第百五章 見えて、ない
「日曜は、休み、だそうだ」
『ジョン』が言った。
店の話だった。
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三月一日。月曜日。
ロンドンは、曇りだった。
店は、きのう休んだ。
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『レスラー』は、休まなかった。
赤いポストの陰に、二晩いた。
「寝たんですか」
「立って、寝た」
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肩は、きょうも出ていた。
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おばあさんが来た。
手紙を持っていた。
ポストには、入れなかった。
『レスラー』に渡した。
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『レスラー』は、黙って受け取って、ポストに入れた。
おばあさんは、うなずいて帰った。
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「……何、してるんですか」
「入れにくい、らしい。俺が、いると」
「どけば、いいじゃないですか」
「どいたら、見える」
「十四通目だ」
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二日で、ポストの一部になっていた。
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手に、丸いパンを持っていた。
「それは」
「隣の、パン屋が、くれた」
「あんの、入って、ない、パンだ」
「スコーンだ」
『ジョン』が言った。
「……あんを、入れれば、いいのに」
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三つ目だった。
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『ブル』は、来なかった。
歩き方を、知られている。
共さんも、来なかった。
あの顔は、五日までしまっておく。
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鈴が鳴った。
店の戸が開いた。
職人だった。
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前掛けは、していなかった。
帽子を、かぶっていた。
脇に、細い包みを抱えていた。
茶色の紙だった。
端から、柄だけ出ていた。
同じ柄だった。
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戸に、鍵をかけた。
歩きだした。
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「行くぞ」
『レスラー』が、ポストの陰から出た。
一歩、歩いた。
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職人の、三歩ぶんだった。
もう、追いついていた。
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「近い」
「一歩しか、歩いてない」
「半分で、歩け」
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半分で、歩いた。
大きい人が、小さく歩いていた。
よけい、目立った。
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「山が、歩いとる」
肩の上で、メレオスが言った。
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職人が、よその店の窓の前で止まった。
『レスラー』は、街灯の陰に入った。
街灯は、腕より細かった。
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「見えてるぞ」
「見えて、ない」
全部、見えていた。
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次は、赤い箱だった。
電話の箱だった。
『レスラー』は、入った。
入れた。
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「……今度は、見えて、ないだろう」
ガラスだった。
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出るとき、肩がつかえた。
『ジョン』と二人で、引いた。
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職人は、一度も振り向かなかった。
歩くのは遅かった。休まなかった。
一時間、歩いた。
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川が見えた。
丸い屋根の小屋があった。
職人は、入った。
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階段が、下へ回っていた。
下りた。
穴だった。
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白いタイルの、まっすぐな穴だった。
「川の、下だ」
『ジョン』が言った。
「歩いて、渡る」
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隠れるものが、一つもなかった。
ポストも。街灯も。箱も、なかった。
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音が、響いた。
職人の足音は、小さかった。
『レスラー』の足音は、向こうの端まで行って、帰ってきた。
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「つま先で、歩け」
つま先で、歩いた。
響いた。
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地下で音が響きました、と、共さんは言っていた。
こういう音だったんだろうか。
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職人は、それでも振り向かなかった。
耳が遠いのか、そうでないのか、分からなかった。
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上がった。
川の向こうだった。
坂があった。
丘だった。
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職人は、上った。休まなかった。
俺が、休みたかった。
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上に、人が並んでいた。
地面に、線が一本あった。
金属の線だった。
みんな、線をまたいで、写真を撮っていた。
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「……グリニッジだ」
『ジョン』が言った。
「零度の、線だ」
『ギーク』の言ったとおりだった。
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「何、してるんですか。あの人たち」
「サイトシーイングだ」
目は、泳いでいなかった。
「今度は、嘘じゃ、ない」
紅茶と、同じだった。
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メレオスが、肩を降りた。
線を、またいだ。
「東と、西に。片足ずつじゃ」
俺の席は、東のほうだった。
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職人は、列に並ばなかった。
横を、通った。
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『レスラー』は、列に入った。
隠れているつもりだった。
頭が、二つぶん出ていた。
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前の人が、振り向いた。
見上げた。
「……レスラー?」
「イエス」
親指が、立った。
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写真を、頼まれていた。
線を、またがされていた。
「この国は。みんな、俺の、名前を、知ってる」
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列のすぐ横に、石の壁があった。
小さい戸が、ついていた。
緑のペンキが、はげていた。
庭の道具をしまう戸に、見えた。
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線を、目でのばした。
その先に、戸があった。
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職人は、戸を叩いた。
三回だった。
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開いた。
手だけ、出た。
包みが、入った。
閉まった。
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職人は、帽子を少し上げた。
戸に、だった。
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来た道を、帰っていった。
俺たちの横を、通った。
見なかった。
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客のことは、言わない人だった。
見ない人でも、あった。
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十歩先に、何十人もいた。
誰も、戸を見ていなかった。
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百四十年の会のすぐ横で、みんなピースをしていた。
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メレオスが、戸の前にいた。
鼻が、動いていた。
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「……匂う」
「あれの、匂いじゃ」
「古い」
「去年の、じゃ」
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共さんの足で、あれが来た戸だった。
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「ここじゃ」
戸には、触らなかった。
「入らないのか」
「呼ばれて、おらん」
「呼ばれるのは。四日、あとじゃ」
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肩に、戻ってきた。
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三月五日まで、あと四日だった。




