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新卒エンジニア、観察ノートを開く(上巻) 観察を、始める  作者: 音無 凪


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第6話「美月、五月のある日」(インタールード①)

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

※ この章は、葉山美月の視点で描かれています。


 五月の最初の月曜日。


 朝六時に、目覚ましが鳴った。


 布団の中で、しばらく天井を見ていた。寮の天井は白くて、何の模様もない。実家の天井は木目が走っていて、子供の頃に「象に見える」と思っていた節があった。あの節は東京から見れば、もうずっと遠い場所にある。


 布団から出て、カーテンを開けた。


 港川市の朝はまだ少し冷たい。窓を細く開けると、若葉の匂いの混じった空気がするっと部屋に入ってきた。実家の住宅街では絶対に嗅げない匂いだ。


 スマホに、母からのLINEがすでに来ていた。


母:美月、起きた?

母:今日、月曜日だから、また一週間頑張ってね

母:お弁当、ちゃんと食べてる?


 時刻を見ると、午前五時五十八分。母は私の目覚ましが鳴る二分前にメッセージを送ってきていた。たぶん、私が起きる時間をちゃんと計算している。


 私は軽く笑って、返信した。


私:起きた、おはよう

私:お弁当は、社員食堂があるから、まだ作ってないよ

私:でも、心配してくれてありがとう


 母からの返信はすぐに来た。


母:あ、ごめんごめん、社員食堂ね

母:でも、たまには手作りも、いいかもよ

母:今度の連休、帰ってこられそう?


 返信を打ちながら、迷った。


 連休に帰省すると、母は喜ぶ。けれど私はまだ、ここに慣れたいと思っていた。慣れる前に帰ると、また関東の感覚に戻ってしまう気がする。


私:今回は、ここに残ってみる

私:夏休みには、帰るよ


 送ってから、画面を閉じた。


 母はたぶん、少しだけ寂しそうな顔をするだろう。けれどそれは母の顔。私の顔はたぶん、もう少しだけここで自分の場所を作りたいと思っている顔だ。


 シャワーを浴びて、今日の服を選んだ。白いブラウスに濃紺のジャケット、グレーのパンツ。地味な組み合わせ。けれどここでは、これくらいがちょうどいい。


 関東の友達なら、もう少し色のあるトップスを選ぶかもしれない。でもヨキエルのフロアで明るい色のトップスを着ている女性社員を、私はまだ一人も見たことがなかった。


 ……たぶん、これは観察した方がいい項目だ。


 心の中で、ふとそう思った。


 桐谷くんが言いそうな言葉を、私が頭の中で言っていた。


 


 寮を出て、桜並木通りを歩いた。


 桜の花はもう完全に散っていた。代わりに若葉が、明るい黄緑色の影を地面に落としていた。歩道の隅に薄茶色になった花びらが、まだ少しだけ吹き寄せられたまま残っていた。


 風が頬に当たる。


 関東の風と明らかに違う。湿度が低い。空気の重さが軽い。山に囲まれた盆地の風だから、なのかもしれない。


 ……来てみないと分からないことが、たくさんある。


 心の中でそう思った。


 


 ヨキエルのビルに着いて、エレベーターで三階に上がった。


 チームBのフロアはチームAと並んで、同じ階にあった。窓側がチームA、廊下側がチームB。物理的な距離はほんの数メートル。けれど空気は、まったく別の部屋のようだった。


 チームBの島には、もうほとんどの人が来ていた。


 マネージャーの江口さんは自分の席で、新聞を広げていた。会社の業界紙ではなくて、たぶん駅で買ってきた一般紙だ。


「おはようございます」


 声をかけると江口さんは新聞から目を上げず、片手だけ軽く挙げた。


「あ、はい、おはよう」


 ……一週間、毎朝、同じやり取りをしている。


 心の中で、私は思った。


 チームBの先輩は、シニアエンジニアが二人と中堅が一人。マネージャーの江口さんを入れて、四人。そこに新卒の私と、丸山くんが入った。合計六人のチーム。


 私が席に着くと、中堅エンジニアの先輩、沢田さんが声をかけてきた。四十前後、声がやや高めで、笑うと目尻が下がる。同じチームAの立花さんと、口調も表情もどこか似ている人だ。そして、私を「美月ちゃん」と呼ぶ。


「葉山さん、今日もよろしくね、美月ちゃん」


 ……「葉山さん」と「美月ちゃん」を、一文の中で両方使う。


 その瞬間、私の中で何かが少しだけ、ぴくっと動いた。


 でも私は、笑顔で頭を下げた。


「はい、よろしくお願いします」


 


 九時十五分から、チームBの朝会が始まった。


 立ち話のスペースに、六人がぐるりと立つ。けれど輪になる、という感じではなかった。江口さんが新聞を持ったまま輪の真ん中に立ち、他の五人がそれを取り囲むような形だった。


「えーと、皆さん、おはよう。今日もまあ、いつものようによろしく」


 江口さんはそれだけ言った。


「で、新卒の二人、何かあったら、現場の若い人に適当に聞いて」


 ……現場の若い人。


 配属の研修の時にも聞いた言葉だ。あの時にはまだ、抽象的に聞こえていた。今、改めて聞くと、よりはっきりした意味が見えてきた。


 「現場の若い人」というのはつまり、自分以外、ということだ。


 朝会が終わって、私は自分のタスクに取り掛かった。


 午前中の仕事は、Excelシートの整理だった。顧客の月次報告書のテンプレートを、見やすく作り直す、という作業。技術的に難しいことは何もない。けれど、量は多い。


 お昼前に、沢田さんが私の机に近づいてきた。


「美月ちゃん、ちょっと、お願いがあって」


 ……また「美月ちゃん」だ。


 心の中で、私は思った。けれど表情は変えなかった。


「今日の午後、一時から、A社さんとの定例があるんだけど、議事録、お願いできる?」


 依頼の言葉は丁寧だった。けれど最後の一言がなぜか、私の中にすんなりと入ってこない。


 「お願いできる?」と丁寧に聞かれている。けれど、断ったらどうなるんだろう。


 ……断った人を、私はまだ、このフロアで見たことがない。


 心の中で、私は首をかしげた。


「はい、書きます」


 頭を下げた。


 その先輩は満足したように、自分の席に戻った。


 


 お昼休み、私は社員食堂に降りた。


 六人席の隅に、私は一人で座った。今日は新卒の他のメンバーは、それぞれ自分の部のフロアでお昼を取るらしい、と社内Slackのプライベートチャンネルで連絡が回っていた。


 和定食をゆっくり食べた。


 食べながら、スマホを開いた。Instagramのストーリーズに、関東の友達の今日の朝が、ぽつぽつと並んでいた。新宿のカフェ、原宿の新しいブランドのオープン、表参道のランチ。皆いつもの日常を、いつものように撮って上げていた。


 ……皆、忙しそうで、楽しそうだ。


 そう思いかけて、私は自分を止めた。


 「楽しそう」と「忙しそう」を、私はよく一緒にしてしまう癖がある。けれど二つは本当は、違うことだ。私が東京で見ていた友達の中には、忙しすぎてメンタルが擦り減って、休職した子もいた。


 ……私はここで、何をしようとしているんだろう。


 心の中で、ふとそう思った。


 答えは今日もすぐには、出なかった。


 


 午後の定例会議は、長かった。


 会議室にはA社の担当者三人、ヨキエル側から五人、合計八人。私を含めて。私は一番下座の席でMacBookを開き、議事録を取っていた。


 会議の中身は、システム改修のスケジュール調整。本当は、誰もが嫌がる類の話だ。スケジュールが遅れて、でも誰のせいかははっきりしない。皆がぼんやりと、責任を隣の人にずらしていく。


 江口さんは会議の中で、ほとんど発言しなかった。たまに発言する時の言葉は「まあ、現場で決めて」だった。


 ……現場で決めて。


 心の中で、私はその言葉をもう一度繰り返した。


 会議が終わったのは、夕方の四時だった。


 会議室を出てフロアに戻る途中、廊下で桐谷くんとすれ違った。


「あ、葉山さん」


「桐谷くん」


 桐谷くんはConfluenceか何かのドキュメントを、スマホで読んでいたところらしい。すれ違う時にちらっと顔を上げて、私を見た。


「今日、どう?」


 短い、本当に短い、五文字の質問だった。


 でもその五文字がなぜか、私の中にすっと入ってきた。


 桐谷くんは、私が「どう?」の意味を自分で選んでいい、ということを、たぶん分かって聞いてくる。


「大丈夫」


 私はそう答えた。


「と、思いたい」


 付け足した。


 桐谷くんが軽く笑った。


「そうですか」


 それだけ言って、桐谷くんはまた自分のフロアの方に歩いていった。


 ……桐谷くん、たぶん私のことを観察してる。


 でも、それは嫌な観察じゃない。


 なぜか私は、廊下で一人、軽く息を吐いた。


 私の今日の中で、いちばん楽になった瞬間が、その廊下の五秒間だった。


 


 退社して、寮に戻った。


 夕食を食堂で済ませて、自分の部屋に戻った。シャワーを浴びて、ジャージに着替えた。


 MacBookを机の上で開いた。


 画面の中の、私の顔。たまにビデオ通話の準備をする時、自分の顔を見る。今日の顔は朝より、少しだけ疲れていた。


 


 MacBookを閉じて、机の引き出しからノートを出した。


 桐谷くんがノートを使っているのを見てから、私も買っておいた。けれどまだ何も書いていない。書きたいことが明確には、なかったから。


 白いページに、ペンを置いた。


 最初に書いた言葉は、こうだった。


 関東の友達は、忙しそうで楽しそうだ。


 書きながら、これは本当のことを書いていない、と気づいた。


 私はペンで、その一行を消した。


 もう一度、書き直した。


 関東の友達は、忙しい。それと、楽しいかどうかは、別の話だ。


 書き終わってから、その一行をしばらく見ていた。


 次の行に、書いた。


 就活の最後の最後でヨキエルを選んだ理由を、私はまだ誰にもちゃんと話していない。


 「東京の競争が嫌だった」と表向きには言っている。半分は本当だ。


 でも、もう半分は違う。


 私はペンを止めた。


 書こうと思った言葉が、書きにくかった。


 しばらく考えてから、書いた。


 最終面接の前の二次面接で、東京の中堅IT企業の役員が私にこう言った。


 「うちは、家族みたいな、温かい会社ですよ」


 その瞬間、私はその会社の選考を心の中で降りた。


 「家族みたい」と初対面の人に言う会社が、本当に家族みたいに温かいことはない、ということを、私は就活の中で何度も見ていた。


 ヨキエルの最終面接で、遠野CTOはこう言った。


 「うちは、完璧な組織じゃない。良いところも悪いところも両方ある。三年で土台を作る、それが、あなたの責任です」


 「家族みたい」とは一言も言わなかった。


 代わりに「責任」という言葉を、静かな声で言った。


 書きながら、私は自分の選択の理由を初めてちゃんと言葉にした。


 私は、「家族みたい」から逃げて「責任」を選んだ。


 書き終わって、私は深く息を吐いた。


 今日のチームBで、沢田さんが「美月ちゃん」と言うたび、議事録を「お願いできる?」と振ってくるたび、私の中で何かが、ぴくっと動いていた。たぶん隣のチームAの立花さんも、私以外の女性社員のことを、同じ温度の声で「ちゃん付け」で呼ぶ。沢田さんと立花さん、別の人なのに、同じ反応が私の中で出てしまう。あれが何だったのか、今ようやく分かった。


 あれもたぶん、「家族みたい」の別の形だ。


 チームBがすぐに「家族みたいなチーム」になるとは思わない。けれどいずれそうなる予感があった。


 ……その時、私はたぶんここから出ていく。


 心の中で、ふとそう思った。


 まだ配属一ヶ月。早すぎる結論かもしれない。


 でも、私は自分の中でその予感をちゃんと覚えておくことにした。


 ノートを閉じた。


 今夜、桐谷くんと、もし廊下ですれ違ったら、もう一度、軽く挨拶ができるかもしれない。


 桐谷くんはたぶん、私の中の「家族みたい」と「責任」の対比をちゃんと分かってくれる気がする。


 なぜか、そう思った。


 明日も、月曜日の次の、火曜日。


 チームBで沢田さんがまた、私を「美月ちゃん」と呼ぶだろう。


 私はその時、笑顔で頷くだろう。


 でもノートには、ちゃんと書く。


 今日も「美月ちゃん」と呼ばれた。


 その積み重ねが、私の観察になる。


 桐谷くんはたぶん、私のノートのことをまだ知らない。


 いつか見せてもいい、と思っていた。


 窓の外、五月の最初の夜がしずかに更けていった。


 


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