第八十九章 違う、座り方
『ホラー』は、一週間で三回、前髪を上げた。
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一回目は、一月二十一日。国会の委員会の廊下だった。
二回目は、二十三日。警察庁の定例の会議の前だった。
三回目は、二十六日。ホテルの何かの式典のロビーだった。
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三回とも、赤城さんの半歩後ろに立って。
胸に名刺を入れて、加藤さんの黒いピンで前髪を留めて。
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三回とも、鷲尾はにこにこしていた。
四十五度の礼をした。何事もなかったみたいに。
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警備局長は、今日も、警備局長の仕事をしていた。
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一月二十七日。水曜日。
0課の会議室。
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節分まで、あと七日だった。
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『ホラー』は、椅子に深く座っていた。
前髪は、下りていた。顔色は、いつもよりもう二段悪かった。
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「……三回、見ました」
『ホラー』は言った。
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「三回とも、同じです」
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会議室には、赤城さんと課長と、『レディー』と、『ジョン』と、『レスラー』。
加藤さんが、お茶を配っていた。
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俺の隣の椅子に、メレオスが座っていた。足が、床に届いていなかった。
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それから、部屋の隅の小さな机に、共さんがいた。
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紺色のセーターで、背筋を伸ばして、封筒に宛名のシールを貼っていた。
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一件、十円。加藤さんのお財布から。0課のプラス一のお仕事だった。
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シールは、一枚も曲がっていなかった。
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「手前に、子供が、います」
『ホラー』は言った。
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「窓から、顔を、出すみたいに。……三回とも、俺を、見て、笑いました。おでこの人、って」
「奥は」
赤城さんが聞いた。
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「……います。三回とも」
『ホラー』は、少しだけ目を閉じた。
思い出していた。見たものを、もう一度見ていた。
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「正座、してます。……背筋を、伸ばして」
「膝の、上で。両手を、重ねてます」
「顔は、上げてます。……目も、開いてます」
「三回とも。同じ、姿勢です。……一ミリも、動いてません」
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一ミリも。定規で、測ったように。
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「……助けを、待ってるんですね」
俺は言った。
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じいちゃんに五年習った人だった。筋がいい、と褒められた人だった。
自分から迎え入れたのだとしても。
中で、五十年ぶん後悔しているのかもしれなかった。
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共さんが、そうだったみたいに。
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部屋の隅で、シールを貼る音が止まった。
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「……平沼さん」
共さんが言った。
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共さんは、『ホラー』を本名で呼ぶ。
コードネームというものが、どうにも口になじまないらしかった。
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「……はい」
「一つ、伺っても、よろしいですか」
「……どうぞ」
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共さんは、シールの台紙を机に置いた。
両手を、膝の上に戻した。
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「手は。……どちらが、上ですか」
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『ホラー』は、少しだけ考えた。
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「……右です。右が、上です」
「握って、いますか。開いて、いますか」
「……開いてます。重ねてる、だけです」
「目は、開いている、と、おっしゃいました」
「はい」
「何を、見て、おられますか」
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『ホラー』は、もう一度、目を閉じた。
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長い間だった。
「……子供の、背中を」
『ホラー』は言った。
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「前に、いる、子供の。……背中を、ずっと、見てます」
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共さんは、頷いた。
ゆっくり。一回だけ。
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「……私は」
共さんは言った。
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「うつむいて、おりました」
会議室が、静かになった。
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「五十年。……同じように、奥に、おりました。正座を、して」
共さんの声は、いつもと同じだった。
丁寧で、低くて、かすれていて。
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「ですが、私は。……顔を、上げられませんでした」
「手は、握って、おりました。膝の、上で。こう」
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共さんは、膝の上で、両手を握った。
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拳だった。白くなるほど握った拳だった。
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「道場で。……叱られるときの、座り方です」
「目は、閉じて、おりました。……開けると、見えて、しまうので」
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「自分の、手が。……自分の、口が。していることが」
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共さんは、拳をほどいた。
それから、手を重ねた。右を上に。開いたまま。
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背筋を伸ばした。顔を上げた。
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『ホラー』が言ったとおりの姿勢だった。
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「……これは」
共さんは言った。その姿勢のまま。
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「違う、座り方です」
「これは、叱られる、座り方では、ありません」
「控える、座り方です」
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「上の、方の、後ろで。……お呼びが、あるまで。ご用が、済むまで」
「待って、おられるのです。……その方は」
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「助けを、では、ありません」
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共さんは、姿勢を戻した。いつもの共さんの座り方に。
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「……主人を、です」
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誰も、何も言わなかった。
俺は、自分の言ったことを思い出していた。
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助けを、待ってるんですね。
違った。
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方眼紙の線を思い出した。
下書きから、定規で引いた線。交点の一ミリ手前で止めた線。
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あの人は、ノルウェーの町に図案を送った。
自分の手で。あれが入る前に。
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冬至の山で、仮面をつけて、両腕を広げて。
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迎え入れたのでは、なかった。
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差し出したのだった。
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「……熱心だった、理由」
『レディー』が言った。爪は、見ていなかった。
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「五年、一番前で、習ったのも。二十年、羊羹を、届けたのも」
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「近くに、いるためよ。……伊左衛門先生の。先生の、山の。先生の、一番弟子の」
「仕事、だったのよ。全部」
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赤城さんは、黙っていた。
机の上の、自分の手を見ていた。
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二十年。毎年、年始に。栗の入っていない、黒いほうを。
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「……大臣」
課長が言った。うん、うん、とは言わなかった。
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赤城さんは、顔を上げた。
「……変わらない」
赤城さんは言った。
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「一人も、死なせるな。……鷲尾も、含めてだ」
「助けてくれ、と、言っていない、相手でも、ですか」
『ジョン』が聞いた。
責める声では、なかった。確かめる声だった。
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「言っていない、相手でも、だ」
赤城さんは言った。
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「先生は。……撃ってくれ、と、言った、相手を。撃たなかった」
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部屋の隅で、共さんが、少しだけ目を伏せた。
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課長が、手帳を開いた。
俺が来た最初の週から、腕時計とメジャーで測ってきた手帳だった。
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「……そうなるとね」
課長は言った。
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「一つ、困ったことが、ある」
「冬至の、とき。久我さんから、あれを、引きはがしたでしょう。……外から、檻で、押さえて。中に、気を、通して」
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「あのとき。久我さんは、中から、手を、離してくれた」
構いません、と、共さんは言った。
五十年、ずっと、痛かったので、と。
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「今度は」
課長は、手帳のページを指で押さえた。
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「中の、人が。……離して、くれないよね」
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「離すまい」
メレオスが言った。
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今日、初めて口を開いた。
「中から、戸を、押さえとる者が、おる。……開けたまま、押さえとる。あれが、出ていかんように」
「そこへ、外から、気を、通せば、どうなる」
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メレオスは、俺を見た。
「……器が、割れる」
「押せば、押すほど、じゃ。……あれより、先に。鷲尾という、男が、壊れる」
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一人も、死なせるな。鷲尾も、含めてだ。
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引きはがせば、死ぬ。
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「……じゃあ」
俺は言った。
「どうすれば」
「あれが、自分から、出るしか、ない」
メレオスは言った。
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「器を、割らずに、出すにはな。……あれが、自分で、この体は、もう、いらん、と。思うしか、ない」
「いらん、と、思わせる。……どうやって」
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メレオスは、答えなかった。
答えたのは、部屋の隅だった。
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「……もっと、いい体が、あれば」
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共さんだった。
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全員が、共さんを見た。
共さんは、膝の上の手を、開いたまま重ねていた。
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違った。
握ってもいなかった。重ねてもいなかった。
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ただ、膝の上に置いていた。
「あれは。……私の、体に、戻りたがって、おります」
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「一月九日の、夜中。私の、戸を、二度、試しました。……開かないと、分かって、帰りました」
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「五十年、住んだ、家ですから。……どこに、何が、あるか。全部、知っている、家ですから」
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共さんは、自分の胸に、手を当てた。
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「偉い人の、体より。……こちらのほうが、いいのです。あれには」
「私が、参ります」
共さんは言った。
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「節分の、夜に。隠り山へ。……あれが、自分から、出てくるように」
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「駄目だ」
赤城さんだった。
即答だった。賀詞交歓会の夜と、同じ速さだった。
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「久我さんは、戸の、中に、いてください。……あれは、久我さんに、入れる」
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あの夜。
共さんは、長い沈黙のあと、承知、しました、と言った。
承知していない声で。
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今日は、沈黙がなかった。
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「赤城さん」
共さんは言った。
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「伊左衛門さんは、五十年前。……私を、置いて、山を、下りました」
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赤城さんの口が、閉じた。
「正しかった、と、思って、おります。……今も」
「あのとき。私は、頼みました。……構わず、撃ってください、と。伊左衛門さんの、家族を、守ってください、と」
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「伊左衛門さんは、撃ちませんでした。……でも。守りました」
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「五十五年。冬至と、節分と。……一回も、休まずに」
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百十回。異状なし。
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「私は。……その、五十五年。あれの、奥で。うつむいて、おりました」
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「あれが、伊左衛門さんの、ことを。うるさい、と、言うのを。……自分の、口で、言うのを。聞いて、おりました」
「何も、できませんでした」
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共さんは、赤城さんを見ていた。まっすぐ。
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「今度は」
「私の、番です」
***
赤城さんは、首を振った。
「……あなたに、もう一度。あれを、入れるわけには、いかない」
「入りません」
共さんは言った。
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それから、俺を見た。
「戸が、あります。……由紀さんの」
「私の、形だけ、通れる、戸です。……九日の、夜。あれは、二度、試して、開けられませんでした」
***
「私は、戸の、内側に、おります。……山でも」
「あれは、戸の、前まで、来ます。……来て、入れません」
「そこを」
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共さんは、俺を見たまま、少しだけ頭を下げた。
***
「健司さんに。……お願い、できれば」
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体の外に出た、あれ。器のない、あれ。
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ノルウェーの雪原で、氷の檻の中に、一度だけ入れた。
軽くて、冷たかった。
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番小屋の戸の前で、呼んで、戻して、閉めた。
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器から引きはがすのでは、ない。
あれが、自分から器を捨てたところを。
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「……できます」
口から出ていた。
***
「できると、思います。……由紀が、いれば」
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「駄目だ」
赤城さんは、もう一度言った。
***
さっきより、少しだけ声が低かった。
***
「久我さん。……あなたは、五十年、もう」
「赤城さん」
***
共さんが、座り直した。
椅子の上で、背筋を伸ばして、両手を膝に置いて。
***
道場で、稽古をつける側の座り方だった。
***
「兄弟子として、申し上げます」
***
赤城さんが、止まった。
忘年会の夜と、同じだった。同じ言葉だった。
あの夜は、そのあとに、飲みなさい、と続いた。
***
今日は。
「……私を、使いなさい」
***
会議室が、静かだった。
国務大臣は、三十七歳の顔をした。
九十三歳の兄弟子を見ていた。
***
長い間だった。
***
赤城さんの口元が動いた。
何か言おうとして、やめた。
***
それから。
「……はい」
忘年会の夜と、うちのすき焼きの夜と、同じ、はい、だった。
***
共さんは、頭を下げた。四十五度。きっちり、三秒。
***
「……恐れ入ります」
***
俺の隣で、メレオスが、椅子から降りた。
***
とことこ歩いて、部屋の隅の小さな机の前に立った。
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共さんを見上げた。
「……久我の」
「はい。神様」
「わしも」
メレオスは言った。
***
「うつむいとった」
共さんは、メレオスを見下ろした。
***
「窪みの、底でな。……五十年。膝を、抱えて。目を、つぶって」
「開けても、真っ暗じゃったが。……つぶっとった」
「同じ、相手に、じゃ」
***
共さんは、何も言わなかった。
***
椅子から降りた。床に膝をついた。
メレオスと同じ高さになった。
***
「……神様」
「何じゃ」
「今度は」
共さんは言った。
***
「顔を、上げて、参ります」
メレオスは、ふん、と鼻を鳴らした。
***
「……当たり前じゃ」
***
それから、机の上の封筒を見た。
***
「……曲がっとらんのぉ。一枚も」
「恐れ入ります」
「わしのは、曲がる」
「……存じて、おります」
***
加藤さんが、手帳に何か書いた。
***
「共さん、本日、十二件。……途中で、手が、止まりましたので」
「申し訳、ありません」
「いえ。……百二十円です」
***
加藤さんは、少しだけ、手帳を見ていた。
***
「……二月の、三日の、ぶんは。先に、お支払い、しておきますね」
「まだ、貼って、おりませんが」
「帰ってきてから、貼って、ください」
***
にこにこしていた。目だけが、少し赤かった。
***
十二時半。
由紀の昼休みだった。
***
廊下で、電話した。
全部、言った。
奥の正座のこと。違う座り方のこと。共さんが言ったこと。
***
戸のこと。
***
『……山で』
由紀は言った。
『共さんの、戸を。あたしが、閉めるの』
「……縁側からじゃ、届かないかも、しれない。その場で、閉めないと」
「嫌なら」
『嫌じゃない』
***
即答だった。
『戸なら、あたしが、閉める。……あたしの、戸だもん』
***
少し、間があった。
『共さん、ね』
『冬至の、あと。病院で。……あたしに、頭、下げたの。守って、くださって、って』
***
『五十年、守って、もらえなかった、人なのに』
『今度は、自分が、行くって、言ったんでしょ』
「……言った」
『じゃあ、あたしも、行く』
***
電話の向こうで、店のチャイムが鳴っていた。
***
『でも、その前に』
「……うん」
『お母さんに、言う。……先に』
「……俺から、言おうか」
『だめ』
由紀は言った。
***
『自分の、危ないことは。自分で、言うの。……そういう、決まりでしょ』
***
そういう決まりだった。
電話が、切れた。
***
廊下の突き当たりに、会議室の扉があった。
***
扉のガラスの向こうに、共さんがいた。
机に戻って、封筒にシールを貼っていた。
***
背筋を伸ばして。
顔を、上げて。




