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第九十九章 うん、の、稽古

「半額でした」


加藤さんが言った。


机の上に、面が一つあった。


***


赤かった。

角が、二本あった。


紙だった。ゴムがついていた。


鬼だった。


***


二月八日。月曜日。

0課の朝だった。


***


「節分は。終わりました、よね」


「終わった、から。半額です」

「経費で、落ちますから」


***


部屋の真ん中に、パイプ椅子が一つあった。

机を全部壁に寄せて、一つだけ置いてあった。


***


課長が、ホワイトボードに書いた。


『稽古』


***


「本番は、仮面、だからね」


「これで、ですか」


「本物は、ないからね」


***


『ホラー』と『レスラー』は、病院だった。


***


「役を、決めよう」


課長は言った。


「『ブル』さんが、零度」


「心得た」


「『ジョン』くんが、西経、七十五度」


「俺の、上の、上の、役ですか」


***


「向いて、ござる」


『ブル』が言った。


「座って、おる、だけで。偉そうで、ござる」


「あんたに、言われたく、ない」


***


「私、機械の、声、やります」


壁の画面で、『ギーク』が言った。


「変声機、あります」


「なんで、あるんだ」


「あります」


***


『レディー』は、壁の机に腰をかけていた。


「私は、見てる」

「顔と、声に、出たら。言うわ」


一番こわい役だった。


***


面をつけた。


ゴムが、耳に食いこんだ。

穴が小さくて、前が半分しか見えなかった。


***


「鬼じゃ」


肩の上で、メレオスが言った。


「なってない」


「角が、ある」


「紙だ」


***


椅子に座った。


「では」


『ブル』が言った。


***


傘を床に立てた。

柄に、両手を重ねた。


目が、変わった。


***


「東経、百三十五度」


低い声だった。


「はい」


***


立っていた。

気がついたら、立っていた。


「……立つな」


『ジョン』が言った。


「呼ばれたので」


「席の、人間だぞ」


***


「あと。はい、は、だめよ」


『レディー』が言った。


「うん、でしょ」


「上の、人に、うん、は。……言いにくいです」


「あんたが、上なの。今は」


***


上だったことが、なかった。


***


二回目。


「東経、百三十五度」


「……うん」


座っていた。


***


「前の、席の、者は。どうした」


「すみません」


「謝った」


『レディー』が言った。


「何も、して、ないでしょ」


「して、ないです」


「して、ないのに、謝るの」


「……毎日、そうです」


***


誰も、何も言わなかった。


課長だけが、頷いていた。


***


三回目。

『ジョン』の番だった。


腕を組んだ。足を組んだ。


「新入りか」


本当に偉そうだった。


***


「誰の、紹介だ」


俺の手が、胸のポケットに行った。


「……何を、出す」


「名刺を」


「鬼の、面で。名刺を、出すな」


「初めて、会う、人なので」


「名前を、隠す、会だぞ」


***


そうだった。


***


四回目。

壁の画面だった。


波の線だけが、動いていた。


***


声が出た。

低かった。機械だった。


早口だった。


***


「東経百三十五度の扉の再開予定と冬至以降の観測値の差分について席としての見解を」


何を聞かれたのか、分からなかった。


***


「……持ち帰って」

「検討、します」


部屋が、静かになった。


***


「それは、いいね」


課長が言った。


「え」


「うん。それは、いい」

「会議が、終わらない」


ほめていた。


***


「英国でも。よう、使い申す」


『ブル』が言った。

元の声だった。


「わが国の、棚は。その、一言で、できて、おり申す」


***


「……ほめてるのか。それは」


『ジョン』が聞いた。


「ほめて、おる」


***


「次は、共さんだね」


課長が言った。


***


共さんは、隅の机から立った。

椅子の後ろに来た。


背筋が、まっすぐだった。


***


「……戻られたか」


『ブル』が、零度の声で言った。


共さんは、黙って立っていた。


***


「足りない」


『ジョン』が言った。

役の声じゃなかった。


「あれは。首を、傾げた」

「倉庫で。俺は、見た」


***


俺も見た。


面白いものを見つけた子供みたいに。


***


「存じて、おります」


共さんは言った。


「五十六年。中から、見て、おりました」

「傾げ方は。分かります」

「ですが」

「自分で、いたした、ことは。ございません」

「何度、傾ければ。よろしい、でしょうか」


***


「……何度」


「角度で、ございます」


「十一度です」


壁の画面で、『ギーク』が言った。


「賀詞交歓会の、映像、あります。測りました」


「なんで、測ったんだ」


「測りました」


***


共さんは、首を傾けた。


かくん、と。


「十一度で、ございます」


「合ってます」


***


「合ってるけど」


『レディー』が言った。


「分度器、みたいよ」

「全然、こわくない」


***


共さんは、首を戻した。


かくん、と。


***


「角度では、ないぞ」


メレオスが言った。


「あれは。面白い、ものを、見つけた、ときに、傾げる」

「面白がらねば。首は、傾かん」


***


「神様が」

「角度じゃ、ない、って。面白い、ものを、見つけた、ときに、傾げるんだ、って」


「……面白い、もの」


***


共さんは、部屋を見た。

それから、俺を見た。


鬼の面だった。

胸のポケットから、名刺が半分出ていた。


***


共さんの首が、少し傾いた。


***


「今」


『レディー』が言った。


「傾いたわ」


「……いたしましたか」


「した」


***


「健司さんが」


共さんは言った。


「面白う、ございました」


真顔だった。


ほめられているのか、分からなかった。


***


「通しで、いこう」


課長が言った。


***


共さんが、後ろに立った。

『ブル』が、傘の柄に手を重ねた。


「……戻られたか」


返事は、なかった。


***


面の穴からは、後ろは見えない。

前だけ、見えた。


『ブル』の目が、俺の上を見ていた。


***


傘の先が、床から浮いた。

『ジョン』の手が、上着の中に行った。


背中が、冷たくなった。


倉庫の奥と、同じだった。


***


「……東経、百三十五度」


『ブル』の声が、少しかすれていた。


「……うん」


一回だった。


***


立たなかった。謝らなかった。名刺も出さなかった。


動けなかった、だけだった。


***


『ブル』は、長いこと俺の上を見ていた。

それから、元の声で言った。


「……通り申す」


***


『ジョン』は、手を上着から出した。


「倉庫と、同じだ」

「久我さん。今のは」


「はい」


***


後ろで、声がした。

いつもの声だった。


「健司さんの、角を。後ろから、見て、おりました」

「二本、ございました」

「面白う、ございました」


***


「……それだけか」


「それだけで、ございます」

「嘘は、申して、おりません」


***


「同じ、傾げ方じゃ」


メレオスが言った。


「中が、違う、だけじゃ」


***


「共さん」


俺は聞いた。


「本番の、面は。角、ないですけど」


「思い出します」


共さんは言った。

真顔だった。


***


円卓の端で、鬼の角を思い出して立つ人だった。


***


扉が開いた。

赤城さんだった。


書類の束を持っていた。

入ったところで、止まった。


***


俺を見ていた。


面を、つけたままだった。


***


「……何を、している」


「稽古です」


「その、面で」


「半額でした」


加藤さんが言った。


***


赤城さんは、何も言わなかった。


「本番は。本物が、要る」


***


「仮面は」


『ブル』が言った。


「人に、つく、ものでは、ござらぬ」

「席に、つき申す」

「百四十年。同じ、面を、継いで、おる」


***


「つまり」


赤城さんは言った。


「鷲尾の、だな」


「左様」


「どこに、ある」


「存ぜぬ」


***


「喋りませんよ。あの人は」


『ジョン』が言った。


赤城さんは、少し黙った。


「羊羹を、持って、いく」

「今度は。厚さを、揃えて」


本気だった。


***


「大臣」


加藤さんが言った。


「判子は」


「一つ」

「番号札を、取った」


「大臣が、ですか」


「取った」


***


加藤さんは、手帳をめくった。


「あと、十六です」


***


面を外した。


耳が、痛かった。


***


三月五日まで、あと二十五日。


判子は、あと十六だった。


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