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新卒エンジニア、観察ノートを開く(上巻) 観察を、始める  作者: 音無 凪


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第4話「赤坂、最初の優しさ」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 配属の翌週、月曜日の朝。


 桜並木通りの桜は、もう完全に散っていた。代わりに街路樹の若葉が、五月の少し早いような明るさで、空に広がりつつある。


 今日から、本格的な業務が始まる。


 朝、寮を出るとき、いつもよりずっとネクタイの結び目を念入りに整えた。バスに乗り、いつものバス停で降りて、ヨキエルのビルに入る。


 受付の女性が僕を見て、軽く頷いた。先週までとは違う頷き方だった。先週までは「新卒です、研修室はあちらです」という意味の頷き方。今日は「もう、社員ですね」という意味の頷きだった。


 ……同じ動きでも意味が違うのか。


 心の中で僕は思った。


 三階のチームAのフロアに上がる。


 まだ八時四十五分。始業の十五分前。フロアにはすでに何人か、出社している人がいた。皆、自分の机でコーヒーを飲んだり、ディスプレイを眺めたりしている。


 白瀬さんの席は、すでにきちんと整っていた。白瀬さん本人は、ディスプレイに向かって何かを集中して書いていた。僕が通り過ぎる時、ちらりと顔を上げて、無言で軽く頷いた。


 立花さんは、まだ来ていない。


 古川さんは来ていた。けれど椅子の背もたれに、先週とまったく同じ姿勢で深く沈み込んでいる。机の上のディスプレイには、何かのチャットアプリの画面が映っていた。仕事のものなのか、私的なものなのかは判別できなかった。


 ……古川さん、いつから、ここにいたんだろう。


 心の中で僕は思った。けれど聞ける雰囲気では、なかった。


 そして、赤坂さん。


 僕の席の隣に、赤坂さんの席があった。配属の時には聞いていなかったけれど、OJTトレーナーということで、机をぴったり隣にしてくれたらしい。


 赤坂さんはすでに来ていた。机の上には、コンビニの袋が一つ置いてあった。中身は菓子パンと、ペットボトルの飲み物。


「桐谷くん、おはよう!」


 赤坂さんは僕を見つけると、椅子から半分立ち上がるくらいの勢いで、笑顔を向けてきた。


「おはようございます」


 頭を下げて、自分の席に座る。


 赤坂さんは僕の方に椅子をぐるりと回して、向き合うような姿勢になった。


「初日だね! 最初は、緊張するよね。まず、PCのセットアップから始めよう」


 赤坂さんは僕の机のPCに、自分のIDとパスワードでログインしてみせた。それからSlackと、Confluenceと、Gitのアカウント設定の手順を、ぱっぱっと進めてくれた。


「分からないこと、何でも聞いてね。うち、優しい人ばっかりだから、本当にどんな質問でも、大丈夫だよ」


 ……「優しい人ばっかり」。


 その言葉を赤坂さんは、配属の日にも言っていた。今日も同じ言葉を、同じトーンで繰り返している。


 頷いた。けれど心のどこかで、ほんの少しだけ、ざらっとした感触があった。


 なぜざらっとしたのかは、自分でも分からなかった。


 Slackに、最初の通知が来た。


 チームAの全員が入っている#team-aチャンネルに、誰かが「桐谷蒼太さん、本日からチームAに参加です」と投稿してくれていた。投稿者は、白瀬さんだった。


 その投稿に、絵文字のリアクションがいくつか付いている。


 赤坂さんは、クラッカー。

 立花さんは、サムアップ。

 古川さんは、拍手。


 諏訪マネージャーが、コメント付きで反応していた。「桐谷くん、ようこそ。ゆっくり、確実に、慣れていきましょう」


 ……諏訪さん、書く言葉も、温度が安定してる。


 心の中で、僕は思った。


 九時の少し前、立花さんが出社してきた。


 立花さんは自分の席に着く前に、僕の机の前を通った。立ち止まり、こちらを向く。


「桐谷くん、おはよう。今日からよろしく」


 声は明るかった。笑顔も、きれいだった。


「立花さん、おはようございます。よろしくお願いします」


 頭を下げると、立花さんは軽く僕の肩を叩いた。


「困ったことあったら、いつでも僕にも、聞いてね」


 言葉は温かかった。


 けれど肩を叩く手の動きが、なぜか、ほんの少しだけ軽すぎる気がした。


 ……気のせいだ、たぶん。


 心の中で、自分にそう言い聞かせた。


 立花さんが自分の席に着いた。


 古川さんは相変わらず、椅子の中に沈み込んでいる。立花さんが「おはよう、古川」と声をかけたけれど、古川さんは「ども」と一言、答えただけだった。


 午前中の業務は、Confluenceで社内のドキュメントを読む、という作業だった。


「うちの製品、こことここに書いてあるから、まず読んでおいて」


 赤坂さんがConfluenceのリンクを、いくつか送ってくれた。


 リンクを開いてみると、ドキュメントの量はとんでもなく多かった。製品の概要、アーキテクチャ、デプロイ手順、運用ルール、過去の障害事例、そのそれぞれが何百ページもある。


 ……これ、全部、読むのか。


 心の中で、軽くたじろいだ。


 しかしドキュメントを少し読みはじめると、内容自体は丁寧に書かれていた。一つの操作の手順を説明するページに、なぜそうするのか、という理由まで、ちゃんと書いてある。書いた人の名前が、ページの下に出ていた。


 そのページの一つの作者欄に、「白瀬 凪」という名前が見えた。


 別のページにも、「白瀬 凪」。


 また別のページにも、「白瀬 凪」。


 ……白瀬さん、ほとんど一人で書いてないか。


 心の中で、僕は思った。


 


 お昼休み。


 赤坂さんが、僕を社員食堂に連れていってくれた。


「桐谷くん、何食べる?」


「えっと、和定食を」


「俺は、ラーメン!」


 赤坂さんは、即決だった。


 六人席の隅に二人で座った。同期の他のメンバーはそれぞれ別の部のフロアにいるので、今日のお昼は僕は赤坂さんと二人だった。


 昼前の食堂はまだ空いていて、窓際の席から港川の山並みがよく見えた。壁には地元の取引先らしいカレンダーが何枚か掛かっている。みなと信用金庫、港川物流。名前だけは、研修で諏訪さんが挙げた顧客と重なっていた。和定食の味は、寮の食堂のものより少しだけ濃かった。


「桐谷くん、初日、どう?」


「色々、新鮮です」


「だよねー。最初は、何もかも新しいよね」


 赤坂さんはラーメンを大きくすすった。


「うちの会社、楽だよ」


 ……楽。


 その一言が僕の中で、ぴくっ、と止まった。


「楽、ですか」


「うん、楽。残業も、まあ、月二十時間くらいだし、上司も変な人いないし、客先も、まあ、地元の銀行とか製造業とかで、東京の理不尽な客みたいなのはいないし。俺、新卒で東京の中堅IT入ったんだけど、二年で疲れてさ、こっちに来たんだよね」


 東京、と言ったとき、赤坂さんの目が、一瞬だけ、遠くを見た。疲れて逃げてきた場所のはずなのに、その言い方には、どこか、未練のような色が混じっていた。


 ……気のせいかもしれない。


 でも、楽だ楽だと繰り返す人の声は、なぜか少しだけ、楽じゃなさそうに聞こえた。


 赤坂さんは明るく続けた。


「だから、桐谷くんも、リラックスして、ゆっくりやればいいと思う。三年ぐらいは、こんな感じで過ごせばいいよ」


 ……三年はこんな感じで過ごせばいい。


 心の中で僕はその言葉を、ゆっくり、噛むように繰り返した。


 研修の最後の日、遠野CTOが言った言葉と、なぜか噛み合わなかった。


「半径3メートルから、変えていく」


「両輪、技術と事業」


「観察、自分の目で、見て、考える」


 あの言葉と赤坂さんの「楽でいい」「ゆっくりやればいい」とは、何かが違う。


 ……でも赤坂さんは悪い人じゃない、たぶん。


 もう一度、自分に言い聞かせる。


「楽な会社、っていうのは、いいですね」


 言葉を選んで僕はそう答えた。


 赤坂さんは嬉しそうに頷いた。


「でしょ? だから、桐谷くん、いっぱい仲良くしようね、うち、本当に、優しい人ばっかりだから」


 ……優しい人ばっかり。


 その言葉が午前中から、ちょっと重ねて聞こえすぎていた。


 


 午後、僕は最初のタスクをもらった。


 Confluenceのページの一つに誤字脱字の修正と図の更新、という地味な作業だった。


「これ、新人の人にやってもらう、定番のタスクなんだよ」


 赤坂さんが笑いながら教えてくれた。


「お、新卒、桐谷くんからも、社内文化を変えてもらえると、助かる」


 立花さんが後ろから声をかけてきた。


「ありがとうございます、頑張ります」


 頭を下げて僕は最初のタスクに取りかかった。


 


 夕方、五時を過ぎた頃、白瀬さんが僕の机の方にちらりと目を向けた。


 目が合ったとき、白瀬さんは無言で軽く頷いた。それからまた自分のディスプレイに戻った。


 ……白瀬さん、見ていたのか。


 心の中で僕は少しだけ緊張した。なぜ緊張したのかは自分でもよく分からなかった。


 六時半、僕は最初の小さな仕事を終えた。


 


 退社して寮に戻る。


 夕食を食堂で済ませ、自分の部屋に戻った。シャワーを浴び、机に向かう。


 


 ノートを開いた。


 今日のページに僕はこう書いた。


 配属、初日。


 赤坂先輩、優しい人。何でも聞いて、と言ってくれた。


 それからペンを一度、止めた。


 書きかけた次の文字がすんなり出てこなかった。


 しばらく白い紙を見ていた。


 それから、こう書いた。


 でも、何かが引っかかる。


 書いた後、自分でも少しだけ驚いた。


 「優しい人」と書いたその下に「引っかかる」と書く自分が、何を観察しているのか、まだ自分でもはっきりとは分からなかった。


 ただノートに書いてしまった以上、その引っ掛かりはこれから先、僕の中に残り続けるのだろう、ということは、なんとなく分かった。


 ペンを置いた。


 窓の外、五月の最初の夜、街の灯りがぽつ、ぽつ、と点っていた。


 明日もまた業務がある。


 明日、白瀬さんが僕に何か声をかけてくれるだろうか。


 ふと、そんなことを思った。


 たぶん声はかけてくれない。


 白瀬さんはたぶん、そういうタイプの人ではない。


 ……でも見ていてくれることは、ある。


 今日、目が合ったあの一瞬を、僕はノートには書かなかった。


 書かないまま心の中だけにしまっておいた。


 白瀬さんのあの頷きの意味を、僕はいつか、ちゃんと分かるようになるんだろうか。


 


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