第九十四章 伊左衛門さんの、家族を
明かりが、ついていた。
夜の十時半だった。
実家の門の前で、『レディー』の車を降りた。
***
「貸しは、今度」
『レディー』は、それだけ言った。
助手席で、『ホラー』が寝ていた。前髪が下りていた。
車が、行った。
***
玄関のガラス戸の向こうに、影があった。
座っていた。
頭に、角が二本あった。一本、曲がっていた。
***
戸を開けた。
父がいた。
上がり框に座布団を敷いて、毛布をかぶって、赤鬼の面を額に上げていた。
膝の上に、夕刊があった。読んでいなかった。
***
「……おかえり」
父は言った。
「うむ。ただいま」
メレオスが言った。
前は、逆だった。
***
父は、俺を見た。由紀を見た。メレオスを見た。
それから、その後ろを見た。
「……三人で、出て」
「四人で、帰ってきたな」
「うん」
「そうか」
***
父は、何があったか聞かなかった。
足が四人ぶんあるのを、見ていた。
***
じいちゃんは、五十五回、山から帰ってきた。
誰も、知らなかった。
玄関の明かりは、消えていたはずだった。
今夜は、鬼が玄関で待っていた。
***
共さんは、敷居の外に立っていた。入ってこなかった。
「久我」
メレオスが言った。
「客じゃ。堂々と、入れ」
「……は」
***
共さんは、敷居をまたいだ。背筋を伸ばした。
四十五度。きっちり、三秒。
「久我と、申します」
「夜分に。……恐れ、入ります」
***
父は、立ち上がった。毛布が落ちた。
礼を返した。面をつけたまま。
「……小沢です」
「鬼で、すみません」
***
「遅いわよ。鬼」
奥から、母が出てきた。
エプロンで、木の升を二つ持って。
俺に、青鬼の面を渡した。
***
「ただいま」
由紀が言った。
「危なかった。……でも、閉めた」
「あとで、聞くわ。全部」
母は言った。
「先に、豆」
由紀の頭を、一回なでた。二十代の娘の頭を。
***
それから、共さんを見た。
「久我さん」
「はい」
「いらっしゃい」
「……お招き、いただきまして」
「上がって。寒いでしょう」
「豆まき、するのよ。今から」
「十時半よ。斉藤さん、寝てるから。……小さい、声でね」
***
庭に出た。
鬼は、二人。父と、俺だった。
福は、一人。メレオスが、お多福を頭にのせていた。
***
「客は」
共さんが言った。
「どちらに、立てば」
「まく、ほうよ」
母は、升を渡した。
共さんは、両手で受けた。
名刺を受け取るときの、受け取り方だった。
***
「……鬼は、外」
母が言った。ひそひそ声だった。
「鬼は、外」
由紀が言った。
ひそひそ声で、本気で投げた。
父に、当たった。
「……痛い」
父も、ひそひそ声だった。
***
共さんは、豆を一粒つまんだ。
少し、見ていた。
「失礼、いたします」
投げた。
俺の額の、真ん中に当たった。
「失礼、いたします」
同じところに、当たった。
「失礼、いたします」
同じところだった。
***
「……共さん」
「はい」
「狙って、ますか」
「鬼は、外、と。伺いましたので」
「合気の、人が。豆を、投げると。こうなるんですね」
「加減は。……して、おります」
***
「福は、内」
母が言った。
玄関の外で、メレオスが待っていた。
呼ばれるまで、入らない神様だった。
「福は、内」
「福は、内」
三回目で、敷居をぴょんと跳ねた。
「福が、入った」
ひそひそ声だった。
神様も、斉藤さんには気をつかった。
***
こたつに入った。
小皿が並んだ。年の数の豆だった。
母は、今夜はちゃんと数えていた。
メレオスの小皿には、一粒。
うちに来てから数えて、一つだった。
***
「久我さん」
母が言った。升を持ったまま。
「おいくつ?」
共さんは、湯呑みを置いた。
嘘の言えない人だった。
「……九十三に、なります」
***
母の手が、止まった。
「……四十、くらいに、見えるけど」
「昭和、八年の、生まれで、ございます」
真顔だった。
父の湯呑みも、止まっていた。
「……親父の。五つ、下だ」
父は言った。
***
共さんは、座布団から下りた。畳に正座した。
「お話し、しなければ、ならない、ことが。ございます」
「由紀さんは。私の、ことを」
「私に、取って、おいて、くださいました」
「自分の、口で。申し上げます」
由紀は、こたつ布団を握っていた。
***
「伊左衛門さんの。弟弟子で、ございます」
「昭和、四十五年の、冬至に。二人で、あの山へ、入りました」
「山に、いた、ものに。……体を、取られました」
「五十六年」
「私の、体は。私の、ものでは、ございませんでした」
「年を、取りません、でしたのは。そのためです」
「去年の、冬至に。健司さんと、由紀さんが」
「出して、くださいました」
母は、由紀を見た。
由紀は、頷いた。
***
「あの夜」
共さんは続けた。
「伊左衛門さんに、頼みました」
「構わず、撃って、ください、と」
「伊左衛門さんの、家族を。守って、ください、と」
「私に、入った、ものは。次は、そちらへ、行くと。思いましたので」
「伊左衛門さんは。撃ちません、でした」
「でも。守りました」
「五十五年」
***
共さんは、父を見た。
「ご家族、と。申しましたのは」
「奥様と」
「……総一郎さん。あなたです」
父は、動かなかった。
「三つで、いらっしゃいました」
「道場の、縁側で。私の、帯を。引っぱって、おられました」
「……大きく、なられました」
***
「こやつは、なったのぉ」
メレオスが言った。
「わしは、ならんが」
***
父は、長いこと黙っていた。
赤鬼の面が、額の上にあった。
「……親父は」
父は言った。
「何も、言わなかった」
「久我さんの、ことも。山の、ことも」
「毎年。冬至と、節分に。……いなかった、だけだ」
「言えなかった、のだと。思います」
共さんは言った。
「置いて、下りた、と。ご自分では、思って、おられた、でしょうから」
「私は。正しかった、と。今も、思って、おります」
***
父は、面を取った。膝の上に置いた。
「……覚えて、ないんだ」
「久我さんの、ことを」
「すまない」
「三つで、いらっしゃいましたので」
真顔だった。
「……帯は」
父は言った。
「覚えてる、気が、する。……紺の」
「白で、ございました」
「……そうか」
***
父は、少しだけ笑った。
初めて見た。父が、こういう笑い方をするのを。
***
母が、升を置いた。
「……ごはんは」
「は」
「五十六年。ごはんは、どうしてたの」
母の聞くことだった。
「食べて、おりました」
共さんは言った。
「私の、口で。……あれが」
「味は。覚えて、おりません」
***
母は、立った。台所へ行った。
鍋の音がした。火の音がした。
誰も、何も言わなかった。
***
母が、戻ってきた。
お椀を一つ持っていた。客用のお椀だった。
けんちん汁だった。
「じゃあ」
母は言った。
「今から、覚えて」
***
共さんは、両手で受けた。
一口、飲んだ。
長いこと、黙っていた。
「……大根が」
「甘う、ございます」
「覚えました」
「おかわり、あるわよ」
母は言った。鼻が赤かった。
***
母は、共さんの小皿を引き寄せた。
「九十三は、数えません」
「……は」
「あれが、食べた、ぶんは。あなたの、年じゃ、ないでしょう」
「取られた、ときは。おいくつ」
「三十七で、ございました」
***
母は、数えた。十ずつ、山にして。
三つの山と、七粒。
「それと」
もう一粒、のせた。
「今年の、ぶん」
三十八粒だった。
「来年は、三十九よ」
「毎年、数えるのよ。うちは」
***
共さんは、小皿を見ていた。
五十六年ぶんが、数えられていなかった。
一粒ぶんが、数えられていた。
隣に、メレオスの一粒があった。
「わしの、三十八倍じゃ」
「……恐れ、入ります」
***
共さんは、一粒ずつ食べた。
正座で。数えながら、だった。
三十八粒、食べて。
***
共さんは、箸を置いた。両手を膝に戻した。
「奥様。総一郎さん」
「お願いが、ございます」
「五十六年前。伊左衛門さんに、頼みました」
「家族を、守って、ください、と」
「今度は」
「伊左衛門さんの、家族を」
「……守らせて、ください」
四十五度だった。畳の上で。
***
「だめよ」
母は言った。
共さんの背中が、止まった。
「うちは。守るとか、守られるとか。やって、ないの」
「危ない、ことは。先に、言う」
「それだけ」
「久我さんも。先に、言って、ちょうだい」
「山へ、行く、ときも。体が、つらい、ときも」
「ごはんが、足りない、ときも」
「それなら、いいわ」
***
共さんは、顔を上げた。
「……承知、いたしました」
「先に。申し上げます」
***
小沢家の決まりに、一人、入った。
守る人でも、守られる人でもなかった。
先に言う人が、一人、増えた。
***
「それと」
母は言った。
「遅いから。泊まって、いきなさい」
「……は」
「布団、敷いて、あるの」
「お父さんが、敷いたのよ。四時に」
明かりをつけたときに、布団も敷いていた。
「……数え、間違えた」
父は言った。
一組、多く敷いたらしかった。
間違えていなかった。
***
「久我」
メレオスが言った。
「上座は、わしじゃぞ」
「存じて、おります」
***
朝の五時。
縁側は、暗かった。息が白かった。
座布団が出ていた。四枚だった。
***
きのうまでは、三枚だった。
俺と、由紀と、真ん中のじいちゃんの場所。
真ん中が、二枚になっていた。
***
台所で、母が背中を向けていた。
「……数え、間違えたのよ」
振り向かなかった。
父と、同じ言い方だった。
***
共さんが、来た。
父のジャージを着ていた。
丈は合っていた。背筋が、合っていなかった。
ジャージが、礼服に見えた。
「おはよう、ございます」
「立春で、ございます」
「……暦の、上では」
寒かった。
***
メレオスが、真ん中の一枚に座った。
じいちゃんの場所だった。
共さんは、その隣の一枚の前で、止まった。
「……よろしい、のでしょうか」
「弟弟子の、席じゃ」
メレオスが言った。
「兄弟子の、隣じゃろうが」
***
共さんは、座った。正座だった。
北を向いて、四十五度の礼をした。
誰もいない庭に。
じいちゃんに、だった。
***
「……数は」
由紀が聞いた。
「伊左衛門さんの、数で」
共さんは言った。
四つ吸って、二つ止めて、六つ吐いた。
三人と、一柱ぶんだった。
***
共さんの息は、俺たちより少し長かった。
道場で習ったままの、五十六年前の息だった。
でも、数は同じだった。
***
気が、軽くなった。
冬至の夜も、節分の夜も、こんなに軽くはなかった。
閉めるものが、なかったからだ。
ただ、息をしていた。
じいちゃんが、毎朝ここでしていたことだった。
***
共さんが、紺色の手帳を開いた。
『帰り 小沢様宅 豆まき 客』
その行に、丸をつけた。
「一日、遅れました」
***
それから、その下に書いた。
『二月四日 立春 朝 縁側』
もう一行。
『座布団 四枚』
「忘れないように」
***
じいちゃんが守った家族と、じいちゃんに守ってくれと頼んだ人が、同じ縁側に座っていた。
暦の上では、春だった。
***
同じ朝。
警察病院の個室だった。
赤城は、椅子に座っていた。一晩、座っていた。
登山靴のままだった。
窓の外が、白くなりかけていた。
***
ベッドの上で、鷲尾の目が開いた。
天井を見た。それから、壁を見た。
ハンガーに、上着がかかっていた。
畳んでいなかった。
***
「……余計な、ことを」
鷲尾は言った。
低い、よく通る声だった。
子供の喋り方は、どこにもなかった。
「ああ」
赤城は言った。
「わざとだ」
***
鷲尾は、赤城を見なかった。
「辞表は」
「長官の、机に、あった。……きのうの、日付だ」
「枠の、線が。消し残して、なかった、そうだ」
「最後の、書類ですので」
***
赤城は、少し黙った。
「鷲尾」
「山で。言いかけた、ことが、ある」
「あの、お言葉は、と」
鷲尾は、長いこと黙っていた。
「……筋が、いい、と」
「伊左衛門先生は。おっしゃいました」
「講習の、三年目で、ございました」
「報告、すべき、ことは。すべて、報告、して、おりました」
「先生の、技も。山の、ことも。……大臣の、ことも」
「あの、お言葉、だけは」
「報告、して、おりません」
「なぜだ」
「……任務の、外で、ございましたので」
***
それだけ、だった。
赤城は、何も言わなかった。
二十年、同じ厚さに羊羹を切り続けるのは、仕事だけでできるものか。
山で口にしたことの、答えの半分だった。
残りの半分は、鷲尾は言わなかった。
***
鷲尾が、初めて、赤城を見た。
にこにこしていなかった。
「大臣」
「私は、変わりません」
「あの方は、行かれました。……ですが」
「円卓は。欠けても、回ります」
挑む目だった。
***
「……円卓」
赤城は言った。
知らない言葉だった。
「覚えて、おく」
「それ以上は。申しません」
***
赤城は、立った。
足元の紙袋から、包みを出した。枕元の台に置いた。
羊羹だった。
切ってあった。
厚さが、ばらばらだった。
***
鷲尾の目が、羊羹に行った。
長いこと、見ていた。
「……揃って、おりません」
「ああ」
「俺が、切った」
「定規は、使って、いない」
***
鷲尾は、一番厚い一切れと、一番薄い一切れを見比べていた。
眉が、寄っていた。
山で止められたときより、線を踏まれたときより、つらそうな顔だった。
***
「二十年ぶんだ」
赤城は言った。
「毎年、持ってくる」
「厚さは。……約束、しない」
***
扉を開けた。
外に、『ジョン』が立っていた。
「一人に、するな、と。言われている」
「はい」
赤城は、廊下を歩いていった。
登山靴の音がした。
***
病室で。
鷲尾は、手を伸ばした。羊羹を一切れ取った。
食べなかった。
隣の一切れと、端をそろえた。
***
立春の朝だった。




