幕間 神様、叱られる
ついて来ていた。
***
昭和四十五年。冬至の夜だった。
小沢伊左衛門は、一人で山を下りていた。
行きは、二人だった。
***
後ろに、小さな光があった。
這うようについて来ていた。
五十年ぶんの暗さの中から、出てきたばかりのものだった。
***
何も見えていなかった。
前を歩く男の気だけが、明かりに見えていた。
***
伊左衛門は、振り向かなかった。
足を、止めた。
「……ついて、来るのか」
返事は、なかった。
言葉を、知らなかった。
***
光は、伊左衛門の背中にたどり着いた。
そこで、止まった。
伊左衛門は、また歩きはじめた。
背中が、少し重かった。
***
何があったかは、誰にも言わなかった。
その夜も、そのあとも。
***
朝になると、光は子供の形をしていた。
金色の髪の、変な服の、金色のボタンの子供だった。
伊左衛門の妻には、見えなかった。
伊左衛門には、見えた。
***
年が、明けた。
***
仏壇に、羊羹が一本、供えてあった。
それは、一本食べた。
まるごと、だった。
うまかった。
向こうには、ないものだった。
***
「いかん」
伊左衛門が、言った。
それが、こっちで最初に覚えた言葉だった。
「人の、ものだ」
***
それは、首を傾げた。
人の、もの。
向こうには、ない考えだった。
***
伊左衛門は、黙って台所へ行った。
自分のぶんの羊羹を、持ってきた。
半分に、切った。
片方を、それの前に置いた。
「こっちは、食って、いい」
***
それは、食べた。
さっきの一本より、うまかった。
なぜかは、分からなかった。
***
居間に、脚のついた箱があった。
夜になると、箱の中で、人が動いた。
伊左衛門の妻と、三つの子供が、箱の前に座った。
それも、座った。
誰にも、見えていなかった。
***
月曜の夜、八時。
箱の中で、白いひげのじいさんが、旅をしていた。
偉いじいさんだった。
じいさんが口を開くと、まわりがみんな、頭を下げた。
それは、毎週見た。
じいさんの喋り方を、覚えた。
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春に、なった。
***
伊左衛門が、道場から帰ってきた。
玄関に、金色の髪の子供が立っていた。
「控えおろう」
「……」
「わしじゃ」
***
伊左衛門は、靴を脱いだ。
「……どこで、覚えた」
「あの、箱の。じいさんじゃ」
「あれは、えらい、じいさんじゃ。わしも、えらい」
「なぜ」
***
それは、居間の鴨居の上を指した。
神棚が、あった。
「あそこに、おる、ものに。お主の、女房が。毎朝、手を、合わせとる」
「見えんで。家に、おって。拝まれる、もの」
「わしじゃ」
***
「違う」
「違わん。神であるぞよ」
「ぞよ、は。どこで、覚えた」
「箱じゃ」
***
伊左衛門は、長いこと黙っていた。
それから。
「……勝手に、しろ」
叱らなかった。
***
それは、その日から、神になった。
***
昭和四十六年。冬至の朝だった。
伊左衛門は、縁側で北を向いて、手を合わせていた。
背中に、神が乗っていた。
一年前の夜から、そこが居場所だった。
***
「お父さん」
後ろで、声がした。
四つになった子供だった。
総一郎、といった。
「お父さんの、背中に。子供が、いる」
***
伊左衛門は、振り向かなかった。
手を合わせたまま、言った。
「……見えんことに、しとけ」
子供は、黙った。
***
背中の神は、聞いていた。
「見えとるぞ。あの、小さいの」
「知っとる」
「なぜ、隠す」
伊左衛門は、答えなかった。
北を、見ていた。
***
その朝、伊左衛門は柚子湯に入った。
柚子が、湯が見えないほど浮いていた。
そのあいだに、金色の頭が一つ、浮いていた。
「……」
「ええ、湯じゃ」
「呼んで、いない」
「背中に、おったら。一緒に、入った」
***
戸が、少し開いていた。
隙間に、子供の目があった。
「浮いとらんぞ」
神は、言った。
目は、引っこんだ。
***
伊左衛門は、柚子を一つどけた。
「呼ばれてから、入れ」
「風呂も。部屋も。人の、うちも」
「背中は」
「背中は、いい」
「あそこは。呼んだ」
それは、真に受けた。
***
その夜。
神は、玄関の外に立った。
呼ばれるのを、待った。
伊左衛門は、道場の帳簿をつけて、寝た。
忘れていた。
冬至の夜だった。一年で、いちばん長い夜だった。
***
朝。
伊左衛門が、新聞を取りに出た。
戸の前に、金色の頭に、霜がおりていた。
「……」
「呼ばれて、おらん」
「……入れ」
「呼ばれた!」
敷居を、ぴょんと跳ねた。
***
伊左衛門は、新聞を持ったまま、しばらく立っていた。
それから、小さく言った。
「……すまん」
この男が神に謝ったのは、それが最初だった。
***
年の暮れだった。
伊左衛門は、縁側で息をしていた。
四つ、吸って。
二つ、止めて。
六つ、吐く。
あったかそう、だった。
***
神は、後ろから入ろうとした。
ごん。
弾かれた。
尻もちを、ついた。
***
「……入れん」
「入るな」
「なぜ、入れんのじゃ」
「閉めて、ある」
「開けい」
「開けん」
「なぜじゃ。あったかそうじゃ」
***
伊左衛門は、息を止めた。
振り向いた。
「人の、体は」
「家では、ない」
***
神は、尻をさすった。
それから、障子の向こうを見た。
布団で、子供が寝ていた。
「では。あの、小さいのは」
「開いとるぞ」
***
伊左衛門の顔が、変わった。
膝の上で、手が握られた。
白くなるほど。
「……それだけは」
「いかん」
大きな声では、なかった。
***
神は、尻もちをついたまま、動けなかった。
羊羹のときの「いかん」とは、違う「いかん」だった。
***
「……あれは、入ったぞ」
神は、言った。
小さい声だった。
「山の。もう、一つの、ほうじゃ」
「あれと、わしは。同じ、ものじゃ」
「同じ、ところから、来た」
***
伊左衛門は、黙って聞いていた。
「あれが、先に、おった」
「わしが、戸を、出た、ところを。掴まれた」
「先に、掴んだ、ほうが。勝つ」
「じゃが。掴んだ、ままでは。あれも、動けん」
***
「五十年じゃ」
「二つとも。あの、窪みに、おった」
「お主らが、来て。あれが、手を、離した」
「じゃから。わしは、出られた」
***
あれが手を離したのは、もう一人の男に移るためだった。
神は、それを見ていなかった。
伊左衛門は、見ていた。
言わなかった。
***
「……同じか」
「同じじゃ」
「なら」
伊左衛門は、言った。
「なおさら、覚えろ」
「人には、入るな」
「入ったら。うちには、置かん」
***
神は、しばらく考えた。
「……入らねば。置いて、くれるのか」
「飯は、食わせる」
「羊羹は」
「半分だ」
神は、頷いた。
三つ目の決まりだった。
***
その夜、伊左衛門は手帳を開いた。
端に、一字あった。
几帳面な字だった。
伊左衛門の字では、なかった。
長いこと、見ていた。
何も、書き足さなかった。
閉じた。
***
正月だった。
「お前。名は」
伊左衛門が、聞いた。
一年と少したって、初めて聞いた。
***
神は、名を言った。
伊左衛門の耳に入ったそばから、こぼれていった。
「もう一度」
言った。
「もう一度」
***
三度目で、伊左衛門は口を開いた。
「……メ」
「レ」
「オ」
「ス」
***
「続きが、あるぞ」
「もう、いい」
「長い」
「半分も、言うとらん!」
「メレオスだ」
「……」
「呼びやすい、ほうで、いい」
***
神は、口の中で言ってみた。
「メレオス」
「わしは、メレオスか」
「嫌か」
「……悪うない」
「神、メレオスであるぞよ」
「ぞよ、は、やめろ」
「やめん」
***
昭和四十七年。二月三日。
伊左衛門は、夕方から支度をしていた。
「山へ、行く」
メレオスの肩が、硬くなった。
「……わしは、行かん」
「来なくて、いい」
***
伊左衛門は、何も頼まなかった。
留守を頼む、とも。
家を頼む、とも。
この男が神に何かを頼むのは、ずっとあとのことだった。
一度きり、だった。
***
ただ。
こたつの上の、自分の小皿を指した。
年の数の豆が、盛ってあった。
「この、ぶんは。食って、いい」
「人の、ものでは、ないのか」
「やる、と、言った」
「やる、と、言われたら。食って、いい」
四つ目の決まりだった。
***
「じゃが」
メレオスは、言った。
「お主が、おらんと。わしは、入れん」
「呼ぶ、者が、おらん」
***
伊左衛門は、玄関で靴をはいた。
少し、考えた。
「……外で、聞いて、いろ」
それだけ言って、出ていった。
***
夜。
玄関の外に、メレオスが立っていた。
家の中で、声がした。
伊左衛門の妻と、子供の声だった。
鬼のいない、豆まきだった。
***
「お父さんは?」
「お稽古よ」
「鬼は?」
「今年も、いないわねえ」
***
「おには、そと」
小さい声だった。
豆が、庭に落ちる音がした。
***
それから。
玄関の戸が、開いた。
五つになる子供が、升を持って立っていた。
目が、合った。
***
子供は、見た。
金色の髪の子供を。
見て。
見えないことに、した。
父に言われたとおりに。
***
でも。
まっすぐこっちを向いて、言った。
「ふくは、うち」
豆が、一粒、メレオスの額に当たった。
***
「……呼ばれた」
メレオスは、言った。
伊左衛門ではない声に、初めて呼ばれた。
敷居を、ぴょんと跳ねた。
***
子供は、何も言わなかった。
戸を、閉めた。
少しだけ、ゆっくり閉めた。
***
翌朝。
伊左衛門の小皿だけ、空になっていた。
「あら」
妻が、言った。
「ねずみね」
子供は、黙って味噌汁を飲んでいた。
***
伊左衛門は、夜中に帰っていた。
小皿を、見た。
子供を、見た。
何も、言わなかった。
***
手帳を、開いた。
後ろのページの欄外に、小さく書いた。
『二・三 異状なし』
背中が、少し重かった。
***
それから、五十五年。
伊左衛門の小皿の豆は、毎年空だった。
毎年、ねずみのせいになった。
福は、ずっと内にいた。




