第九十三章 鬼は、外
ごん。
聞いたことのある音だった。
神様が、二回、尻で確かめた音だった。
***
三回目は、神様じゃなかった。
陽炎みたいなものが、祠の戸口の前で弾かれていた。
宙に浮いていた。
「……いたい」
声がした。
***
鷲尾の声じゃなかった。
低くもなかった。よく通りもしなかった。
子供の声だった。
喋り方じゃなくて、声が。
初めて、聞いた。
***
「……硬いって、言った」
由紀が言った。両手は、前に出したままだった。
「呼ばれも、せんのに」
メレオスが言った。
「入ろうと、するのは」
「鬼じゃ」
***
祠の中から、声がした。
「鬼は、外」
共さんだった。
正座のまま、背筋を伸ばして、作法どおりの声で。
五十六年ぶりの豆まきだった。
豆は、なかった。
***
メレオスの手が、俺のポケットへ伸びた。
「まくな」
「……一粒」
「鹿が、食う」
***
同じときに。
窪みのほうで、鷲尾の足が、二歩目を出していた。
真ん中の暗い四角まで、あと三歩だった。
***
赤城さんが、動いた。
土の線を、またいだ。踏まなかった。
鷲尾の右の手首を、後ろから取った。
鷲尾の足が、止まった。
***
「……大臣」
鷲尾の声だった。にこにこのない、ほうの。
「お離し、ください」
「断る」
「線は、踏んで、いない」
「……存じて、おります」
「踏めば。崩れますので」
「崩れれば。……戸が、開きません」
***
二人とも、戸が要った。
理由は、逆だった。
戸は、まだ、ゆるんだだけだった。入るものを待っていた。
どっちが、先に、入るかだった。
***
「……ずるい」
子供の声が言った。
陽炎が、祠の前で、ゆらゆらしていた。
「うち、だめなら」
向きが、変わった。
「おでこの人」
『ホラー』のほうだった。
「こっち、来る?」
「行きません」
『ホラー』は言った。
「三回目です」
***
陽炎が、跳んだ。
聞いていなかった。
俺は、右手を土に当てた。気を流した。
格子が、立ち上がった。
八本。十六本。三十二本。
『ホラー』の、鼻の先だった。
***
陽炎が、格子に当たった。
格子の表を、気が走った。
「……ありがとう、ございます」
『ホラー』が言った。
「近いです」
「ごめん」
***
檻だった。
冬至の夜と、同じ檻だった。
撃たなかった。囲んだだけだった。
***
「これ、知ってる」
檻の中で、子供の声が言った。
「冬至の、やつだ」
「破ったよ。前も」
格子が、一本、きしんだ。
右手に、力を入れた。
***
左手は、メレオスの襟を掴んでいた。
メレオスは、肩から降りていた。俺の隣に立っていた。
檻の中のものを、見ていた。
***
「ねえ」
声が、メレオスに向いた。
「きみも、こういうの、入ってたね」
メレオスの肩が、硬くなった。
「こわれないから。しまっといたの」
「あとで、遊ぼうと、思って」
「伊左衛門が、持ってっちゃった」
「こっちの、なのに」
***
しまっといた。
神様を。
おもちゃみたいに。
暗い窪みの底に。
指先が、熱くなった。
***
「健司」
メレオスが言った。
「撃つな」
「……撃たない」
「加減じゃ」
「分かってる」
分かっていた。
分かっていることと、指先が熱いことは、別だった。
***
「うちの、人はね」
声は続けた。楽しそうだった。
「五十年、遊んでも。こわれなかった」
「だから、好き」
祠の中で、共さんは動かなかった。
顔を上げて、目を開けて、聞いていた。
***
「この人は」
声が、鷲尾のほうを向いた。
「もう、いいや」
「あっち、行くんでしょ。勝手に」
体を差し出して、線を引いて、飽きたことを全部片づけた人に。
もう、いいや、と言った。
***
鷲尾の背中は、動かなかった。
赤城さんの手だけが、白くなっていた。
格子が、もう一本、きしんだ。
***
「……健司」
メレオスが言った。
「襟を、離すなよ」
「離さない」
「一秒も、じゃぞ」
「分かってる」
***
メレオスは、息を吸った。小さい肩が、上がった。
呼んだ。
***
聞いたことのある音だった。
北の番小屋で聞いた。
言葉なのは分かった。名前なのも分かった。
でも、覚えられなかった。
耳に入ったそばから、こぼれていった。
***
檻の中で、陽炎が止まった。
「……返事を、しよった」
メレオスが言った。
***
窪みの真ん中で、暗い四角が動いた。
動いたようには見えなかった。
でも、向いた。
こっちを。檻の中のものを。
***
「健司。戸の、ほうだけ、開けい」
格子を、三本、下ろした。窪みの側だけ。
風が来た。
外から中へ、じゃなかった。中から外へ、だった。
檻の中のものが、引かれていた。暗い四角のほうへ。
***
「やだ」
子供の声が言った。
「やだ。まだ、遊んでない」
「うち、あるのに」
それから。
音がした。
***
覚えられない音だった。
さっき、メレオスが呼んだのとは、違う音だった。
でも、同じ言葉の音だった。
メレオスの襟が、俺の手の中で引かれた。
***
「……わしの、名じゃ」
メレオスは言った。
「昔の、ほうの」
「メレオス」
「分かっとる」
***
メレオスは、前へ出なかった。
「その、名では。もう、返事を、せん」
檻の中のものに言った。
「わしは、メレオスじゃ」
「伊左衛門が、つけた」
震えていなかった。
「遊びは、しまいじゃ」
「こっちではな。日が、暮れたら。帰るんじゃ」
「それが、決まりじゃ」
「帰れ」
***
陽炎が、檻を出た。
出たんじゃ、なかった。引き出された。
土の線の上を越えた。
ランタンの火のあいだを抜けた。
真ん中の四角に落ちた。
「……つまんない」
最後に、聞こえた。
それが、最後だった。
***
開いた。
暗い四角が、口を開けた。
風が、全部そっちへ向いた。
落ち葉が。土が。ランタンの火が。
メレオスの足が、浮いた。
俺は、襟を引いた。両手で。
檻は、もう要らなかった。
***
「離すな!」
「離さない!」
***
冷たかった。
冬至の山の窪みの底より、ずっと深いところの冷たさだった。
その向こうに、何かがあった。
見ないことにした。
***
「あの方が」
鷲尾が言った。
「先に、行かれました」
静かな声だった。
「お供、いたします」
***
赤城さんの体が、浮いた。
手首を取っていたはずの、赤城さんのほうが。
回って、片膝をついた。
鷲尾は、振り向きもしなかった。
***
五年、一番前で習った人だった。
先生が、筋がいい、と言った人だった。
***
鷲尾の足が、出た。
あと、二歩。
赤城さんは、膝をついたまま、鷲尾の袖を掴んでいた。
袖だけだった。
***
「赤城さん」
声がした。祠のほうからだった。
共さんが、立っていた。祠の外に。
自分の足で、出てきていた。
由紀の戸を、弾かれずに。
***
「兄弟子として、申し上げます」
風の中で、背筋はまっすぐだった。
「手首では、ありません」
「……肘です」
赤城さんは、鷲尾の袖を掴んだまま、共さんを見た。
「……はい」
兄弟子に言われると、赤城さんは、いつもこうだった。
***
赤城さんの手が、袖から肘へ移った。
添えただけに見えた。
鷲尾の体が、回った。
戸に向いていた体が、こっちを向いた。
膝が、折れた。
座っていた。正座だった。
戸に、背中を向けて。
***
「……控える、座り方です」
共さんは言った。鷲尾を見ていた。
「そのまま。控えて、いなさい」
鷲尾は、立とうとした。
立てなかった。
肘に、赤城さんの手があった。添えてあるだけだった。
***
「鷲尾」
赤城さんは言った。
「踏むぞ」
「……大臣」
初めて、鷲尾の声が揺れた。
***
赤城さんは、登山靴のかかとを土の線に置いた。
引いた。
一本。二本。
定規の線が、崩れた。
***
「……線が」
鷲尾は言った。
止められたときより、つらそうな声だった。
「ああ」
赤城さんは言った。
「踏んだ」
「わざとだ」
***
風が、弱くなった。
暗い四角は、まだ開いていた。
でも、引く力が、ゆるんでいた。
***
「由紀」
「うん」
由紀は、祠の前から走ってきた。新しい登山靴で。
俺の隣に立った。
共さんが、反対の隣に立った。
***
「共さん。数、分かりますか」
「存じて、おります」
共さんは言った。
「道場の、数です。……伊左衛門さんの」
***
由紀が、両手を前に出した。
俺も、出した。
共さんも、出した。
「……吸って」
由紀が数えた。
「ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ」
「止めて」
「ひとつ。ふたつ」
「吐いて」
「ひとつ。ふたつ。みっつ」
***
冷たさが、遠くなった。
「よっつ。いつつ」
三人ぶんだった。
じいちゃんが、五十五年、一人でやったことだった。
「むっつ」
***
閉まった。
一回で、足りた。
***
音が戻った。
風の音が。枝の音が。山の音が。
ランタンの火が、四つとも、まっすぐになった。
真ん中の四角は、ただの土だった。
***
「……抜けた」
メレオスが言った。
「帰った。……戸も、閉まった」
俺は、襟から手を離した。
メレオスは、その場に座った。尻から。
「……結局、三回目じゃ」
「それは、数に、入れなくて、いいだろ」
***
由紀も、座っていた。土の上に。
「……足、立たない」
「絆創膏、ある」
「足じゃない。腰」
「腹巻き、してるだろ」
「関係ない」
***
共さんは、立っていた。
由紀に、頭を下げた。
「結構な、戸でした」
「……硬かった、でしょ」
「はい」
「中に、おりまして。一度も。……怖く、ございませんでした」
由紀は、鼻をすすった。
今度は、寒いだけ、とは言わなかった。
***
鷲尾は、正座のままだった。崩れた線を見ていた。
『ホラー』が、前髪を上げた。
鷲尾を見た。長いこと、見ていた。
***
「……一人です」
『ホラー』は言った。
「中。……一人しか、いません」
「奥に、いた、人が。手前に、います」
「座って、ます。……同じ、座り方で」
「待って、ます。まだ」
来ないものを。
***
鷲尾の体が、傾いた。正座のまま、前へ。
赤城さんが、受け止めた。肘に添えていた手で。
「……鷲尾」
返事は、なかった。
目を閉じていた。息は、していた。
***
赤城さんは、鷲尾を土に寝かせた。
それから、石のところへ行った。
畳んだ上着を取った。
小さな定規と、へらと、一メートルの定規が落ちた。
同じ間隔で並べてあったものが、ばらばらになった。
***
赤城さんは、上着を広げた。
四つの角が、ほどけた。
鷲尾の肩に、かけた。
***
戸の向こうへ行く人の、畳み方だった。
広げてしまえば、ただの上着だった。
***
赤城さんは、小さな定規を拾った。
少し、見ていた。
上着の内ポケットに戻した。
***
「……同じ、ところから、来たのか」
俺は聞いた。
メレオスは、土の上に座ったまま、真ん中の四角を見ていた。
「そうじゃ」
隠さなかった。
「同じ、ところじゃ」
「同じ、ものじゃ」
「……同じ」
「鬼も、福も。向こうでは。同じ、ものじゃ」
「違うのは、一つだけじゃ」
「こっちの、決まりを。知っとるか。知らんか」
「わしも、知らんかった。……来た、ころは」
「何を」
「何もかもじゃ」
「人の、羊羹は、勝手に、食わん」
「呼ばれんと、上がらん」
「人の、体には、入らん」
***
羊羹と、体が、同じ並びにあった。
「伊左衛門が、教えた。一つずつ」
「叱りながらな」
「……近ごろは。母御にも、叱られとる」
三回、「はい」と言った神様だった。
***
「あれには」
メレオスは言った。
「叱る、者が、おらんかった」
「前の、うちは。口を、取られて、おった」
「次の、うちは。はい、しか、言わなんだ」
「……知らなかった、だけか」
「知らんで、済む、ことでは、ない」
メレオスは言った。
「五十年は、五十年じゃ」
共さんのほうを、見なかった。
共さんも、何も言わなかった。
***
「じゃから。帰した」
「向こうなら。あれは、鬼では、ない」
「ただの、あれじゃ」
***
加減。
じいちゃんが、最初に教えたことだった。
俺は、加減を間違えてばかりだった。
火も。風も。雷も。
でも。
間違えるたびに、叱る人がいた。
***
「お主は、教わっても、間違える」
メレオスが言った。
「毎回な」
「……うるさい」
***
同じものだった。
一つは、五十年、人の体で遊んだ。
一つは、じいちゃんに叱られて、母さんに叱られて、羊羹を食って、一件、十円のお手伝いをしている。
違いは、それだけだった。
***
鬼は、外へ出た。
福は、俺の隣で、尻をさすっていた。
***
鷲尾は、赤城さんが背負った。
「軽く、します」
俺は言った。風で、下から少し支えるつもりだった。
「要らない」
赤城さんは言った。
「俺の、人数だ」
重そうだった。背の高い男だった。
赤城さんの登山靴が、一歩ずつ、土を踏んだ。
***
山道の半分で、下から明かりが上がってきた。
『レスラー』だった。
「遅い」
「俺が、やる、と、言った」
赤城さんは、少し黙った。
それから、鷲尾を渡した。
***
『レスラー』は、片手で背負った。
もう片方の手で、ポケットからあんパンを出した。
赤城さんに渡した。
「食え。……顔が、白い」
赤城さんは、受け取った。食べた。歩きながら。
***
大臣が、山道であんパンを食べていた。
誰も、何も言わなかった。
***
共さんは、俺の後ろを歩いていた。自分の足で。
「覚えましたか。道」
「はい」
共さんは言った。
「下りの、ほうが。……覚え、やすう、ございます」
「帰る、ところが、ありますので」
***
ゲートに、軽トラックの明かりがあった。
おじいさんが、立っていた。
指を折って、数えた。
「……五人で、入って」
「六人で、出てきよった」
『レスラー』の背中の鷲尾を見た。
「勘定が、合うた」
***
それから、俺の足元を見た。
「……ぼうずも、入れたら。七人か」
「わしは、柱で、数えい」
メレオスが言った。
おじいさんに聞こえたかどうかは、やっぱり分からなかった。
***
帳面が、出てきた。
赤城さんは、万年筆を出した。
自分たちの欄の『未定』を、線で消した。時刻を書いた。
『十九時五十一分』
***
それから。
一つ上の行に、ペンを移した。
きれいな楷書の名前の横。空いていた欄に。
同じ時刻を書いた。
『十九時五十一分』
***
「人の、欄に、書くんか」
「本人が。書きませんでしたので」
おじいさんは、帳面を見た。
「……まあ、ええ」
「空欄よりは、ましじゃ」
***
『レディー』が、ワゴンの扉を開けていた。
「病院は、押さえて、あるわ」
「『ジョン』が、乗って、いく。……起きたら、一人に、しないで」
「了解です」
『ジョン』は、鷲尾を座席に寝かせた。上着を、かけ直した。
***
『レディー』は、俺を見た。
「帰って、きたわね」
「……はい」
「貸しは。今度で、いいわ」
「今日は。帰る、ところが、あるんでしょう」
***
ポケットで、袋が鳴った。
「……健司」
「ゲートの、外だぞ」
「分かっとる」
***
メレオスは、袋を開けた。一粒、つまんだ。
夜の山に向かって、投げた。
「鬼は、外!」
小さい豆が、暗いほうへ飛んでいった。
***
もう一粒、つまんだ。
こっちへ投げた。
俺の額に、当たった。
「福は、内!」
「……福は、どこだよ」
「ここじゃ」
自分を指した。
「わしは、福の、ほうじゃ」
***
由紀のスマホが鳴った。
母から、だった。
『まだ、ついてるわよ』
その下に。
『お父さん、玄関に、座ってるわよ』
『毛布は、かけました』
「……父さん」
「毛布、だって」
***
共さんが、紺色の手帳を開いていた。
『二月三日 夜 隠り山』
その行に、小さく丸をつけた。
その下の行は、まだだった。
『帰り 小沢様宅 豆まき 客』
***
「……遅く、なりました」
共さんは言った。
「お待たせ、して、おります」
「待ってますよ」
俺は言った。
「何時に、なっても、って。言ってましたから」
***
節分の夜は、まだ終わっていなかった。




