秋広の家庭訪問(2)
「たっだいまー」
「あ、おい……」
梨夏は素早く靴を脱ぎすてると、そのまま秋広を置いて、家の奥へと小走りで駆けて行ってしまった。
その様子に呆れながら、秋広は梨夏が散らかしたものを整える傍ら、玄関付近を見渡した。
家の中はよく綺麗に片づけられていた。
おそらくは事前に掃除してあったのだろう。埃もほとんど落ちていない廊下の先にはダイニングキッチンとリビングが垣間見える。
梨夏の姿はもう見えない。
けれど、聞き覚えのある話し声がキッチンの方から聞こえてきた。
「ただいま、父さん」
「あぁ。おかえり。木島君は来たのかい」
「うん、いま玄関にいるよ」
「そうか――ああ、いた。木島君、いらっしゃい」
ほどなくして、キッチンの方から小杉部長が顔を出す。
秋広は自然と職場に居る時の心持ちで、頭を下げていた。
「本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
「あはは。おじさん、いつもと全然違う」
「梨夏、あまり木島君をからかうんじゃないよ」
始めてみる秋広の社会人らしさに、梨夏は感心するでもなく、むしろ面白そうに笑っていた。
そんな娘の態度を部長はそっと窘める。その様子は職場での上司としての顔ではなく、すっかり父親そのものだった。
「木島君も、そんな畏まらないでいいから。とりあえず頭を上げなさい」
「はい」
言われて秋広は頭を上げ、自らの上司へと顔を向け直す。
小杉部長は温和な笑みを浮かべていた。そのいつもとまったく変わらぬ態度に、秋広は人知れず安堵の息をついた。
少なくとも怒っているわけではなさそうだ。
「わざわざ来てもらってすまないね。さぁ、そんな所に立ってないで。とりあえず、リビングで休んでてくれ」
「はい、それでは失礼します……そうだ。これ、つまらないものですが、よければ召し上がってください」
キッチンから出てきた部長に、秋広は持ってきたお土産を手渡す。
それに興味を持った梨夏が顔を寄せ、箱にプリントされた有名な洋菓子店の名に、目の色が変わった。
「あ! これ、チーズケーキが美味しいって評判のお店じゃん!」
「そうなのか?」
「うん、なんか雑誌で特集されたの見た事がある」
「へぇ。そんな評判になってるなんて知らなかったな」
秋広にしてみれば、そう遠くない所にあるという利便性と手ごろな値段を考慮して、用意したものだった。それが予想以上の効果をもたらしたことに、嬉しさよりも戸惑いの方が勝っていた。
「すまないね。わざわざお土産なんて持ってきてもらって」
「いえ。喜んで頂けたなら何よりです」
「効果覿面だったよ。特に梨夏にはね」
そんな部長の言葉に、秋広は苦笑とも失笑ともつかない笑みを浮かべる事しか出来なかった。
「早速頂くとしようか。今、お茶を出すからリビングで待っていてくれ」
「ほら、おじさん。こっちこっち」
通されたリビングは、いかにも普通のご家庭という感じだった。
中央に大きなコタツ机があり、その周囲には座布団が敷かれている。
片隅に鎮座するのは割と新しそうな大型のテレビ。
それ以外にも部屋には生活に使う家具やインテリアが置かれていた。
モデルルームのように極端に整理されているわけでもないが、雑多に散らかっているというほどでもない。
そんな生活味が感じられる空間に、どことなく懐かしさを覚えながら、秋広は下座に腰を落ち着けた。
そしてその横に迷わず梨夏が並んで座る。
「なんで俺の隣なんだ……?」
「いや、そういう流れかなって」
「どういう流れだよ……」
呆れるような呟きに、後ろから忍び笑いが重なる。
背後を振り返れば、ダイニングの向こうから、部長が面白そうにこちらの事を眺めていた。
居心地が悪い事この上ないが、今さら席を変える事も出来ない。
秋広に出来た事といえば、部長が来るまでの間、ただじっとしている事ぐらいだった。
そんな秋広の事を、梨夏は怪訝そうな表情で見つめていた。
「どしたの、おじさん。トイレ?」
「違うから」
ほどなくして、部長もリビングへとやってくる。
目の前には秋広の持ってきたチーズケーキと、部長の淹れたコーヒーが並べられていた。
もちろん、誰よりも早くケーキに手の伸ばした梨夏だった。
「あー、美味しい。おじさん、ありがとね」
彼女は満面の笑みを浮かべてケーキに舌鼓を打っていた。
決して零すこともなく、一口サイズに切って食べるその作法はとても綺麗ではあるものの、スピードは誰が見ても明らかに早かった。
その勢いに気圧され、秋広は自分のケーキに手を付ける事も忘れて見入ったしまった。
「……まあ、喜んでくれたみたいでよかったよ」
秋広は梨夏に答えながら、ちらりと部長を盗み見た。
彼は梨夏と同じくケーキをフォークで切り、それでいて落ち着いた様子でゆっくりと味わって食べている。
垂れ目がちな眼差しを更に細め、小さく笑っていることから、おそらくは気に入ったのだろう。
「木島君は食べないのかね」
「あぁ、いえ……」
「おじさん、食べないなら私に頂戴!」
自分の取り分をぺろりと平らげた梨夏が、前のめりで訴えかける。
その目は爛々と――まるで飢えた獣のように輝き、こちらのケーキを凝視していた。
――よほど甘い物が好きなんだな。
普段らしからぬ様子にそんな感想を抱きながら、秋広は自分のケーキを彼女の前に置いてやった。
「……いいぞ、食べても」
「え、マジで? いいの?」
「いいよ、やるから大人しくしててくれ」
「わーい、おじさん。ありがと! 愛してる!」
「ちょ、おまえ……っ」
梨夏のその何気ない爆弾発言に秋広はぎょっとして上司に目を向けた。
しかし部長はニコニコとした笑いを絶やさず、二人のやり取りをじっと見つめるばかりだった。
「仲がいいな、二人は」
「あ、いや、申し訳ないです……」
「いや、他意はないんだ。気にしないでくれ。さて――」
部長が小さく咳払いをして、足を組み直す。
ちらりと向けられた視線から、本題に入ることを察した秋広は無言で姿勢を正した。
「木島君、梨夏が本当に世話になったみたいだね。改めて礼を言わせてくれ」
「いえ……その、こちらこそ無断で娘さんを家に招き、大変失礼致しました」
「その話は梨夏から聞いているよ」
頭を下げようとする秋広の事を手で制し、部長は話を続けていく。
「困ってたうちの娘を助けてくれたのだろう?」
「まぁ……はい、そうですね」
「なら何も問題ないよ。そのまま放っておいたら、何があったか分からなかったしね」
確かに部長の言う通り、あの大雨の中で梨夏を放置しておけば、ひどい風邪を引いたのは確実だろう。
家に帰る事を拒み、行き先のなかった梨夏を助けるには、あの手段が――最善ではなかったにしろ、最良だったと思っていた。
もちろんそれは結果論でしかないわけだが、それによって万事がすべてうまく収まったのも事実だった。
「それに梨夏を説得してくれたのも君なんだろう?」
「ええ……まあ、彼女の境遇を聞いて、軽く話はしました」
ちらりと横に目を向けると、梨夏はケーキを食べながら微笑を湛えていた。
その笑みが会話を受けてなのか、それともケーキを食べているからなのかは、秋広にもよく分からない。
しかし部長はそんな娘の笑みを見て、小さく頷いて見せた。
「つまり君のおかげで、こうして娘も無事に帰ってきてくれたというわけだ」
「いえ、別に自分が何かしたというわけでは……」
「謙遜しないでもいい。情けない話だけどね、私はあの時の梨夏とは全然話が出来てなくてね……ほら、あの恰好と化粧だろ。そのせいで、自分の娘がいきなりわけのわからない存在になったような気がしてね」
「たしかにあの恰好は……刺激が強いですよね」
言いながら秋広は出会った当初の梨夏を思い浮かべる。
露出過多な制服にけばけばしい化粧。
ある日突然、自分の娘があんな姿になったとしたら、驚くなというのが無理というものだろう。
「途方に暮れたものだよ……何を言えばいいか悩んでいうちに、突然いなくなるし、携帯は着信拒否されるし。捜索願を出す事も考えたんだが、着替えが置いてあったから家には戻ってきているようだったし、どうしたものかな……と」
当時の事を思い出しているのか、部長は遠い眼差しを浮かべながら、自嘲的な笑みを浮かべていた。
そんな部長に秋広は何も返せなかった。
「我ながら情けない父親だ。君の助けがなければ、今も梨夏は帰ってきてなかったかもしれない」
「いえ、そんな……」
ようやく出てきたのはそんな月並みな言葉だった。
秋広の居心地の悪さを察したのか、部長はさりげなく話題を変えた。
「梨夏はなんというか、悪い子ではないと思うんだが、猪突猛進な所があってね……手を焼いてるよ」
「心中お察し致します」
梨夏の無軌道かつ無計画っぷりには秋広もほとほと手を焼いていた。
それを部長は梨夏が小さい頃から、一番近くで味わっているのだ。その心中は察して余りある。
そんな思いを込めて見つめる秋広に、部長が小さく頷いてみせる。
同じ悩みを抱える者同士の共感と諦観がそこにはあった。
「しかし、意外だったね」
「何がでしょうか」
問いかける秋広に、部長はニヤリと笑った。
唇の端を持ち上げて、まるで悪巧みを企んでいるかのように。その笑いはどことなく梨夏を彷彿させた。
「いや。君と娘が付き合っているというのが、な。君はもっと大人しい子が好みだと思っていたんだが」
「はぇ?」
思わず漏れたのはそんな変な言葉だった。
いま部長はなんて言っていただろう。付き合っている、だ。
誰と誰が。もちろん秋広と梨夏だ。
他にいるわけがない。
「え、あ?」
なぜ部長はそんな勘違いをしているのか。どこかに勘違いされる可能性はあっただろうか。もしかして家に泊めた事を誤解しているのだろうか。
だとしたらあまりにも突拍子のない勘違いだ。
そんな事を内心で考える秋広を無視して、無情にも話を続いていく。
「君は真面目だから、娘も不幸にはならないだろ。いや、むしろこんなワガママ娘が相手では、こちらが迷惑をかけそうだな。はは」
「あ、あの……部長……? お言葉ですが、その、自分たちは付き合っていませんが……」
「誤魔化さなくたっていいよ。梨夏からちゃんと聞いているから」
その言葉に秋広は素早く横に顔を向けた。
肝心の梨夏は、何も言わずに、なぜか満面の笑みを浮かべ、ぐっと親指を立てていた。
その様子に、秋広はようやく事態を悟った。
――図られた。
梨夏は前もって部長に話をつけていたのだ。
そのせいで部長は二人が付き合っているものだと勘違いしている。
しかも厄介なことに、部長はそれを納得していた。梨夏が説得したのか、あるいは別の理由かは分からない。
重要なことは、すべてが手遅れだという事だった。
「梨夏はまだ若いが、まあ最近じゃ歳の差婚とかも珍しくないしな。せめて高校を出るまでは今のままでお願いしたいが、いいだろうか」
「あ、いえ。その、ですね。部長……結婚以前にですね、自分たちは付き合ってもいないわけでして」
「そんな今さら恥ずかしがらなくてもいいんだよ。まぁ、結婚ともなると色々気に病む理由も分かるけどね」
――駄目だこの部長、全然話聞いてくれない。
事ここに居たって、秋広はようやく理解した。
部長は職場では温和で頼りになる上司だが、プライベートでは疑いようもなく梨夏の父親だった。
梨夏の性格さは間違いなく父親譲りだ。
「ふふ、おじさん。これからもよろしくね」
今まで黙って成り行きを見守っていた梨夏が、秋広に身を寄せてくる。
それを見て部長は怒るでも叱るでもなく、微笑ましそうに眺めるばかりだ。
この場において自分の仲間は誰一人としていない。そもそもここはアウェイで、敵陣の真っただ中だ。
獅子身中の虫、そんな言葉が脳裏をよぎった。
「というわけで、うちのワガママ娘をこれからもよろしく頼むよ」
「……善処します」
秋広に出来た事といえば、肯定とも否定ともつかない、そんな玉虫色の返答をする事だけだった。
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「どうしてこうなった……」
「ふふふ。ま、私の方が一枚上手だったってことだね」
小杉家を退出した秋広は、がっくりとうなだれた様子で帰路についていた。
そんな秋広とは対称的に、並んで歩く梨夏の顔には勝ち誇った笑みが浮かんでいる。
辺りはすっかり夕焼けに差し掛かっていた。
秋の日はつるべ落としとはよく言ったものだ。沈みかけた太陽は西の空を赤く染め、長い影を落としながら見る見るうちに消え行こうとしていた。
吹き抜ける木枯らしが妙に肌寒い。
小杉家でどんな話をしていたのか、今になって振り返ってもほとんど内容を思い出せない。
あの衝撃的な展開以降の記憶が、すっぽりと頭から抜け落ちていた。
「なんであんな嘘をついたんだよ……」
「嘘じゃないし。未来の予定がちょっと先走っただけだし」
恨みがましげに睨み付けても、梨夏はまったく堪えていない。
秋広は深く息を吐き出し、その場に立ち止まった。
「どしたの、おじさん」
数歩ほど先で梨夏も立ち止まり、きょとんとした様子で振り返る。
秋広はそんな彼女にはっきりと宣言した。
「付き合わないからな」
このままズルズルと関係を有耶無耶にしていれば、将来的には付き合って結婚させられるに違いない。
それだけはなんとしても避けたい事態だ。
だからこそ、今ここで白黒つける必要がある。
「なんで?」
そんな決意を胸に秘めた秋広に、梨夏は夕日を背負って問いかけた。
「だから年が離れすぎてるって言ってるだろ」
「大丈夫だって、十年もすれば誤差になるから」
そんな大物感溢れる事をはっきりと言い切る梨夏に、秋広は感心するより先に呆れるしかなかった。
確かに十年もすれば、秋広は四十で、梨夏は二十代の半ばを過ぎる。
歳の差こそは縮まらないが、今ほど問題になることもないだろう。
「……十年後は、そうかもな。でも、今はそうじゃないだろ」
「じゃあ、おじさん。私の事嫌い?」
ここで嫌いと言うのは簡単だった。けれどそれはどうしても不誠実な気がして咎められた。
代わりに秋広の口から出てきたのはどうとでも取れる内容だった。
「そういう、物事を好きか嫌いかの二元論で考えるのはよくないと思う」
「つまりおじさんは私の事、嫌いじゃないって事だよね」
秋広の発言に、梨夏はなぜか嬉しそうに笑っていた。
夕日に彩られた顔に思わず見とれ、秋広は言葉を見失う。
「私は好きだよ、おじさんのこと」
「……なんで、俺なんかが好きなんだ?」
「人を好きになるのに理由なんているの?」
「誤魔化すな」
「誤魔化してないよ。気づいたら好きになってたんだもん」
「そういうのを誤魔化してるっていうんだ。じゃあ俺のどこが好きか言ってみろよ」
売り言葉に買い言葉。そんな言葉が脳裏をよぎったが、秋広は止まらなかった。
元々前から興味はあったのだ。
平凡で、格別恰好いいというわけでもなく、なおかつ歳の差も大きく離れた自分になぜこうまでして彼女が付きまとうのか。
「前も言ったと思うけどさ。見た目は好みだし、話してて楽しいし、放っておけない所とかも。あとエロい目であんまり見てこない所とか」
「前も聞いたけど、そんな事で惚れるのか?」
だとしたら条件に当てはまる男などいくらでもいるのではないだろうか。
自分である必要性はまったくないのではないか。
そんな秋広の内心を打ち消すように、梨夏は大きくかぶりを振った。
「ううん。それだけじゃないよ、家に泊めてくれた時、真面目に私の話聞いてくれたじゃん。それで、おじさんの生い立ちとかも話してくれたじゃん」
秋広のことをじっと見つめたまま、梨夏は口を開いていく。
わずかに茶色がかった瞳は、秋広の事をじっと見つめていた。
「あの時に思ったんだ。おじさんって優しいなって。私みたいな小娘の話に頭ごなしに説教するんじゃなくて、話をちゃんと聞いてくれて、その上でアドバイスしてくれたじゃん。なんかね、それが凄く嬉しかったの。本当に好きになったのはあの時だよ」
かすかに吹く秋風が夕日の染まったブロンドの髪を揺らしていく。
肌寒い木枯らしに吹かれながらも、梨夏は身じろぎ一つしなかった。
「今だってそう。おじさん、私の事、嫌いって言わないでくれたでしょ。そういう優しいところ、好きだよ」
「優しいんじゃなくて優柔不断なだけだろ」
「物は言い方だよ。もっとポジティブに行こうよ」
「俺はそこまで前向きには考えられない」
「私はポジティブで、おじさんはネガティブ。プラスとマイナスだから惹かれあうんだよ」
その言葉の通り、梨夏はどこまでも前向きだった。
いくら秋広が否定した所で決して諦めようとしない。
そして秋広自身もまた、そんな彼女の事を心の底では拒絶しきれずにいた。
「ちなみに私さ、おじさんの家に行ったとき、ちょっとは覚悟してたんだよ」
「……覚悟って何をだ?」
「もしかしたらこのまま襲われるのかなーって」
「襲うわけないだろ……」
「うん。おじさんはそういう人だよね。そういう所も好き」
そう言って梨夏は小さく笑った。
「でも、ほら。シチュエーション的には襲われても仕方ないじゃん。で、まあ、そうなったらそうなったで諦めようって思ってたんだけどね。行き場なんて他になかったし」
「もっと自分を大事にしろ」
「してくれたら付き合ってくれる?」
「……それとこれとは話が違う」
「もー……強情だな。じゃあさ、賭けをしようよ」
「賭け?」
問いかける秋広に梨夏がゆっくりと近づいていく。
「そ、賭け。期間は私が高校卒業するまでの間。その間、私とおじさんはお試しで恋人になるの」
「お試しの、恋人?」
「そ。で、卒業する時に改めて告白するよ。その時に、おじさんが私を受け入れたら私の勝ち。受け入れられなかったら、おじさんの勝ち。ちなみに言ってなかったかもしれないけど、私、いま高校二年だから。期間は一年ちょっとだよ」
目を決して逸らさぬまま、少しずつ二人の距離が狭まっていく。
気づけば梨夏の顔は目と鼻の先まで近づいていた。
「そんなの、俺が梨夏をどう思ってようと、断ったらそっちの負けだろ」
「おじさんはそんな不誠実なことしないでしょ? いいから、見ててよ。絶対に卒業までに、私に惚れさせてみせるから」
「……俺が勝ったら、梨夏は俺の事を本当に諦めるんだろうな」
「うん、いいよ。その代わり、私が勝ったら結婚してもらうけどね」
「おい。付き合うって話じゃなかったのか」
「私は結婚を前提にしたお付き合い以外はしない主義なの。で、どうする? 受けて立つ?」
吐息すら感じられるような距離で、赤く染まった整った顔立ちを見つめ続ける。
よく見れば彼女の瞳は不安げに揺れていた。
そんな彼女の目を見ていたら、言葉は自然と口から出ていた。
「絶対に、負けないからな」
「ふふん。その言葉、後悔しても知らないからね!」
そんな挑戦的な言葉とは裏腹に梨夏は満面の笑みを浮かべていた。
「しないから、後悔なんて。むしろそっちこそ後悔するなよ」
「するわけないじゃん」
と、不意に梨夏が秋広に抱き着いてくる。その柔らかい衝撃に、秋広はたたらを踏みながらも、咄嗟に彼女の身体を抱きしめた。
梨夏は少しだけ冷めたくなっていて、かすかに体を震わせていた。
「冷えてるじゃないか」
「うん。そうだね。だから温めてよ」
「なんで俺が……」
「他に誰もいないじゃん」
「そういう問題じゃなくてだな……」
ため息をつく秋広の事を、梨夏は楽しそうに見上げている。
そんな彼女がおもむろにつま先を伸ばし、顔を近づけてきた。
「おじさん、大好き」
頬に感じる冷たい感触はあっという間に離れていった。
彼女はそのままくるりと身を翻し、秋広の腕の中から逃げ出していく。
取り残された秋広は呆然と自分の頬を撫でるしかなかった。
「ほら、おじさん。早くしないと置いてっちゃうよー」
「おい、梨夏! 不意打ちは卑怯だぞ!」
「油断するおじさんが悪いんだよ!」
梨夏がこちらを振り返り、小さく舌を出す。
その顔は夕日に照らされていても分かるぐらい、真っ赤に染まりきっていた。