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第百四章 雨の、音

「三杯、いただきました」


共さんが言った。

紅茶の話だった。


ゆうべ、『ブル』がいれた。


***


「結構な、お味でした」


「嘘には、ならなんだ」


『ブル』は言った。


***


二月二十七日。土曜日。

ロンドンは、雨だった。


細い通りだった。

石の道が、濡れていた。


***


小さい店があった。


窓に、傘が並んでいた。

全部、巻いてあった。全部、細かった。


***


看板に、名前はなかった。


傘の絵だけだった。


***


通りの向かいに、赤いポストがあった。


『レスラー』が、その陰にいた。

隠れているつもりだった。


ポストの両側から、肩が出ていた。


***


「見えてるぞ」


『ジョン』が言った。


「見えて、ない」


「見えてる」


***


『ブル』は、店の前に立った。


帽子から、水が落ちていた。


傘を、両手で持った。


***


留めのひもがあった。

ボタンが一つ、ついていた。


指が、ボタンにかかった。


止まった。


***


長かった。


誰も、何も言わなかった。

『ジョン』も、言わなかった。


***


外した。


ひだが、少しゆるんだ。


二十年ぶんのひだだった。


***


開いた。


音がした。


***


大きい音じゃなかった。

布が張る音だった。


***


黒い傘だった。


折り目が、一本ずつ残っていた。


***


『ブル』は、傘の下に立っていた。


帽子から、水が落ちなくなった。


顔を、少し上げた。


***


「……雨の、音が。いたす」


小さい声だった。


「傘に、当たる、音で、ござる」


***


二十年、濡れてきた人だった。


この傘の音を、初めて聞いていた。


***


「……普通の、傘だな」


『ジョン』が言った。


「普通の、傘で、ござる」


「二十年、かけて。普通の、傘か」


「左様」


***


『ブル』は、少し笑った。


***


店の戸が開いた。


鈴が鳴った。


***


老人だった。


小さかった。

前掛けをしていた。

眼鏡が、鼻の先にあった。


窓から見ていたんだろう。


***


『ブル』を見た。

開いた傘を見た。


何か言った。

一言だった。


***


「遅い、だ」


『ジョン』が訳した。


***


『ブル』は、帽子を取った。


傘は、差したままだった。


***


老人は、続けた。


長かった。

息を、継がなかった。


***


指が、傘のふちを指した。

骨を指した。

『ブル』の胸を指した。


***


「……何て」


「二十年ぶんだ」


『ジョン』は言った。


「訳すと、長い」


「短く、言うと」


「馬鹿者、だ」


***


『ブル』は、立っていた。

背筋が、まっすぐだった。


何も、言い返さなかった。


廊下に立たされている子供みたいだった。


***


「叱られとる」


肩の上で、メレオスが言った。

うれしそうだった。


「ええ、顔じゃ」


「どっちが」


「両方じゃ」


***


老人は、手を出した。


『ブル』は、傘を閉じた。

渡した。


両手で、だった。


***


老人は、受け取って、店に入った。


戸は、開けたままだった。


入れ、ということらしかった。


***


中は、狭かった。


木の台があった。


***


老人は、傘を台にのせた。

もう一度、開いた。


ひだを、一枚ずつ指でなでた。


***


何か言った。


さっきより、低い声だった。


***


「三日、かかる、そうだ」


『ジョン』が言った。


「二十年、放って、おいた、ひだは。三日、かかる」


「……かたじけない」


『ブル』は言った。


***


日本語だった。


通じていなかった。

通じているみたいだった。


***


共さんは、入り口に立っていた。

奥を見ていた。


「健司さん」


小さい声だった。


「奥の、棚に」


***


見た。


傘が、一本かかっていた。

細く、巻いてあった。


黒かった。


柄が、同じだった。


***


「同じ、傘が。もう、一本、ございます」


***


『ブル』の傘は、台の上で開いていた。


奥の一本は、巻いたばかりだった。


***


零度の傘だった。


もう、来ていた。


***


『ブル』も、見ていた。


何も、言わなかった。


老人も、何も言わなかった。


***


客のことは、言わない人だった。


***


店を出た。


雨は、まだ降っていた。


***


『ブル』の手に、傘がなかった。


手が、少し浮いていた。

持つものを、探していた。


***


『ジョン』が、折りたたみを開いた。


半分、出した。


きのうと、同じだった。


***


『ブル』は、それを見ていた。


「……袋で、ござるが」


「ああ」


「入り申す」


***


入った。


肩が、半分出ていた。

二人とも、だった。


***


「狭いな」


「袋で、ござるゆえ」


「文句が、あるなら、出ろ」


「出ぬ」


***


通りの向かいで、『レスラー』が言った。


「俺は。ここに、いる」

「傘が、出る、まで」


ポストの陰から、動かなかった。


***


三月五日まで、あと六日だった。


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