き留めた。
たぶんこれからも、たくさんの場所からの、たくさんの来歴を聞くことになるのだろう。
そして、それを僕は書き留めるのだろう。
観察、という言葉を、僕はまた心の中で繰り返した。
この六人が三年後、どこで何をしているのか。今は誰も、たぶん、分からなかった。




