宿敵
「あの事件があった後――」と森愛華が言う。
あの事件とは加藤健将が殺害された事件のことだ。
「一人の男が夏帆を訪ねて来るようになりました。夏帆を指名しては、二人で何かこそこそと話しをしているのです。金払いの良い客で、三日と空けず夏帆を指名しにやって来るので、良いお得意さんが出来たわねと夏帆に言うと、『そんなんじゃない』と言うのです。『あの人は私のメンターなの』と言うのです」
「メンター?」
メンターとは人を導く指導者を言う。
「変な宗教にはまってしまったんじゃないかって、そう思いました」
「それで、その男は?」
「一昨日の夜に来て、夏帆とまた、何か話し合っていました」
そして高島夏帆はキャバクラを無断欠勤した。
「名前は? 名前は分かりますか?」
「変わった名前でした・・・確か・・・忽滑谷、そう忽滑谷って言っていました」
「忽滑谷弘文!」
忽滑谷一家を惨殺し、息子の弘文になり代わり、招知大学に通っていた、あの男だ。満月の夜に同室だった高山を殺害し、身をくらませてしまった、あの男だ。
楽園とは天国のことではないのか⁉ 忽滑谷弘文は高島夏帆を殺害しようとしているのではないだろうか。
「緊急配備だ!」
班長と連絡を取り、都内に緊急配備を引いてもらった。高島夏帆を捕らえるのだ。勤怠管理システムの情報から、高島夏帆の自宅住所が分かっている。俺たちは高島夏帆の自宅へ急いだ。
高島夏帆が住むアパートは、もぬけの殻だった。慌てて出て行ったようで、部屋の中に衣類が散乱していた。鏡台の引き出しが開けたままになっており、貴重品を持ち去った形跡があった。
「高島夏帆は逃走を図ろうとしている!」
「携帯の位置状況を調べてみましょう」と平尾が言う。
高島夏帆の携帯電話番号は分かっていた。
班長と連絡を取ると、既に位置情報の特定を進めてくれていた。流石は班長だ。
「東京駅に急げ!」と班長の指示が飛ぶ。
高島夏帆は東京駅から電車に乗って逃走しようとしているようだった。俺たちは東京駅へ急いだ。
「東京駅とは、まずい場所にいるな」と明日香が車を運転しながら言う。
東京駅はマンモス駅だ。一日に実に六十九万人もの人々が列車の乗り降りをしている。大海撈針、干し草の山から針を探すようなものだ。
東京駅に到着する。
「十番線だ。十番線に行け!」
班長からの指示だ。
俺たちは十番線に向かった。
十番線のホームに駆け上がる。東海道線の列車がホームに滑り込んで来たところだった。
「いました!」
平尾が叫ぶ。
列車に乗り込もうとしている高島夏帆の姿が見えた。
ホームを走った。
やって来る俺たちに気がついて、高島夏帆が目を見張るのが見えた。
まずい。このままでは間に合わない。
「列車に乗ります!」と平尾が停車中の電車に飛び乗った。
高島夏帆が列車に乗り込めば、車内で確保するつもりなのだ。
「頼んだ!」
俺と明日香はホームを駆けた。
明日香が遅れる。
列車の発車を告げるメロディがホームに流れた。
間に合わない――と思った。
ドアが閉まる。
列車が動き出した。
「高島夏帆さんですね?」
俺は息を弾ませながら、そう言った。
高島夏帆は列車に乗らなかった。
「はい」と夏帆が弱々しく頷いた。
「明日香。確保だ」
俺は遅れて来た明日香に手錠を掛けさせた。手柄は全部、明日香が持って行けば良い。
明日香が高島夏帆を連行する。
(おっと、平尾に無事に確保したことを伝えておかなえれば)と思いながらホームを歩いていると、「山城さん。お久しぶりです」という声が聞こえた。
誰だ? 俺はホームで立ち止まり、辺りを見回した。誰もいない。
「ここですよ」と声がする。
向かいのホームに男が立っていた。
「忽滑谷!」
忽滑谷弘文だった。
「彼女を救ってあげようと思ったのですが、あなたが邪魔をした」
「彼女を救う? 何処かに連れ出して、殺すつもりだったんじゃないのか?」
「彼女を殺して、一体、僕に何の得があると言うのです?」
「彼女を救って、お前にどんな得があるのだ?」
「いっぱいありますよ。仲間じゃないですか。我々は助け合って生きて行かなければならない。違いますか? 山城さん」
「彼女は犯罪者だ」
「自分を襲った卑劣な野郎に復讐をしただけです」
やはり高島夏帆は加藤健将に襲われたのだ。その復讐で、満月の夜に加藤健将を襲った。女性の身では男に勝つのは難しいが、高島夏帆が潜伏狼なら、満月の夜には、常人を凌ぐ身体能力を持っていたとしても不思議ではない。
その圧倒的な力で加藤健将を殺害したのだ。
「森愛華の夫は?」
「女性に暴力を振るうようなやつを抹殺してあげただけでしょう」
「お前が影で糸を引いていたんだな?」
「まさか。全て、彼女の意志です」
「楽園に連れて行ってやるとか言ったそうだな」
「ええ。山城さん。あなたも来ますか? 誰の目も気にする必要はない。薬も飲む必要もない。満月の夜には、持てる力を解放することができます。我々の楽園です」
「そこを動くな!」と俺が怒鳴った時、向いのホームに列車が滑り込んで来た。
俺はホームを走った。向かいのホームに行くには、階段を降りて、地下道を走り、隣のホームに駆けあがらなければならない。
高島夏帆を連れて前を歩いていた明日香が「どうした?」と俺に声をかけた。
「忽滑谷だ。向かいのホームにいる」
向かいの列車が走り出した。
階段の手前で立ち止まり、向かいのホームを確認した。
列車が走り去った後、向いのホームから忽滑谷の姿は消えていた。
高島夏帆を警視庁に連行した。
「ご苦労さん」と班長が出迎えてくれた。
平尾はもう狼班に戻っていた。
「忽滑谷を取り逃がしてしまいした」
「まあ、仕方がない。次の機会を待とう」
「はい。きっと捕まえます」
明日香がまだ狼班にいるので、「もう事件は片付いただろう。とっとと一課に戻れ」と言うと、「ここで報告書を書いて帰る」と言う。
「俺の名刑事振りをしっかり書いておけよ」
「何が名刑事だ。このエロ親父が。女の子の足ばかり見てやがる」
俺が森愛華の太ももの痣からDVに気がついたことを言っているのだ。
「たまたま目に入っただけだ。俺の観察力の鋭さを褒めろ」
「ああ、お前のスケベ眼のお陰だ」
「棘のある言い方だな」
「これでも控えめに言っている」
こいつ、嫉妬でもしているのか?
忽滑谷の言った楽園について考えていた。月に一度、牢獄のような部屋で暮らして来た若者を目にしたばかりだ。WCPたちが人目を気にせずに暮らすことが出来る。そんな楽園があれば良いのかもしれない。
ふとそう思った。




