第17話「黒木の沈黙、大沢の機嫌」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
六月の最終週、火曜日のお昼休み。
梅雨入りがようやく宣言された週だった。朝から細かい雨が降り続いている。
社員食堂は雨の日のせいか、いつもより混んでいた。社外で食事を取るのが面倒な人が多いのだろう。
六人席は運よく、奥の方の一席が空いていた。同期六人でなんとか座れた。
今日は皆メニューがばらばらだった。葉山さんが冷やし中華、丸山さんが定食、アユシュさんがカレー、杉本さんが和定食、僕も和定食、そして黒木はいつも麺類だった。今日はつけ麺。
最初の数分、皆ほぼ無言で食べていた。雨の日特有の湿度の重さがたぶん、皆の口を少しだけ重くしていた。
食堂の大きな窓には、細かい雨が斜めに筋を引いていた。外の桜並木は、葉の緑が雨に濡れて、いつもより濃く見える。入り口の傘立てに並んだ何十本もの傘から、雨の匂いが薄く立ちのぼっていた。
最初に口を開いたのは、丸山さんだった。
「いやー、今日、午前中、やらかしたっす」
丸山さんが定食のご飯をひと口、頬張りながら言った。
「やらかした?」
葉山さんが聞いた。
「物流のシステムの伝票画面、設計レビューに出したっす。そしたら、先輩に『丸山さん、これ、納品書って書いてあるけど、納品書じゃないっす』って」
「納品書じゃない?」
「『出庫指示書』っす。意味、全然違うっす」
丸山さんは自分で笑った。
「運送会社の癖、まだ抜けないっすね。前の会社、伝票って言ったら全部『納品書』って、口が勝手に動くっす」
杉本さんが軽く笑った。
「丸山くんの『っす』、業界用語にも入っちゃうのね」
「『出庫指示書』っす、って言うのが、まだしっくり来ないっすよ」
「『指示書』っすね」
葉山さんが真面目な顔で言った。
「葉山さん、それ、わざと?」
「わざと」
短い間が空いて、皆で軽く笑った。
……笑い、久しぶり。
心の中で僕は思った。配属から二ヶ月半、同期六人が一斉に軽く笑う瞬間は、たぶんこの数週間で初めてだった。雨の日の湿度の重さが、一段だけ、ふっと薄くなった気がした。
笑いが収まると、食堂の喧騒が戻ってきた。皿の音、別のテーブルの会話。
その静けさの中に、ぽつりと、別の声が落ちてきた。
「最近、思ったんだけど」
黒木だった。つけ麺の麺を半分くらい食べた状態で、ぽつりと言った。
全員が軽く黒木の方を見た。
黒木が自分から長めの話をしようとするのは、配属以来たぶん初めてだった。
「組込みチーム、大卒組と高専卒で扱いが違う気がする」
黒木はそう続けた。
声はいつもの低いトーン。けれど内容は、いつもよりずっと踏み込んでいた。
全員がしばらく黒木の続きを待った。
「具体的には?」
葉山さんが尋ねた。
「大沢マネージャーの振り方が違う」
黒木は麺をもう一口、食べた。
「大卒組には、新しい技術の調査タスクとか、設計のレビューとか、そういう、頭を使う仕事を振る」
「うん」
「高専卒、つまり俺には、検査装置のドライバの保守とか、そういう地味な仕事しか振らない」
「両方とも組込みっちゃ組込みなんだけど、性質がちょっと違うね」
葉山さんが頷いた。
「俺、組込み、大学院出てなくてもたぶんできる。やる気もある。でも振られる仕事が明らかに違う」
黒木の声はいつもの低いトーンの奥に、確かに何かが堆積している感覚があった。
葉山さんの「ぴくっとする」と似たような感覚が、たぶん黒木の中にもある。
黒木は、いつも机の上から目を上げない人だった。研修の自己紹介の時も、最初の飲み会の時も。その黒木が、自分から、扱いの違い、という言葉を口にしている。沈黙の人が口を開くとき、その言葉はたぶん、長いあいだ、内側で温められていたものだった。
アユシュさんが口を開いた。
「Kuroki, I noticed too」
「アユシュ、あなたも?」
「Yes. The mood manager has many faces」
……「the mood manager」。
心の中で僕は繰り返した。
大沢マネージャーを英語でそう呼ぶアユシュさんの言葉が、面白いと思った。
「機嫌の良い日、悪い日、はっきりしてる」
黒木が続けた。
「機嫌が悪い日に何を聞いても、舌打ちで返ってくる」
「舌打ち」
葉山さんが繰り返した。
「うん、舌打ち。実際の音で」
「えっ、それ、職場で?」
「うん、職場で」
……職場で、舌打ち、する。
心の中で僕は軽く止まった。
「で、機嫌の良い日は急に優しくなる。同じ質問でも丁寧に答えてくれる」
「ジェットコースターっすね」
丸山さんが自分の定食を食べながら、口をはさんだ。
「ジェットコースター」
黒木が繰り返した。
「うちの会社、たまに来るっす、それ系の人」
丸山さんは運送会社時代の経験から、こう続けた。
「機嫌で振る舞いが変わる管理職、結構多かったっす」
「丸山くんのところの、たとえば?」
葉山さんが軽く水を向けた。
「うちの前の会社の課長、機嫌で怒鳴る人だったっす」
丸山さんは少し笑った。深刻に語る、というよりは、軽く昔話をする感じで。
「皆、朝、出社して、その人の表情、まず見るっす。眉間にしわ寄ってたら、その日、誰も話しかけない。コーヒーカップ、机にどん、って置いたら、もう、駄目っす」
「コーヒーカップで判定」
「うん、コーヒーカップが、その日の天気予報っす」
杉本さんが軽く笑った。
「皆、その人の朝の表情で、その日の動き方、変えてたっす」
丸山さんはお茶をひと口、飲んだ。
「だから、機嫌の波で動く組織って、慣れてるっす。慣れてるけど、まあ、しんどいっすね」
……慣れてる、けど、しんどい。
心の中で僕はその言葉を、繰り返した。
丸山さんはたぶん、組込みチームの大沢マネージャーと、運送会社時代の課長を、頭の中で重ねている。重ねているからこそ、黒木の話を聞いた時、すぐに「ジェットコースターっす」と引き出せた。
でも丸山さんは、それを「しんどい」と、軽く言う。重く語らない。それが丸山さんの強さなのかもしれなかった。
「丸山くん、どう対処してた?」
杉本さんが尋ねた。
「対処、しなかったっす」
「えっ」
「対処しても結局、向こうの機嫌は変わらないんで。だから機嫌の波を観察して、機嫌の悪い日は絶対、深い相談しないっす」
……「観察」。
またその言葉だ。
心の中で僕は思った。
「黒木、それ、できそう?」
葉山さんが聞いた。
「観察、してる」
黒木は頷いた。
「機嫌の悪い日は絶対、設計の話しない。簡単なドライバ保守のタスクだけ、淡々と進める」
「対策はしているけれども、根本的な解決はないっすね」
丸山さんが頷いた。
「ない」
黒木が答えた。
短い間が空いた。
黒木がもう一つ、ぽつりと口を開いた。
「あと、気になってるのが、もう一つ」
全員、待った。
「先月、組込みで本番にバグ、混入した」
「あー、聞いた」
葉山さんが頷いた。
「大沢さん、その時、開発者の一人に怒鳴り散らして、終わり」
「終わり?」
「うん。次の朝には、昨日のこと、もう、忘れてる」
「原因の振り返りとか、しないの?」
葉山さんが眉を寄せた。
「しない」
黒木は短く言った。
「で、同じようなバグ、たぶん、また出る」
「出るね」
「俺の知る範囲だけで、似たようなバグ、ここ三ヶ月で、二回」
短い間が空いた。
「二回とも、怒鳴って、終わり」
黒木はつけ麺のスープを、ひと口飲んだ。
「振り返りを、しないからだ」
黒木が、低い声で続けた。
「バグが出た。怒鳴った。原因を、書き残さない。だから次の人が、同じ落とし穴に、また落ちる。組込みは特に、一度のバグが、装置を止める。人を、危なくすることもある」
「装置を、止める」
「俺は高専で、ずっと組込みをやってきた。地味な保守ばかり振られるけど、その地味な保守が、いちばん、装置の癖を知る。どこが壊れやすいか、手が覚えてる。大沢さんは、たぶん、それを分かってない」
いつもの黒木からは、考えられない長さの言葉だった。普段は相槌しか打たない黒木が、技術の話になると、急に言葉が増える。目の奥に、別の光が点いていた。
「それに」
黒木は、つけ麺の器を、少し脇に寄せた。
「組込みの、面倒な障害対応。再現しにくいやつ。誰もやりたがらない。気づくと、俺に回ってくる」
「黒木に」
「うん。別に、嫌じゃない。むしろ、好きだ。割り込みのタイミングがずれて、たまにしか出ないバグ。あれを追い詰めるのが、いちばん、面白い」
……面倒な役を、面白がる。
その一言に、僕は少し驚いた。皆が避ける仕事を、黒木は面白がる。たぶんそれは、黒木にしかない性質だった。
……黒木、技術の芯を、持ってる。
心の中で、僕は思った。沈黙の人の奥に、確かな技術の核があった。地味な仕事を続けてきた人だけが知っている、現場の癖。それを黒木は、淡々と語った。
……怒鳴って、終わり。
心の中で僕はその言葉を繰り返した。
怒鳴ることで一瞬、組織の中で「対処した感」は出る。けれど対処したのは「感」だけで、実体はそのまま、また次の同じバグを生む土壌になる。
でも、と僕は思った。大沢さんも、たぶん、好きで機嫌の波を撒いているわけではないのだろう。本番のバグの責任を、最後に背負うのはマネージャーだ。怒鳴る、というのは、たぶん、抱えきれない何かの、いちばん下手な逃がし方だった。それでも、逃がした先で、黒木やアユシュさんが揺れている。事情があることと、許されることは、たぶん、別だった。
アユシュさんが深く頷いた。
「I don't understand the機嫌 system」
「機嫌、システム、って面白い表現ですね」
杉本さんが笑った。
「In Nepal, also, there are mood-managers. But, in Japan, the mood-management is, very subtle」
「subtle、って、繊細、ってこと?」
「Yes. 微妙、subtle. 日本人、皆、機嫌に、敏感、すぎる、と思います」
……敏感、すぎる。
心の中で僕はその言葉を繰り返した。
たぶんその通りなのだろう。日本の組織では上司の機嫌に皆、敏感になる。機嫌の悪さが評価とか仕事の振り分けとか、人間関係にダイレクトに影響するからだ。
でも、本当はそれは変な状態のはずだった。
組織は機嫌で動くべきではなかった。
「桐谷くんのチームは、機嫌、どんな?」
黒木が聞いた。
「諏訪さんは機嫌、安定してると思う」
「いいね」
「白瀬さんも機嫌、安定してる」
「あー、白瀬さん、伝説的に機嫌が安定してるって、ヨキエル内で有名だよ」
葉山さんが頷いた。
「赤坂さんはいつも明るい。機嫌の悪い日がないように見える」
「それはたぶん別の問題」
葉山さんが笑った。
「立花さんも表面は明るい。古川さんはいつも沈み込んでる」
「あー、古川さん」
丸山さんが頷いた。「俺、たまに組込みチームのフロアですれ違うんすけど、目が合わないっす」
「目が合わないですね」
杉本さんが頷いた。
組込みチームのフロアはたぶん、いつも空気が重い。大沢マネージャーの機嫌の波が、フロア全体に薄くかぶさっている。一方、僕のチームAの古川先輩の沈み込みは、それとはつながらない、別の種類の沈み込み。立花さんと似ているけれどまた違う、別の状態だった。
お昼休みの終わりのチャイムが鳴った。
「皆、月曜日からの一週間、お疲れさま」
葉山さんが軽くまとめた。
「明日もたぶん雨」
黒木がぽつりと付け加えた。
全員で頷いた。
午後の業務に戻った。
白瀬さんからまた、PRにレビューが来ていた。今度は八件。だんだん減ってきている。
退社の時間まで僕は自分のタスクに集中した。
六時半、フロアを出るエレベーター。
ちょうど、組込みチームのフロアから黒木が出てきた。
「桐谷」
「黒木」
二人でエレベーターに乗った。
階を降りる、五秒間。
黒木がぽつりと、こう言った。
「お昼の話、聞いてくれてありがとう」
「ううん」
「あれ、たぶん初めて誰かにちゃんと話した」
「うん」
「じゃ」
エレベーターが開いた。
黒木はそのままロビーの方に歩いていった。
僕はしばらくエレベーターの前で立っていた。
……黒木、ちゃんと、話してくれた。
心の中で僕は思った。
配属の頃、黒木は自分のことをほとんど話さなかった。「県外、出たことない」と、五月の最初の飲み会でぽつりと言ってくれただけ。
今日、黒木は自分の中の「ぴくっとする」を同期に共有してくれた。
たぶん、それは葉山さんの「ぴくっとする」と、僕の「ぴくっとする」と同じく、貯めるといつか、ぼん、と来るやつだ。
共有することで、ほんの少しだけ放出する。
寮に戻った。
夕食を食堂で済ませて部屋に上がった。
ノートを机に置いた。
今日のページにこう書いた。
黒木がお昼に初めて自分のことを話してくれた。
組込みチーム、大卒組と高専卒で振られる仕事が違う。
大沢マネージャーは機嫌の波が激しい。機嫌の悪い日は舌打ち。
本番にバグが混入しても、大沢さんは怒鳴って終わり。原因を振り返らない。同じバグが、たぶん、また出る。
アユシュも観察している。「the mood manager has many faces」「I don't understand the機嫌 system」。
書きながら僕はペンを止めた。
もう一行、書いた。
機嫌が組織を支配する。
書いてからその文字をしばらく見ていた。
諏訪マネージャーのチームでは、機嫌は組織を支配しない。諏訪さんが機嫌を安定させているからだ。
大沢マネージャーのチームでは、機嫌が組織を支配する。大沢さんが機嫌を安定させていないからだ。
マネージャー一人の機嫌の安定が、チーム全体の空気を決める。
遠野CTOが研修で言っていた。半径3メートルから変えていく、と。でも、マネージャーの機嫌の半径3メートルは、チーム全員を覆ってしまう。同じ半径3メートルでも、誰のものかで、こんなにも意味が変わる。
諏訪さんの半径3メートルは、白瀬さんを育て、僕を育て、チームの空気を静かに整えている。大沢さんの半径3メートルは、機嫌の波で、黒木やアユシュさんの一日を、毎朝、揺らしている。
僕はまだ、自分の半径3メートルに、誰も入れていない一年目だった。でもいつか、誰かが僕の半径の中に入ってくる日が来る。その時、僕の機嫌は、その人の空気になる。
……そう思うと、少し、怖かった。
……これも、観察。
心の中で僕はつぶやいた。
ノートを閉じた。
窓の外、雨の音が続いていた。梅雨の音だった。
明日もたぶん雨。
でも、明日また僕は自分のチームAで、白瀬さんと諏訪さんの機嫌の安定の中で仕事をする。
黒木は組込みチームのフロアで、大沢マネージャーの機嫌の波の中で仕事をする。
同じ会社の上下のフロアで、まったく違う空気の中で、僕らは一年目の夏を迎えようとしていた。




