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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征


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 翌日の日朝点呼時、小月が言い残した外出が許可された。

 兵隊の外出時間は、通常は八時間と定められているが、寿以下の転属組の兵隊は特別の計らいで、外泊希望者には翌日の日朝点呼時限(午前五時三十分)までの自由時間が与えられた。

 外出時間が訪れると、新編分隊への転属要員である赤羽と曳田は、羨ましそうに見つめている同僚を尻眼に、大はしゃぎで出て行った。野下は、同僚たちに済まなそうな顔をして内務班を出た。

 寿は、当番兵を呼んで、新しい軍衣に襟章を縫いつけるように頼んで、伍長の襟章のまま居室を出た。

 営門近くまで来たとき、うしろから声が追って来た。

 振り向くと、営倉ではなにかと便宜を計ってくれた谷部伍長と服部軍曹が、街へ行くなら、俺たちも外出日だから一緒に行こうと肩を並べた。

 前にも触れたが、街と言っても、華やかな百貨店や商店街が連なる都会のような街並みがあるわけではない。巨大な軍隊のために設けられた兵隊相手の酒場と慰安所に、幾つかの料理旅館と雑貨屋、それに油でギトギトした円卓が並ぶ、満人の営む飯店などが駅前の道路に建ち列んでいて、その南側には、満人街と称される小さな集落がある特殊な街である。

 街は、他部隊の兵隊や、駅に駐屯している野戦貨物廠の兵隊たちでごった返していて、慰安所は、どの建屋も兵隊が列をなして大盛況であった。そのはずである。この街は、女の数より兵隊の数のほうが圧倒的に多いのである。

 兵隊の利用する慰安所には、第一、第二、第三慰安所というふうに、兵隊と同じようにどれも番号が附けられていて、慰安所に置かれた()、すなわち慰安婦の殆どは関東軍に徴用された朝鮮人か満洲人であった。

 日本人の妓のいる娼館はどれも将校専用となっていて、兵隊の立ち入りは厳重に取り締まられた。

 参考までに記すと、兵隊が利用するこうした軍指定の慰安所の料金は三十分二円であった。最下級である二等兵の俸給は月額六円で、一等兵は九円、上等兵は十円五十銭である。ちなみに伍長の俸給は月額二十円、軍曹に進級した寿の場合は三等軍曹であるから、月額二十三円(いずれも昭和二十年当時)ということになる。

 これでわかるように、下級の兵隊は、この安い俸給のなかから家族に仕送り(実際には殆どの兵隊はできなかったようである)をしたり、軍隊の飯だけではとても空腹を満たせないから、空腹を補うために、酒保でうどんやパンを買うなどして俸給の殆どが消えてしまったりで、折角の外出日が訪れても慰安所に行けない兵隊や、仮に行けたとしても、そう何度も慰安所へは通えなかったのである。

 街に着くと、同僚下士官たちは、目当ての妓のいる娼館へ向かった。

 誘われた寿も、同僚たちと同じ店で遊ぶことを考えなくもなかったが、それよりも独りで過ごしたかったから、滅多に踏み入れることのない料亭や料理旅館が建ち並ぶ裏通りに脚を向けて、適当な店を物色しながら歩いていた。

 街の中心から少し外れているが、この通りにも、暇を持て余した兵隊でごった返していた。

 このような状態では、とても満足な気分で過ごせそうもない。そう考えて、時間潰しにと、新規開店の看板を一年越しで掲げてある二階建の支那飯店の暖簾をくぐった。

 寿が店に足を踏み入れると、頓狂な誰かの「上官!」の叫びで、顔を蒼くした店内の兵隊たちが一斉に不動の姿勢をとって室内の敬礼をした。

 苦笑を洩らした寿は、

「そのまま、そのままでよか」

 と、手を軽く挙げて、店の入口の隅に忘れられたように置かれてある一人用の小さな飯台に腰を下ろした。

 店の一階は、どこにもある普通の飯店である。五六人程度坐れる円卓が五つばかり置いてあって、どの席も満席であった。

 ただ異なるのは、入口からは死角になっているが、寿の場所から見える二階へ上がる階段である。これは飲食のための二階席があるのではなく、その上は、軍の認可を受けていない、潜りの買春をする部屋であった。表向きは、憲兵や軍の巡察の眼を眩ます飯店の看板を掲げているが、なんのことはない。これが本業なのである。

 このような無認可の店の妓は、当然ながら軍指定の定期検診(性病検査)など受けられるずがない。したがって、軍は性病の感染を防ぐために、このような潜りの店には兵隊は出入りしてはならないと厳しく規制していた。

 だが、それは表向きで、軍隊の管轄下にある街の裏側には、こうした無認可の偽装店が幾つもあって、兵隊は食事と偽って公然と利用したのである。万一軍の巡察や憲兵の臨検があっても、食堂にいる限り咎められることはない。なぜならば、これらの業者と軍や憲兵とは賄賂で繋がっているから、臨検が行われたとしても、形だけで済まされるからである。

 寿が食事に立ち寄ったこの飯店の二階も同様であった。妓たちは朝鮮人か満人であったが、それにしても、この店は賑わっていた。性に渇望した兵隊の耳は素早い。その店に少しでも洒落た女がいると聞けば、色めき立って我先とその店に殺到するのである。この店も、折り曲げた指の上位に入るのだろう。飲食代を含めると少々割高となるが、多少なりとも金銭的余裕のある兵隊たちが、酒を酌み交わしながら順番を待っていた。

 寿が壁に貼られた日本語の品書きを見ていると、小太りの女給が支那茶(日本で謂う紅茶)を運んで来た。

 そこで寿が料理の注文をすると、女給はいきなりケラケラと笑った。

 笑った理由を訊き(ただ)すと、その女給は、不慣れな日本語でこう言うのである。

「兵隊サン、おなご食ぺたい来たナイカ? 旨いノおなご、眼の前来タないか。こ飯食ぺるナイヨ、ワタシノコレ食ぺるナイカ、キト()()ーイのことアルヨ」

 女給は、太腿まで割れた支那服の裾を捲くって、脂肪で膨れあがった子供の胴ほどもある大腿を覗かせてニタリと笑った。

 それを、酒の入った周りの古参兵らしき集団がゲラゲラと笑って露骨に囃し立てた。

「おいおい、上段はそれくらいにしときな。おめえのは野豚のまんこだ。そちらの上品な班長殿には合わねえよ」

「そうそう。そいつには用心したほうがいいですぜ、班長殿。うっかり手を出すと、ひでえ目に遭いますぜ」

「なに言うか! お前お金ないクセ、いつも食ぺる嫌いスル、文句言うナイよ!」

 と、女給が口を尖らせて言い返した。

 呆れたものである。この女給は、客に食事を提供するよりも、自らの肉体を提供することを優先していた。

 寿は、兵隊たちの揶揄を軽く受け流して、壁の品書きを指した。

「わしゃ腹ば減っとうとや。そっちのほうはあの連中にまかするけん、豚足入りの支那粥ば食わしてくれんね」

「わかたヨ」

 不服そうに答えた女給は、豚の尻よりも立派な尻を振りながら厨房へ消えて行った。

 店で騒いでいる兵隊たちの会話を聞くでもなく聞きながら、お世辞にも旨いと褒められない支那料理を平らげて、寿は、兵隊たちのざわめきを背に店を出た。



 一人で、誰にも邪魔されずに、のんびりと外泊できそうな店を物色しながら歩いていると、二三軒先の料亭旅館らしき店の蔭で、複数の男たちの怒声が耳を衝いて来た。

「また喧嘩か」

 寿は苦笑した。

 大規模な軍隊が駐屯している慰安所の軒先では、必ずと言っていいほど妓を奪い合う騒動が起るが、それにしても、兵隊など近づけそうもない、それも日本風の料亭の建ち列ぶ界隈での騒ぎは珍しい。各連隊の巡察将校や憲兵の厳しい眼が幾つも光って動き廻っているなかでの乱闘騒ぎとは、これはどういうことか?

 野次馬の隙間から、覗いて見ると、とても尋常とは思えない喧嘩である。どう見ても、決闘しているとしか思えない騒ぎであった。

 四人を相手に格闘しているのは、顔面の下半分を黒々とさせた髯面の、まるでゴリラのような体躯の兵隊で、どこか見覚えのある顔であった。

 ――有働やなかね!

 思わず口から声が衝いて出そうになった。

 よく視ると、喧嘩の相手は、寿に見覚えのある、いつかのあの砲兵たちであった。

 有働は、屈強な砲兵四人を相手に奮戦していた。双方とも、血と汗と埃まみれであった。

 店先では、料亭にはおよそ不釣合な、干涸らびた婆さんが喚き散らしていた。

 肩を怒らせた用心棒が、喧嘩の仲裁に割って入ったが、用心棒は、有働の分厚い鉄拳を一発喰らっただけで、いとも簡単に伸びてしまった。

 店先は、もう誰にも制められない大乱闘であった。

 寿は、喧嘩を制めようとして野次馬の輪を割りかけたが、転属を目前に、つまらぬかかわりを持つのも面倒の因になると思い直して、一旦はその場を離れたが、砲兵相手に暴れている馬鹿者は既に自分の指揮下にあることに気づいて、慌てて引き返して号んだ。

「憲兵だぞ!」

 街頭での兵隊の喧嘩を無難に制めるのは、これがいちばんである。野次馬も、喧嘩をしていた砲兵たちも、蜘蛛の子が散るように消え去った。

 有働だけが、何事が起ったのかと、大きな眼玉を剝いたまま、その場に立ち竦んでいた。

 寿は、有働に歩み寄って、顔を覗きこんだ。

「朝っぱから、きさん、もう出来上がっとるとか」

 有働は、寿を見たものの、まだ昂奮が冷めやらずにいるらしく、闘争心を剝き出しにして、眼を血走らせていた。

「オイたい、忘れたとか?」

 有働は、漸く、我に返ったようである。

「あァ」

 と、埃まみれになった軍衣を、掃いながら、無愛想に答えると、それが寿であることに気づくと、俄に眼玉を丸めて態度を改めた。

「失礼しました、班長殿!」

 慌てて不動の姿勢をとって挙手をした。

「今日は、外出日だったんですか」

 そう呟いて、もう何事もなかったような顔をして、照れ隠しに頭鉢を掻いた。

「こりゃ拙いところを、また、見られちゃったな」

 と、悪びれもせずに、声を上げて笑った。

 寿は、有働のそんな態度は、もう気にしなかった。

「それにしても、派手ンごつやったの」

 と、軍衣のポケットからハンカチを出して有働に渡した。

「あの馬鹿ども、ホ隊の連中じゃの」

「そうです。班長殿が喧嘩の仲裁に入ってくれた、あのときの連中です」

「今度は、おなごで揉めたとか?」

「そんなんじゃありません。奴ら、俺のことを、いつまでも根に持っていやがるんです」

 と、辺りを見廻して、

「どこへ消えやがったんだ、あの野郎ども」

 と、忙しく視線を辺りに泳がせた。

「そげなことァ、もうどうでんよか。終わったとじゃ」

 寿が有働の肩を軽く叩いて言うと、有働は、大きな眼玉をギョロリと剝いた。

「班長殿には他人事だからどうでもいいことでしょうけどね、俺のほうはまだ終っちゃいない。こうなったら、とことん決着をつけなきゃ、俺の腹の虫が納得しません」

 有働は、挑むように寿を見て言った。

「やめとけ。今度出会うたら、きさん、命はなかぞ」

「平気です。今度会ったら、反対に帰り討ちにしてやりますよ」

 この男の頭鉢は、いったいどうなっているのか、寿には皆目わからなかった。既に二年もの軍隊の飯を食っているはずなのに、軍隊という組織の階級序列がどういうものか、この男の脳味噌は、いまだに理解してはいないようなのである。

 あの赤羽がそうであったように、一度痛い目に遭えば否応なくおとなしくなるものだが、この男は、あのとき味わった痛打を反省する心など微塵もなかった。怖いもの知らずなのか、それとも底抜けの大馬鹿者なのか、まったく懲りるということを知らない、とんでもない男であった。

 こういうやくざな単細胞の男は、軍隊流に頭を押さえつけるより、やんわりと(かい)(じゆう)させるほうが悧口なやり方であることを、寿はよく心得ている。

 寿は、有働を諭すように言った。

「きさんと砲兵のあいだに、どげな経緯があるかはオイは知らんばってんが、街の群衆のなかでの私闘は、きさん、重営倉どころやなかぞ、へたをすると懲役ば喰らうとぞ。悪かごつ言わん、そげな遺恨は捨てることぞ、の」

「……」

 有働は、切れた唇をハンカチで何度も拭っていた。

「それより、きさんとこげなとこで会うたのもなんかの縁たい。あげな連中ンごつァ忘れて、どげな、オイと酒盛りでもせんね」

 ハンカチの手が止まって、有働の眼玉がギョロリと寿に向けられた。

「班長殿と、ですか?」

「きさん、いつかオイと差しで一杯やりたか言うとったやなかね。忘れたとや」

「忘れちゃいませんが、あのときは、行くつもりだったんです。いろいろと忙しくて、行けなかっただけです」

 有働はうそぶいた。実際は、寿の班に何度も行きかけたのだ。そのたびに思い止まったのは、少しばかり照れくさかったのと、それよりも、他の下士官に、他隊の兵隊がなにしに来たかと、ぞんざいに扱われるのを嫌ったのである。

「ま、そげんこつァどうでんよか」

 寿が言った。  

「わしと一緒じゃ不服か?」

「不服なんかありませんが、それじゃどうです、同じやるなら、この店でやりませんか。どうせ上がるつもりだったんです」

 と、涼しげな顔で言った有働に、寿は、咄嗟に手を横に振った。

「この店はやめとけ。兵隊の分際で、気軽に上がれるところやなか」

 寿は、入口の格子の木戸から顔を覗かせて、店の奥を探るように視線を巡らせた。

 木戸の向うには、上品な小粒の日本庭園を囲むように通路が二手に分かれており、一方は軍人専用となっていて、もう一方は一般客用の案内札が立っていた。外から窺う限りでは、店は清楚な佇まいで、内懐の深い、どことなく京風の老舗料亭を思い起こす店構えであった。

 この店は、寿がこの地へ来たときから知ってはいたが、かねには不自由をしていない寿でさえも、一度も暖簾をくぐったことのない店であった。

 それというのも、この店は、かね廻りのいい商人や佐官級の軍人が出入りする店と聞いているし、下士官や兵隊などは玄関口すら近づけないものと、寿は頭から敬遠している店である。

 その店に上がろうと言うのだから、寿が愕くのも当然であった。仮に、この店が、単なる一般の店だとしても、有働のような末端の兵隊が気楽に利用できる雰囲気ではないのである。

 寿が怪訝な顔をしていると、有働は鼻で笑った。

「班長殿も、意外と小心なところがあるんですね」

「どういうことな?」

「ちょっと考えりゃ、誰でもわかることじゃないですか」

「なにが?」

 有働は、また鼻先で笑った。

「高級な店にね、班長殿、あんな薄汚い婆さんや、見かけ倒しのへなちょこな用心棒はいませんよ。ただね、ちょっとした店構えだから、成金の商人や、将校連中が少しばかり出入りしているだけです」

「それはお前、早い話が、この店は、兵隊は利用でけんゆうことやなかか」

「そういう解釈もありますがね。兵隊は駄目だなんていうのは、ありゃただの噂ですよ。あの看板だって、軍人専用と書いてありますがね、兵隊は駄目だって書いてはいませんよ。班長殿だって、一応は金筋組だし、二等兵の俺だって帝国軍人だ。ね、そうでしょ」

 と、有働は、躊躇なく格子戸の引手に手をかけた。

 その手を、寿が押さえた。

「待て! きさん、本気で入るとか?」

 有働が木戸を開けて振り向いた。

「そうですよ。どうしたんです? 早く入りましょうよ」

 と、片足を入れたのを、寿は慌てて木立の蔭に有働を引き入れた。万一、佐官級の将校でも出て来たら、とんでもない事態になると考えたのだ。

「やめとけ有働、ここは危険たい。将校連中が出入りしとるこげなとこに、わしら兵隊が入ったら、きさん、あとで大事ンごつなるぞ。オイは面倒はごめんじゃぞ」

 顔色を変えた寿に、有働は、嘲るように鼻で嗤った。

「憶病風を吹かすと、折角の据膳がパーになりますよ」

「憶病とか勇敢とかの問題やなか。兵隊ごときが、将校の領域ば侵犯することが問題ゆうとるとたい」

「そうですかね。さっきの騒ぎ、あれ班長殿も見たでしょ。あれだけの騒ぎを起こしても、それでも将校は一人も出て来なかったじゃないですか。なぜだかわかりますか? 真っ昼間に、こんなところにしけこんでいるところを兵隊に見られたら、恰好がつかないからですよ」

「それはわかるばってんが、しかし、女郎屋でん料亭でん、将校専用みたいなこげん店で、わしら兵隊がうろついとったら、やっぱし拙かぞ」

「大丈夫ですよ班長殿。自分は、この店で何度も将校に出会っていますがね、誰一人自分が兵隊だってことで咎められたことはありません」

「まさか」

 寿は、頭から信じようとはしなかった。

 その顔に、有働が眼玉を剝いた。

「本当ですよ。嘘じゃありません。その証拠に、この店に上がるのは今日で六度目です。憶えていますか、いつか言ったでしょ、うまい酒といい女がいる店があるって。その店とは、ここですよ」

 有働の真面目くさった顔に、寿は、少しばかり有働を信じようとしたが、まだ腑に落ちない。このような店で遊ぶにしても、一等兵の俸給で遊べるはずはないのである。

 ――かねはどげしたとか?

 その疑念が、正直に衝いて出た。

「それにしても、きさん、こげな店で遊ぶにしてもぞ、一等兵のきさんには、ちっと無理やなかとか?」

「かねのことですか? そりゃちょっとばかり金はかかりますがね、どうってことはありませんよ。かねは天下の廻りものって言うじゃないですか」

 と、さらりと言ってのけた有働に、寿は、それ以上訊くのが馬鹿らしくなった。訊いたところで、どうせいかさま博奕で仲間から掠り取ったものにちがいないのだ。砲兵と揉めているのも、おそらくそれが原因であろう。

「班長殿も」

と、有働は言った。

「まんまと騙された口ですね」

「騙された? なにをたい?」

「この店のことですよ」

 と、有働は、開かれた木戸の向うに顎をしゃくった。

「こン店がどげしたとや?」

「いえ自分もね、最初は噂を信じて敬遠していたんです。さっきも言ったでしょ、上品な高級な店に、あんなひなびたババアや用心棒はいませんよ。それにこの店は、確かに見かけは立派な構えに見えますがね、なんのことはありません。裏では潜りのP屋(売春)をやっているんです。客の殆どが商売人や将校だから、兵隊が敬遠して寄りつかないだけです。大丈夫ですよ。こっちの一般の通路から入れば、将校とはまず鉢会わすことはありません。視てわかるようにね、ここから先の玄関は二つに分けられている。店に入れば、なかは一つですがね、そのなかではゆかたに羽織です。だから、風呂でも便所でも、出会っても誰も声はかけませんし、気にもかけません」

 寿は、有働の話に、まだ疑念を抱いていたが、心中では信じはじめていた。店の内部にかなり詳しいところから、有働の話は、どうやら信じてもよさそうなのである。

「そげんこつやったとか。灯台下暗しとはこのことたい。こりゃオイも一杯食わされたばい」

 と、苦笑した寿は、いままで信じていた噂が単なるデマとわかって気持ちを弛めたが、

「ちょっと待てよ、まだ腑に落ちんことがある」

 と、小首をかしげた。

「営倉ば繰り返しとるきさんには、外出ばする暇なんぞなかはずやが、そのきさんが、なんでこげん店ば知っとるとや? そいもここが安全やと……」

「蛇の道は蛇って言うでしょ。それですよ」

 言下に、有働が図太く構えて答えた。

「班長殿も営倉にぶちこまれたとき、衛兵の監視つきで便所に行った記憶があるでしょ。つまり、情報源はその営倉の便所ですよ。俺が糞をしていたら、衛兵指令が入って来ましてね、そいつが衛兵にこの店のことをぼやいたのを聞いて、それで知ったんです」

 営倉は余計であったが、この場は敢えて聞き流した。

「それにしても、きさん、一等兵のわりには、こげん店ば通うとは、だいぶ内懐が温かそうなごつあるが、この店、少々高うなかね?」

 有働の無精髯がニヤけて崩れた。

「贅沢な飲み食いさえしなけり、そこら辺のP屋とそれほど差はありませんよ。女を抱くだけなら、五円もあれば充分です。それに酒なんてもんは、入る前に一杯ひっかけて入りゃいいんです」

 この男が朝から出来上がってるのもうなずけた。

「慰安所なら、三十分二円、一時間でもまだ釣ば返る勘定やが、そこまでして通うゆうこたァ、ここのおなごはよっぽどよかごつあるようたいの」

「ま、そうなんです。俺が気に入っているのは朝鮮の女なんですがね、眼を奪われるほどの玉じゃありませんが、日本名を富士子と言って、ま、いい体をしているのと、俺にはいつも特別サービスしてくれるんです」

「特別サービスか。それほどの妓がおるとなら、それじゃオイも拝ませて貰おうたい」

 と、一般客用の通路を先に行きかけた寿の袖を、今度は有働が引いた。

「ちょっと待ってくださいよ。班長殿と同じ部屋じゃ、元気なやつもシボんじまいますよ」

「阿呆、けったいな気ば廻すんやなか。なんもきさんと同じ部屋で、同じ妓ば抱こう言うとるんやなか」

「あァ」

 と、有働は安心した笑顔を浮かべて、

「なら、行きましょうか」

 肩を揺らして入口へ先頭をきった。

 玄関の帳場に立って呼鈴を叩くと、先ほどの痩せぎすの婆さんがうさんくさそうに顔を出して、二人を一般客用の待合室に導いて、ゆかたと羽織を手渡して、一気に捲し立てた。

「兵隊さんの場合は、ここで着替えて貰いますよ。そのまま上がったら拙いことになりますからね。着替えた服はそのカゴに入れて部屋に持って上がってくださいな。それからアレの()(あし)は先払いでいただきますよ。料金はそこに書いてあるとおりですからね。飲食代は別。軍票でも現金でも結構ですけれどね、代金は、その都度、娘たちに払ってくださいな。ただし言っときますがね、うちで高いと思ったら満足に遊べませんよ。それに、今日も将校さんや商人さんで混んでますからね、時間の延長もなしですよ。いいですか、くれぐれも部屋で面倒を起こさないでくださいよ。ここじゃ将校さんおとなしくしていますがね、煩いんですよ、これが。遠廻しに口を濁しちゃいますがね、あいつは兵隊だろとか、どこの商売人だとか、いちいち客筋を問われるんですよ。そりゃうちも商売ですからね。軍人さんであろうと商売人さんであろうと、御足さえ払ってくれりゃお客には変りありませんからね、いちいち選り好みはしませんよ。でもね、将校さんの機嫌を損ねたら、あたしたちがあとで困るんですよ。それでなくても、近頃やたらと憲兵が立ち寄って、口うるさく言って袖を振るんですよ。みかじめだって馬鹿にならないんだから」

 あとの半分はぼやきとなって話し終わると、婆さんは襟首の辺りをモゾモゾと掻いた。

 この婆さんが嘆くのも、もっともである。店でつまらぬ面倒が起これば、出て来なくていいものが出て来て、その上、官費で贅沢三昧に遊興している軍人たちの感情を害して支払いまでケチられる。それこそ商売上がったりなのである。拙いのだ。

「わかっとるよ」

 と、うなずいて、寿は、軍衣の内隠しから札入れを取出し、二人分の料金とは別に一円札二枚を婆さんに渡した。

「わしらの分と、これはあんたに迷惑ばかけた詫びたい」

 かねを受け取った婆さんは、素早く算えると、俄かに眼尻の皺を弛めた。五銭や十銭の小銭を投げてよこす客はいるが、二円の祝儀は滅多にないことである。こういう婆さんを懐柔するのも、この手段がいちばん有効であることを寿は心得ている。

「心配せんでよか」

 と、寿は浴衣に着替えながら言った。

「今日はわしが一緒やばってん、あんたが憲兵ば絞られることァなか。それより、さっきの威勢ばよかごつあの大男、あれはどげした?」

 帯を締め、羽織をはおって、

「こいつの一発で、まさか不具ばなったんとちがうね」

 そう嘲ると、婆さんは、言葉よりも先に有働の顔に顎をしゃくった。

「この兵隊さんのお蔭で、奥で唸っちゃいますがね、五体満足にまだ生きてますよ」

 と、ヤニで汚れた歯をニッと剝いた。

 それを有働が、空々しい顔をして鼻先で返した。

「へ、同じ用心棒を雇うんだったら、もう少し骨のある奴に入れ替えるんだな。あれじゃガキの喧嘩も制められやしねえぞ」

「なに言ってんだろうね、この人は! お酒を呑むと、まったくだらしがなくなって、ほんとに癖が悪いんだから。今日だってそうじゃないか。入る前から店先で勝手に騒動を起こしておいてさ、まるで他人事だよ。大概にしておくれな!」

 声は尖っているが、婆さんの眼は弛んでいた。余禄を手にすれば、気を悪くするはずがない。

 婆さんは、自分のガマ口に余禄のかねを収めると、今度は猫撫声になった。

「伍長さん、ほんとに静かに頼みますよ、ね。いま、いいお相手を連れて来ますからね」

 婆さんは上機嫌で扉の奥に姿を消すと、暫くして二人の妓を連れて来た。

 妓の一人が、脱衣カゴに整然と折り畳まれた軍衣の襟章に眼を留めて、

「どんなお客さんかと思ったら、軍人さんなのねェ」

 と、気だるそうな声で呟くように言った。

 あとでわかったことだが、この店には、満人や朝鮮人の妓は少ないらしく、出て来たのは、二人とも若い日本人の妓であった。

「えっと、あんたのお気に入りさん、あ、そうそう、富士子ちゃんは生憎と塞がっていますからね。今日はこの子で我慢してくださいな。それとも、空くまで待ちますか」

 有働は少し不満げな顔をしたが、すぐにその色を掻き消した。意思の疎通を欠く異国の女よりも、日本の女のほうがいいにきまっている。

「その心配は無用だ。俺は、女は選ばねえ主義なんだよ」

 と、だらしなく笑って、妓の一人にノソリと近づくと、その妓の体を上から下までしげしげと見つめて言った。

「……いい女だけどさ、お前、ちゃんとした女なんだろうな?」

 見つめられた妓が眼を丸くした。

「見ればわかるだろ」

「わからねえから訊いてんだ」

「あんた、女を見たことないの」

 妓の嘲りに、有働はニッと歯を剥いた。

「それは、俺は、見たことはあるよ。だけど、女だけど、女じゃねえ奴もいる。つまり、アレの代わりに、その、なんだ、こう棒がくっついている奴だ」

 有働が股間に親指を立てると、婆さんと二人の妓が大笑いした。

「あんた、それでそのお棒さんとやっちゃったのかい?」

 婆さんにからかわれて、有働は頭鉢をボリボリ掻いた。

「あのときは酔っ払っていて、やっちゃったあとでわかったんだ。だから、はじめての女には、俺は必ず確かめることにしてるんだ」

 女たちは腹を抱えて笑った。

「あんた、よっぽど懲りちゃったんだねえ。それなら心配は要らないわよ」

 と、疑われた妓が壁に背を(もた)れて、着物の裾を太腿まで割った。

 それを婆さんが片手を振って軽く戒めた。

「おやめよ、こんなところで」

「いいのよおばさん、見られて減るもんじゃないし、このくらいなんでもないわ。さァお棒さん、とっくりとお確かめなよ。顔もカラダもこのとおり、あんたが拝む観音様はちゃんと御鎮座していますよ。あんたが気に入るかどうかは別だけどさ」

 有働は、納得して声を上げて笑った。

「なら、どっちだっていいや。時間がもったいねえんだ。早く部屋に行こうぜ」

 行きかけて、振り向いた有働は、

「あの、かねは、あとできっちり清算します」

 寿の呆れた顔に、チョイと敬礼して、妓の手を引いて階段を駈け上がった。

「おめでたい兵隊だよ、あれは」

 と、蔑んだ笑いを残して婆さんも奥へ消えた。

「一件落着だわね。あたしたちもお部屋に行きましょ」

 妓に導かれるまま、寿も階段を踏んだ。

 妓の部屋は、薄暗い廊下の先の、裏庭に面したところにあった。

 部屋の階下は、どうやら厨房らしく、開け放たれた窓から料理の匂いが寿の鼻を刺戟した。

 部屋のなかは、妓の部屋にしては小綺麗な部屋であった。妓のための化粧台と、それに和箪笥が一つと、接客用の(ちゃ)()(だい)が揃えられてあり、商売道具の蒲団を敷いても、まだ充分なゆとりがあった。

 大抵の慰安所は、三畳程度の部屋に、薄っぺらい蒲団が敷きっぱなしで、お愛想程度に手鏡と小さな化粧箱が部屋の片隅にポツリと置かれてあるだけの、単に目的を達すればいいだけの殺風景な部屋である。それに較べて、店の規模と部屋の様子から想像すれば、他の妓の部屋も同様であろう。この店の妓たちは優遇されているものと思われた。

 部屋に入るなり、寿は女に訊いた。

「日本語が達者なけんが、お前は日本人か?」

 妓は、すぐには答えずに、含み笑いを洩らした。

「あんた、あのおばさんの袖の下を撫でたでしょ」

「どういうことね?」

「とぼけなくてもいいわよ。あのおばさんの巾着がさ、重くなったってことよ」

 と、束ねている長い髪を解きながら斜に構えて、寿に流し眼を送った。

「あんたも、あのお連れの兵隊さんと同じね」

「同じとは、どういうことね?」

「だって、あたしを疑ってるじゃない?」

 寿は、慌てて片手を振った。

「そうやなか。誤解せんでくれ。わしら兵隊は、満人や朝鮮のおなご相手が殆どやけん、滅多に日本のおなごに出逢うことがなかとじゃ。それでつい、なんちゅうか……の」

 妓は、寿を見下ろして、軽く笑った。

「兵隊病もそこまでなると重症ね」

「兵隊病か。うまかごつ言うばい」

 寿も苦笑した。

 そう。この妓の言うとおりである。軍隊の殺伐とした兵舎に居住する兵隊という生物は、様々な意味で、某かの兵隊病に(かか)っているのかもしれない。

「このお店はね」

 と、妓は、帯を解きながら言った。

「じつは今日がお初なのよ。ほんとは明日からのはずだったのよ。もう一日、ゆっくり体を休められると思っていたのにさ、あんたがあのおばさんの巾着を膨らませたお蔭で一日損しちゃった」

 そう言って、妓はわざと不服そうな顔をつくった。 

「それはすまんごつしたの。折角の休みば潰して……」

 妓は、今度は大袈裟に片手を振って、

「じょーだんよ。いまのは冗談。本気にしないで。つまり、あんたはね、このお店では、あたしのお客さんとしての第一号って言いたかったわけよ」

 と、無邪気な笑顔を見せた。

「この店がはじめて言うたが、前は?」

 襦袢姿になった妓は、脱いだ着物を着物掛けに通しながら答えた。

「三年前には大連の街にいたわ。半年前は新京。五日前は北安。……まだ聞きたい?」

 妓は、半身を振り向けて、坐っている寿を上から覗き見て、薄紅色の頬にあどけないエクボをつくった。

 寿は静かにうなずいていた。この女が、どのような事情で遊女に身を落とし、どこを、どう流れてここまで来たか、知ったところで仕方のないことである。

「お前の名は?」

「タマヨ。タマはね、王さんの横に朱の字を書いて、ヨは君が代の代よ。歳は二十五。信じなくたっていいわよ」

 女は、襦袢のまま蒲団に身を隠して、寝帯を解きながら露骨に言った。

「早く脱ぎなさいよ、伍長さん。溜まってるんでしょ。あたしがうんと搾ってあげるからさ、早くいらっしゃいよ」

 寿は、ゆかたを脱いで、女の横に寝た。白く張りのある若い日本女性の肌に接するのは、海を渡って以来、ついぞ憶えのないことである。

 寿は、全裸で仰向けになった女の盛り上がっているふくよかな二つの丘の谷間に顔をうずめて、柔らかな感触を貪り、片方の手で女の茂みを分けた。女の(ひだ)のそこは、男を受け入れる準備がととのいはじめていた。

 女が、男の淫靡な手の動きに陶酔しながら、甘く、か細く呟いた。

「……女の体って、業なものね。厭っていうほどこんなことしてるのにさ、何日も体を空けていると、なんだか変に寂しくなって、誰でもいいから、男の人を無性にほしくなる恋しくなるのよね……」

 男の執拗な指の愛技に、女は堪えきれなくなったらしい。

「……ね、熱いの、いっぱい入れて……」

 女は、男の硬くそり立った若木を導き、愛液で濡れそぼった体の奥深く一気に没入させた。

 寿は、まるで生殖の最盛期にあるオットセイのように女の肉体を求めて、果てることを知らぬかのようであった。一度果てた快美な余韻がすぐさま新たな欲情へと蘇り、渇望している性欲が女を求めつづけた。女も、まるで娼婦であることを忘れたかのように、身悶え、喘ぎ、淫らな言葉を発して淫靡な呻き声を上げつづけた。

 だが、その甘美な陶酔も、すぐに終わりが来た。牡と牝の交尾は、心地よい虚脱感の余韻を味わう暇もなく、扉の外から、婆さんの無慈悲な嗄れた声によって打ち切られた。

 珠代は、汗ばんだ半身を起して、気だるい声で扉に答えると、乱れた長い髪を手櫛で()きながら、熱く潤んだ眸を寿に向けた。

「ねえ、帰る。それとも時間を延ばす」

「今日は混んどるとかで、延長はなかごつゆう話やが」

 女が、うっそりと笑った。

「あたしたちは例外よ。それに、あんたのこれがちゃんと効いてるわ。あるんでしょ、これ?」

 珠代は、親指と人差し指で丸をつくった。

「それは心配なかけんが……そうたいのォ」

 と、寿は、まだ未練がましく下半身の疼きが残っている下腹部を意識しながら言った。

「……それより、ちょっと訊くがの、この店には将校が出入りしとるゆう話やが、泊まることがあるとや?」

 そう訊いたのは、女の答えようによっては、寿は居坐る肚でいるのだ。つまり、泊まるにしても、夜中に便所や廊下で将校と鉢合わせは御免なのである。もっとも、薄暗い廊下や便所では、浴衣姿だからすれ違ってもわかるまいが、浴場で裸になれば一目である。額から上は白く、その下は陽に焼けて浅黒いのである。このことは、明らかに、自分は兵隊であることを証明しているようなものであった。

「……そうね……」

 と、珠代は、少し間を置いて、束ねた髪をととのえながら答えた。

「あたしが聞いた話だと、独身の若い隊附将校さんはたまに泊まるそうだけど、官舎居住の将校さんは昼間に遊ぶだけで、泊まらずに帰っちゃうそうよ。官舎婦人さんの眼が怖いからじゃないの」

 珠代は、嘲りに似た嗤いを洩らした。

 寿はうなずいた。隊附将校なら、せいぜい少尉か中尉に任官したての若造である。それなら大したことはない。珠代の答えで考えが変わった寿は、肚をきめた。

 正直なところ、このまま店を出たところで仕方がないのだ。出れば、またどこかの店の軒をくぐらなければならない。それも面倒であった。それに、今日が初見世というこの若い珠代と別れ難かったし、店構えのとおり、料亭旅館であるということも気に入っていた。監視中隊に行けば、今度こそ女とは無縁になりそうである。それならば、いっそのこと、この店で有金をはたいて散財するほうがいい。時間は、明日の日朝点呼時までたっぷり残っているのだ。

「よしよか、この部屋は明日の朝まで借り切って、お前とゆっくり過ごすことにするばい」

 寿の意外な言葉に、珠代は少々驚いたようであった。時間を延長する下士官は数いるが、丸一昼夜、それも馴染みでもない初対面の妓を借り切って外泊する兵隊は、ついぞ憶えがないのである。

 珠代が訝しげに訊いた。

「大丈夫なの、そんなことして」

「あァ、かねのことなら心配なか。たっぷり、ある」

「ちがうわよ」

「なにがちがうとじゃ?」

「あんた、兵隊さんでしょ?」

「この店は、なんね、兵隊を泊めちゃならんゆう規則でんあっとか?」

 珠代は、半ば呆れたように寿の胸を突いた。

「ん、そうじゃないわよ。帰らなくてもいいのかって訊いてるのよ。あんたの部隊に」

「あァそのことなら心配無用たい。ちゃんと外泊許可証も持っとるし、かねも充分ある。昼間じゃろと夜中じゃろと、憲兵の臨検があっても大丈夫たい。明日の日朝点呼時まで帰隊すりゃよかごつことになっとる」

 珠代は安心したようである。

「それならいいわ。おばさんに言ってくる。どうせあたしも今夜は暇だからさ、二人で思いっきり楽しもうよ、ね」

 と、身繕いをはじめた珠代は、思い出したようにハタと手を止めて寿の顔を見た。

「ねえ、一緒に来た、あの兵隊さんはどうするの?」

「……あいつか」

 珠代に訊かれるまで、寿は有働のことなどすっかり忘れてしまっていた。

「……あいつは、まだ他隊の……」

 と、そう言いかけたが、明日には直属の配下になることがわかっているから、このまま突き放すのも、なんだか可哀相な気がして、

「お前、すまんが、ちょっと見て来てくれんか。まだおるとなら、あれをここへ呼んでくれんね」

 と、珠代に言いつけたものの、その必要はなかった。珠代が出て行こうとして部屋の扉を開けると、そこにゴリラのような巨体の兵隊が入口を塞ぐように立っていた。

 珠代が、小さな悲鳴を上げた。

「びっくりするじゃない。脅かさないでよ、兵隊さん」

「すまん。あの、班長殿はまだいるかい?」

 珠代は、寿をチラとかえり見て、それから遊女特有の気だるそうな声で答えた。

「いるわよ、一人。あんたを連れて来いってね、いま呼びに行くところだったのよ」

「有働、お前か」

 蒲団の上で、羽織を引っかけたまま胡坐をかいている寿が、珠代の背後から声を投げた。

 佇立している有働に、珠代が有働の手を引いた。

「入りなさいよ。なにか用があるそうよ」

 珠代が階段を降りて行くのを見届けて、有働が部屋の入口でぼそりと言った。

「班長殿……」

「なんね? 用があるとなら、そげんところに突っ立っとらんで、こっちへ来て坐れ」

「入ります」

 と、呟くように言って、有働は寿の前に正坐すると、胸の隠しから札を出した。

「かねを、あの、返しに来ました」

「あァ、そりゃもうよか」

 有働は、眼玉をギロリと剝いて、札をさらに押し出した。

「よくはありませんよ。俺は、他人からの借りを残すのが嫌いなんです」

 有働の強がりを見抜いている寿は、喫っている煙草の煙を吐きながら苦笑した。

「二年兵にもなると、洒落た言葉を覚えるもんたいの」

 寿は意地悪く皮肉を言った。

「まァよか、これはきさんの懐にしもうとれ」

 朝から呑みまくっている有働には、かねが底をついているのはわかっている。この四円某のかねを返せば、懐には幾らも残らないはずである。拒む有働の掌にむりやり札を捻じこんだ。

 有働は、気まずそうに頭を下げると、大きな体型に似合わず、か細い声でぼそりと呟くように言った。

「それより、班長殿、随分と落ち着いていますけど、いいんですか、出なくて?」

 と、部屋で妙に落ち着いている寿の顔を、不思議そうに覗き見た。

「あァそのことなら、きさんのお蔭での、この店もおなごも気に入ったばってん、これから明日の朝まで部屋ば借りきるごつしたとたい」

 それを聞いた途端に、有働は、眼窩から眼玉が飛び出るほどに眼を丸めた。

「いまから泊まるんですか!」

「あァ、折角の外泊ば無駄に過ごしとうはなかけんの」

「……」

「やけんが、オイはそれでよかばってんが、帰隊するにゃきさんにゃまだ時間があるばい。これからの時間、おまんどげするとか?」

 寿は、煙草の煙の先の有働を見て冷ややかに笑った。

「それが、その……」

 有働は頭鉢を撫でた。

「どげしたとや?」

「……いえね、中隊の仲間がいれば、どうにかなったんですがね……」

 そう言ったものの、どうにもならないから寿のところへ出向いたとも言えず、有働は、口の奥でぼそぼそと呟いた。

 寿はニヤリと笑った。

「朝っぱから呑み過ぎたばってん、きさん、今夜ンごつば思案しとるんやなかね?」

「はい」

 と、うっかり釣られて返事をした有働は、急に眼玉をパチパチやって首をかしげた。

「なんで、わかったんです?」

「きさんのその顔に書いとるばい」

 有働は照れくさそうに、また頭鉢を撫でた。

「そげんこつより」

 と、寿が言った。

「きさん、確か昨日営倉ば下番したとやろ? それでよくもまァ人事掛が外出ば許可したもんたいの。四家屯の監視部隊行きと引き換えに、お情けで外出ば許されたとやろが、ま、あっちに行ったら女は無縁になるけんの」

 有働はまたも愕いたようである。

「そんなことまで知っているんですか?」

「きさんのことはみんな筒抜けたい」

「……」

 寿は声を上げて笑った。

「じつはの、オイもきさんと同じその部隊へ行くとたい。夕べ人事掛から分隊名簿ば受け取っての、そのときに、きさんが加わることを知ったとじゃ」

「班長殿が、あの、行くんですか?」

「あァ。きさんの分隊長としての」

「……そうだったんですか……」

 と、有働の気のない声に、寿は意地悪くまた笑った。

「オイが分隊長やと具合が悪かか?」

「そういうわけじゃありませんけど、まさか班長殿が行くとは思いませんでした」

「そげんこつより、きさん、これから帰隊までの時間どげすっとや?」

 有働は観念して開き直った。

「それなんですよ。かねは(つか)っちまって、外泊するにもかねが足りねえし、うちの班長には外泊するって、でかいこと言って出て来ちまったから、このまま部隊にノコノコ戻ったら、それこそみんなの物笑いになるでしょ。それで、どうしようかな、て」

 寿は、わざと突き放すように言った。

「そげんごつなら、そのかねで、どこぞンP屋の軒ばくぐって時間を潰せばよかばい」

「借りたかねで、遊ぶわけにはいきませんよ」

「そのかねは、元々きさんのもんたい。勝手に使えばよかじゃろもん」

「これは、もう遣っちまったかねです。俺のもんじゃありません」

 有働は、札を寿の膝元に置いた。

「やっぱり、これ、納めてください」

 寿は、札に顎をしゃくった。

「いったん突き返したもんはオイは受取らん主義での、そいはよかけん、仕舞っとけ」

「でも……」

「なんべんも言わするんやなか」

「すみません」

 有働がペコリと頭鉢を下げると、寿は、煙草を一服吹かしてニタリと笑った。

「きさんのそのかねで、きさんの時間を勝手に潰すもよかけんが、それより有働、どげな、どのみち明日にゃきさんはオイの指揮下に入る身たい。かねのことは心配要らんけん。あしたの帰営までわしとここで遊ばんね?」

 有働の眸が俄かに明るくなった。

「いいんですか?」

「あァよかぞ。これも縁たい。これからは、厭でもぬしゃオイと一緒に過ごさにゃならんばってん、そのお前と、ゆっくり腹ば割って話がしたかとじゃ。きさんも、いつかそげ言うたやなかね、オイと差しでと、の。ま、今日のところは、オイに一切をまかせてやろうやなかね。どげな?」

 そこへ、まだなにも注文していないのに、珠代が酒と肴を運んで戻った。

「これはね、おばさんの(おご)りだってさ。袖の下、随分とはずんだそうね、おばさんホクホクだったわよ。あァそれからね、今夜は将校さんの泊まりはないそうよ」

「そりゃ好都合たい。ところでの、すまんが、ちょっとばかし事情が変わった。この男もな、今夜泊まりたい」

「あら、兵隊さんも外泊?」

「そうじゃ。お前、もいっぺん帳場へ行ってくれ。それとな、こげな徳利やと、この男の胃袋にゃ間に合わんけん。一升瓶を二三本と、それから、この店の自慢料理ゆうやつを出してくれ」

 寿は、立って、脱衣カゴの軍衣からかね入れを取り出すと、そのなかのかねを無造作に割って珠代に渡した。持っていても、辺鄙な監視部隊では用のないものである。

「こんなにたくさん!」

 かねを受け取った珠代は、思わず驚嘆の声を発した。

 珠代の郷里は、歳の離れた六人の弟妹をかかえる貧農一家である。その家族を支えるために、売りたくもない身を売り、歯糞ほどもならない仕送りをしている。いま手にしているかねは、無駄遣いしなければ、その家族を三ヶ月は悠に養える金額であった。

 若くして、満洲大陸を南から北へ渡り歩いて来た珠代は、寿のような羽振りのいい下士官や将校を数多く知っている。それらは、しかし、いずれも軍隊で自分の立場を悪用して私腹を肥やしている族であった。

 ――この下士官もその口かしら?

 珠代は、肚の内でそう疑ったが、それにしては、気風が良すぎていた。珠代の知る限りの彼らは、自分の懐工合がどれほど豊かであろうと、このような纏まったかねを握らされたという憶えがなかった。それだからこそ、珠代の疑念と好奇に満ちた眼が寿に向けられたとしても、なんら不思議ではなく、むしろ当然と言えた。

 眼を丸めたのは、珠代だけではない。有働も同様であった。遊びとはいえ、どこの馬の骨か素性の知れない、それも、はじめて出逢った妓に平気で大金を託す、その非常識と思える行為に愕いただけでなく、多寡が知れた一介の下士官風情がなぜこのような大金を所持しているのか、むしろそのほうに少なからず興味を持った。

 寿は、そんな二人の複雑な顔色を読み取って、珠代にこう言った。

「そのかねはの、なんかの用意にと、オイが内地から持って来て余ったかねたい。やけん心配なか。これから先、持っとってもどうせ無駄になるもんやけん、お前に預けとくたい。余ったら、お前の懐にでも仕舞うとくがよか。それから、この部屋は少々狭すぎるけん、もう少し広か部屋が欲しか。それも併せて用意ばしてくれんね。あァそれから、こいつの相手ばした妓も忘れんと呼ぶとぞ」

 気をよくした珠代は、すぐさま帳場へ下りて行った。

 有働も疑念を晴らしたらしく、寿の度量の太さに、ますます惚れたようであった。

「すみません班長殿。いつか、この借りは必ず返します」

「余計な気遣いは無用たい。それにきさんの返礼は面倒ばついて来そうなけん、遠慮しとくたい」

 と、冷めた盃の酒を呑み干して、それを有働に差し出して新しい酒を注いでやった。

「きさんとは、どうやら腐れ縁ばなりそうなけん、ま、これを縁にの、固めの盃といくばい。さ、呑め」

「すみません。いただきます」

 満面笑みを浮かべた有働は、盃の酒を呑み干して寿に返盃した。

 盃を受取った寿に、

「あの、ちょっといいですか?」

 と、酒を注ぎながら有働が言った。

「班長殿は、あの、娑婆はどちらですか?」

「気になるね、わしの訛りが」

「そうじゃありません。その反対ですよ」

「反対?」

「いえね、俺が娑婆にいたときのことですがね、俺と馬が合った野郎に小倉生まれの男がいましてね、班長殿と一緒で、気風のいい奴でしたが、そいつも同じような訛りがあったもんだから、つい懐かしく思って、それで訊いてみたんです」

「それで、その男は?」

「いい奴でしたがね、ある日、別の組と揉め事がありましてね、新宿のドヤ街で殺されました」

 どこの世界でも同じである。炭鉱で数々の修羅場を経験した寿にも、思い当たる節は多い。

 寿は、一度だけうなずいて、こう訊いた。

「で、きさんは、なんでやくざなんぞになったとや?」

「ちょいとね、悪い夢を見すぎたんですよ」

「悪か夢ちゃ、なんね?」

 有働は、すぐには答えずに、徳利に手を伸ばした。

「あの、これ、いいですか?」

「あァ、遠慮は要らん。やってくれ」

「じゃ、これでやります」

 有働は、盃を置いて、部屋の隅に置かれてある卓袱台の湯呑を取ると、それに酒を並々と注いでうまそうに一息に呑み干した。

「班長殿だって、夢の一つや二つ見るでしょ?」

「夢か? そうたいの、見るにゃ見るばってんが……」

 冷めた盃の酒を啜ってそう答えると、有働の顔が神妙になった。

「でも、眼が覚めたら忘れるでしょ」

「そりゃ見る夢によるばってんが、ま、大概は記憶に残らんたい。きさんはどげな?」

 有働は湯呑の酒を(あお)った。

「俺のは、忘れるに忘れられない、悪夢の見つづけでしたよ。でもね、いま思えば、本当に悪い夢を見ていたのは俺じゃなくて、おやじとおふくろだったんです」

 寿は、口に持って行こうとした盃の手を止めた。

「そりゃ、おふくろさんじゃろとおやじさんじゃろと、人間なら、誰でもいっぺんぐらい悪か夢は見るもんたい」

 軽い冗談のつもりだったが、意外にも有働は深刻な顔をしていた。

「そりゃそうですがね。でも、普通の人間なら、眼が覚めれば、どんな悪夢でもいつかは綺麗に忘れてしまうでしょ。でもね、班長殿、忘れられずに、いつまでも縋りつく悪い夢だってあるんです。おやじもおふくろも、それだったんですよ」

 寿は首を捻った。

「なにが言いたかとか、オイにはさっぱりわからんばい」

「そうでしょうね。子供のときから平々凡々に育った班長殿には、わからなくて当然です」

 青海苔を貼りつけたような有働の口が、歪に笑った。

「じゃこう言えばどうです。おやじもおふくろも、二人ともヤク中と言えば、簡単に想像がつくでしょ。おやじもおふくろも、そいつ欲しさに、まだ十歳だったガキの俺を売ったんです。それも、おやじとおふくろを、悪夢のヤク漬けにした野郎にね」

 二つの徳利が忽ち空になった。寿は、呑みかけの自分の徳利を差し出して先を促した。

「それで?」

「その野郎、あくどい野郎でしてね、一口じゃ言えない、いろんなことをやらされましたよ。ヤクの運び屋から盗人(ぬすつと)の見張りに強姦、最後には人殺しまでやっちまった」

 寿の眼が険しくなった。

「十歳で殺しまでやったとか?」

「いえ、それは十五の歳のときですがね。俺を奴隷のようにこき使った親方を殺したんです。そいつは、人間以下の鬼畜生だった。俺を、なにもできないガキだと思って、酔っ払って油断して寝ているところを、(なた)でそいつの頭を割って逃げたんです。仕方がなかった。あのままだと、俺も飼い殺しにされて地獄に落ちてしまうと、そう思ったんです。それで新宿のドヤ街を腹空かしてうろついているところを、いまの親分に拾われたってわけです。俺が意識して人を殺したのは、あとにも先にも、それ一度きりです」

「やくざ同士の喧嘩でもか?」

「意識して殺すってことより、そのときは、自分を護るために夢中でしたから、もしかしたら、俺の知らないところで死んだ奴もいるかもしれません」

 有働のことは、ある程度の想像はしていたが、生い立ちから荒んでいたとは考えもしていなかった。

 一升瓶と(しゆ)(こう)を携えて戻った珠代が、神妙な顔つきで膝をつき合わせている二人の重い空気を掻き散らした。

「あら、ヤにしんみりだわね。湿っぽい話はここではご法度よ。いまね、広い客室を用意しているわ。それまでこの部屋でやっていようよ、ね」

 と、その場を片づけながら、開かれたままの扉に声をかけた。

「そんなとこに立ってないで、お入りよ。冬ちゃん」

 声をかけられた妓が入って来て、有働の傍に坐った。

「こいつ冬美っていうんですよ。いい女でしょ」

 と、有働は満足そうな顔でニヤけた。

「冬美か。あのときはろくに顔ば合わさなんだが、こげして見ると、ぬしもこの珠代に負けんぐらい器量好したい。こりゃうかうかすると有働、きさん、骨ン髄まで搾られる羽目ばなるばい」

 と、声を上げて笑うと、いましがたまで神妙な顔をしていた有働の顔が、急にだらしなくなった。

「でしょ。俺ァこんな女のためだったら、命を捨てても惜しくはありませんよ」

「嬉しいこと言ってくれるわね、いっとーへーさん。あたしも、あんたみたいな人が好きよ」

 甘い声で冬美が有働にしな垂れかかった。

 有働は忽ち上機嫌になった。

「よし有働、湿った話はここまでじゃ。さ、こいつを全部呑んでしまえ」

 と、一升瓶を有働の膝元に据えた。

「オイときさんは、言うならば似たもん同士たい。の」

「似た者って、どこが?」

 と、有働の湯呑に酒を注ぎながら、冬美が訊いた。

「班長殿も俺も、お前たちと同じ籠の鳥ってことさ」

 有働が笑ってごますと、今度は珠代と冬美が神妙な顔になった。

「……確かにそうね。そのとおりだわ。住む場所はちがっても、お互い逃げるに逃げられない籠の鳥の人生だもんね……」

 冬美が細い溜息を吐いた。

「仕方がないじゃない。お腹を痛めた可愛い我が子でさえ、自分の手で養うことができない御時世なんだもの」

 有働の言ったことで、部屋が暗く沈殿しかけたが、有働がそれを巧みに切り替えた。

「それはそうと班長殿、あの、班長殿は、籠の鳥になる前の娑婆ではどんな仕事をしていたんですか?」

 これは、珠代がいちばん知りたかったことである。一瞬、珠代の眸がキラリと光ったが、珠代は、敢えて結論を急がずに、逆に有働へ矛先を向けた。

「その前にさ、あんたはなにをしてたのさ?」

 意表を衝かれた有働は、しどろもどろになった。

「俺か? 俺は、その……つまり、そと……廻り、ってやつをやってたんだ」

「外廻りって?」

「そと……廻りってのは、つまり、金儲けに、外をグルグル廻るんだよ」

 困り果てた有働に、寿が助け船を出した。

「つまりじゃの、大八車に魚や野菜を積んで売りに廻っとる、行商人のそれたい」

 有働の顔をしげしげと見つめた冬美が、急に吹き出した。

「ぴったりだわ。でもさ、こんな熊さんみたいな行商人さんが現れたら、お客さんみんな逃げちゃうんじゃない?」

 と、からかうと、珠代がすかさず口を入れた。

「その前に、売り物みーんな自分の餌に食べちゃったりしてさ」

 大八車に積まれた行商の大事な売り物を、有働が熊の姿でガツガツ食っているところを想像して、二人の女は口を揃えてゲラゲラと笑った。

「班長殿、もう勘弁してくださいよ。困っちゃうな」

「わかったわよ。で、伍長さんはお国じゃどんなことをしてたの?」

 想像したおかしさが抑えられないらしく、冬美が含み笑いで訊いた。

「そうそう、俺はそれが知りたかったんだ。ね、話してくださいよ」

 有働が、間髪入れずに合いの手を打った。

「伍長さんは、きっといいところの出でしょ。見ればわかるわ。だって、さっき似た者同士なんてうそぶいてたけどさ、この兵隊さんとは外見も性格も大違いだし、それにどことなく上品に見えるわ」

 冬美がそう洩らすと、有働が声を上げて笑った。

「そりゃ班長殿のほうが、どう見たって俺よりお上品だ」

「ま、きさんに較べりゃそげ見られても無理はなかばい」

「なんだ厭味ですか」

 女たちは声を揃えて笑った。

「そんなことより、早く話してくださいよ」

 むず痒く笑った寿は、間を置くように盃を啜った。

「わしの生れたところは、九州の炭鉱町たい。おやじは炭鉱の飯場の組長ばしよって、わしはそこで育ったとたい」

「つまりは、班長殿も炭抗夫だったてことですか?」

「そのとおりたい。オイは高等中学ば出ると、幼友達と上の学校ば行きたかったとやが、ばってん、人生は皮肉にできとるたい。受験の日に、風邪ばひいて、それも大熱ば出してくさ、それが(もと)で進学ば諦めて、それでおやじの炭鉱で働くごつなったとたい。やけんが、それも束の間たい、すぐに徴兵検査ば受けるごつなって、甲種合格で小倉の連隊へ召集されたとたい。それで満期除隊ばして、嫁ば貰うてやっと落ち着いたとこに、今度はこの満洲へまたぞろ応召ゆうわけたい。お蔭で、地方の訛はこのとおりひどかもんたい。あっちへ行ったら、みんなの手前、どげかせにゃならんばい」

「あっちって? どこかへ行っちゃうの?」

 と、珠代が訊くと、

「俺たちは、あさって四家屯の国境線へ行くんだ」

 と、有働が答えた。

「そうなの……それで外泊が許されたってわけね……」

 娼婦にとっては、人間のつき合いなどというものは儚いものである。一期一会は日毎の茶飯事、慣れきっている。珠代は、冷めた溜息を吐いて寿に縋りついた。

「そういうことなら、ね、今夜は徹底的に呑んで、あたしたちと愉しんじゃいましょうよ。腰が抜けるほど、うーんとサービスするからさ」

 扉の向うから、痩せぎすの婆さんの声がかかった。

 珠代が出て行くと、婆さんが愛想笑いを浮かべて、部屋の支度ができたと顔を出した。


 その夜、寿たちは、別の部屋に座を移して散財した。

 有働は、馴染みの妓のことなどはもうどうでもよくなったようであった。冬美の体を抱き寄せて、

「あっちへ行ったら、酒も女もお預けだって言うし、それに、いつどうなるかもわからねえ身だ。もしかしたら、これが最後になるかもしれねえ。酒も女もやり納めだ」

 有働は一晩じゅう呑みつづけ、冬美を離さなかった。

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