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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征
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 初年兵の教育期間も終わって、五月の声を聞くと、連隊は俄かに騒々しくなった。日本と中立条約を交わしているソ連との協定が不安定となりはじめ、ソ満国境全域に緊張が漲り、遂には関東軍総司令官による戦闘序列が発令されたからである。

 このことは、ドイツとの長い戦闘を終息させたソ連軍が、ソ満国境線上に対峙する関東軍に矛先を向けて軍備を増強し始めたのと、沖縄の戦闘が既に終末段階となって、もはや対ソ戦は避けられない状況になった証でもあった。

 なにも知らない兵隊たちは、要塞陣地の前に拡がる残雪の大地に身を置いて、連日繰り返される白兵による肉迫攻撃優先の戦闘訓練に泥まみれになっていた。

 そうした週末のある日、午後の訓練が早めに打ち切られて、兵隊たちに束の間の休息が与えられ、その休息も終わりに近づいたとき、残雪の合間に恥じらいながら顔を出している岩肌に、寿が腰を下ろして煙草を喫っていると、矢部伍長がフラリとやって来て横に坐った。

「まったくひでえ疲れだぜ。給養は減らされる一方だというのに、訓練だけは過密ときやがる。腹が減っている上にこう搾られちゃたまらんよ」

「おんしゃ将校並の給養ば摂っとるんやなかね」

 と、寿は軽い冗談を飛ばしたが、これは藪蛇になってしまった。

「あんただってそうじゃねえか。三中隊じゃ中隊長以下の幹部はあんたを特別扱いしてるって、そう聞いたぜ」

 と、矢部は白い歯を出して笑った。

「そりゃ単なる噂たい。残念ながらおんしとちごうて、俄下士のオイはそこまで優遇されとらんよ。やけんが、おんしたちのお蔭で、ひもじか思いばせんで済んどるのは確かたい。感謝しとるよ」

 笑みを返した寿は、喫っている煙草を矢部に差し出した。

 矢部は、寿の言葉に満足したようである。受けた煙草をうまそうに吹かして、正面の丘の上を見やった。

 その丘には、将校たちが立ち並んで、あちらをゆびさし、こちらを見して双眼鏡を覗いていた。

「いい気なもんだぜあの連中。高い場所に陣取って、雁首揃えて暢気に眼鏡なんか覗いてよ、俺たちに攻撃優先の白兵訓練ばかりやらせてやがる。だが、それは否定しねえもんがよ、不思議なのは、なんで防禦戦闘訓練をやらんのかな? あの連中、ロスケが竹槍の軍団でも引き連れて、ノコノコやって来るとでも思っているのかな。戦闘がはじまれば、その前に、ドでかい大砲の弾がわんさと飛んで来るってことを少しは考えろてんだ。まったくもって竹槍の軍隊は俺たちのほうじゃねえか、なァ。阿呆らしいったらありゃしねえや」

 この矢部伍長の言うとおりである。絶大な火力を誇る敵に、防禦なき戦闘は全滅を意味するだけである。

「関東軍七十万は、山田乙三閣下殿に言わせれば無敵だそうやなかね。白兵による肉迫戦を第一義と考えとるあのお偉い方々には、防禦なんぞは必要なかと楽観しとるとよ。我が皇軍は攻撃優先、前進ばあるのみやけんの」

 寿は、丘の上の将校たちが散ったのを視て、腰を上げた。

「さ、お偉方が下りて()ンさるけん、ぼつぼつ集合ぞ」

 矢部も喫っている煙草を投げ棄てて腰を上げた。

「そりゃそうと、おんしの部隊も、あしたは外出日やそうなけんが、おんしの明日の予定は、どげな?」

 寿が訊いた。

「俺は、生憎と衛兵指令だ」

 そう答えた矢部に、寿はうなずいた。

「それはご苦労さんたい。そんなら、これはまたの機会にしておこうかの」

 と、ゆびで盃の形を作って口許に当てた。矢部の部隊との外出日が偶然重なったので誘ったまでであるが、勤務に就くのであれば諦めるしかない。

 矢部は白い歯を見せて、チョイと片手を挙げて小走りに去って行った。


 一日の訓練を終えた兵たちは、雪解けで泥濘(ぬかる)んだ大地での過酷な訓練で全身泥まみれとなって、唇を青くして震えながら兵舎に戻った。日本内地では麗らかな季節を迎えているはずであるが、北の涯の国境線は、長かった冬が終わったばかりで、寒気は居坐ったままである。

 寿が居室に入ろうとすると、人事掛曹長の阿部が事務室から顔を出して、寿を呼び止めた。

「すまんが、装具を解いたら俺のところへ来てくれ」

「急ぎですかの?」

「特に急ぎではないが、話たいことがある」

「それなら、あとにしてくれんですかの。このとおり泥だらけですけん、まずサッパリしたいんですがの。入浴後じゃいかんですか?」

 この人事掛曹長は、事務室では耕介の下で庶務掛軍曹を勤めていたが、耕介が出てからは曹長に昇進していて、庶務掛兼任の人事掛として兵隊を掌握する事務室の長となっていた。

 阿部曹長は、ちょっと不服そうな顔をしたが、相手が寿だから大目に見たようである。

「ま、いいだろう」

 と、事務室に入った。


 入浴を済ませた寿は、すぐには事務室へは行けなかった。訓練で泥だらけになった兵器の手入れの検査と兵隊の私物検査に時間を取られたせいである。

 そのうちに夕食時限が訪れたから、どうせならと、寿は将校並に盛られた夕飯を平らげて、居室で同僚たちと暫く寛いでから事務室へ行った。

 阿部曹長は、机で遅い夕食を摂っていた。

「あとで来ましょうかの」

 と、寿は気を利かしたが、阿部は、

「いや時間がない。食いながら話すから、そこら辺にかけて聞いてくれ。当番、お前は帰ってよし」

 と、当番兵を帰して番茶を一口啜った。

「俺はいまから週番司令に就かなきゃならん。今夜の週番の幹候少尉さんが、急な熱発で医務室に入室してな、隊長は俺に廻しやがった。他の隊附将校が、何人も控えているってのにだぞ。くそったれめが!」

 寿は肚で嘲笑した。

 ――泥濘(ぬかるみ)ンなかで泥だらけになるよりはよかばい。

「ところでお前な」

 と、阿部曹長は、口をクチャクチャ音を立てながら、

「出張する気はないか」

 と、出し抜けに言った。

 寿はその意味はすぐに理解したが、わからぬ振りをしてわざと薄らとぼけた。

「出張たァどげこつですかの?」

「ん。四家屯の監視中隊の近くに、開拓団の居留区があるのは知っとるな」

「知っとりますが」

「ん。その開拓団に匪賊の被害が出はじめているのも聞いているな」

「それの警護に、現地監視中隊の一個小隊がそっちへ廻されたと、そげ聞いとりますが」

「そうだ」

 阿部は、口に頬張った飯のなかで答えた。

「その小隊が、三日前の匪賊の襲撃で小隊の過半数が損耗してな、その補充に、急遽一個分隊の兵力を増援したそうだが、当然ながら、それを出した中隊には穴が空く道理だ。で、中隊の任務に重要な支障をきたすというわけでだな、そこでその中隊への補充要員が編成されることになった。と、まァこういうことだ」

「つまり、そン監視中隊へ行けゆうこつですか」

 阿部は、飯碗と一緒に顔を縦に振った。

「このたびの編入は、余剰人員を抱えとる第三大隊のうちの中隊が主力でな、それで大隊長殿はお前が適任だと言われて、中隊長が俺に言ってきたんだ」

 阿部は、飯に汁をかけて、ガツガツと平らげた。

「どうだ。受けてくれるか」

「と、言うこつは、まだ命令やなかとですか?」

「命令なら受けるが、そうでなければ(こと)わるというのか」

「……」

 寿が黙っていると、曹長は、番茶で口を漱いでニタリと笑った。

「大隊長殿の強い推薦だぞ。な、これを受ければ、お前、軍曹昇進だぞ」

 星一つと引き換えに、出て行けというのか! 寿は、椅子から腰を上げて、人事掛曹長の前に立った。

「すまんですがの、曹長どん、煙草を一本やらんですか」

 阿部は、上眼づかいに寿を視て、机の抽斗から真新しい煙草を取出して、寿の前に辷らせた。

「持って行け、やるよ」

 煙草の一つや二つ、当番兵を呼んで居室へ取りに行かせれば済むことだが、やるというものを突き返す必要もないので、黙って貰っておいた。

 煙草の封を切り、阿部にも一本すすめて火を点けた。

(こと)わればどげなりますかの?」

「どうにもなりはせんが、折角眼の前にぶら下がっている軍曹進級を棒に振るだけだ」

「そげんしても、曹長どん。なんもわしを出さんでも、中隊には優秀な乙幹もおれば、経験豊富な下士官が余るほどおるやなかですか?」

「お前にはそう見えるかもしれんがな、実際は見かけだけでな、昨日や今日の俄下士では経験不足だ。その点お前は軍歴も長いし、戦闘教練も熟知している。だから大隊長殿はお前を推したんだ」

 阿部は、食後の一服をうまそうに吹かして、寿に名簿を差し出した。

「ま、受ける受けんは別として、この場でざっと眼を通してくれ。転属者十四名の名簿だ」

 寿は、肚の内で、呆れた笑いを浮かべた。

 ――このクソ狸めが! 遠廻しにものば言いくさっとるが、行くも行かんもあるかい! 名簿ば出したゆうこつは、()()っからオイを出す肚やなかか!

 出張と聞いた時点で、寿は既に覚悟をしている。黙って名簿を受け取って、それに眼を走らせた。

 案の定である。転属される者に、優秀な兵隊がいるはずがない。道具に例えれば、なんとも使い道のない、謂うならば「がらくた」同然の兵隊たちであった。

 名簿を机上に置いた寿は、

「篩ば(ふるい)掛くると、出てくるもんたいの。あっちも、こっちからも、よくもまァこんだけおるもんたい」

 と、皮肉を呟くと、阿部は、にが笑いとともに、頭の真ん中が日の丸のように禿げ上がった部分を撫でながら、自分のことを棚に上げて、まるで他人事のようにさらりと返した。

「まったくそのとおりだな。どの中隊も、出すときはきまって程度の悪い兵隊ばかりだ。だからこそ、大隊長殿はお前を適任者として抜擢したんだ」

 阿部は、何気なく言ったのだが、終わりの言葉が引っかかった寿の眼尻が攣り上がった。

「こン中隊には、程度ン悪か伍長もおるけんの」

 と、厭味を被せると、言い過ぎたと気づいた阿部が慌てて言い足した。

「まァ待て、これはお前の実力を評価してのことだぞ。つまり、その兵隊どもを纏めてだな、このたびの任務を立派に成功させれば、お前の過去の汚点は綺麗さっぱりと洗い流されて、お前は文字通り中隊の実力者ということになる。これはだな、大隊長殿や中隊長殿のお前に対する厚意だぞ。ま、これを有難く受けてだな、お偉方の顔を立ててやれ」

 寿は、嘲るような眼つきを阿部曹長に向けて、いまさら開き直っても仕方がないと思いつつ、開き直った。

「命令とありゃ仕方なかけんが。ま、これで中隊も厄介払いの大掃除ができて、さぞさっぱりするやろうて。の、阿部曹長どんよ」

 と、厭味の上塗りをして、

「さっき、監視中隊の補充とおまんは言うたばってんが、本音はそこやなかばい。わしら分隊を開拓団へ廻すのが本音やなかとね」

 と、底意地の悪い眼を据えた。

さすがの阿部も、人事を掌る手前、古参兵特有の兵隊を威圧する眼つきを返したが、これはすぐに弛めた。この場は、寿の感情を刺戟しないほうが賢明と踏んだのである。

「お前たちの任務は、あくまでも国境線での向地監視だ、と、俺は聞いている。それ以上のことは俺は知らん。知りたければ、大隊長殿にじかに訊くんだな」

 と、阿部は、短くなった煙草を煙罐に揉み消して、

「だがな、川尻、一つ言っておくが、お前たちが現地部隊の指揮下に入れば、お前の分隊をどう扱おうと、それは現地指揮官の肚一つだぞ。とにかくだ、この任務はお前しかいないってことになったんだ。そういうことだから、ま、ここは一つ、気持ちよく引き受けてくれ」

 と、作り笑いした。

 寿は、阿部の白々しさに肚が立ったが、この男は、自分を救うために奔走した耕介に協力してくれた恩義がある。それに、いつかはこうなることを覚悟していることでもあったから、この期に及んで拒む必要もなかった。お望みどおり、どこへでん行っちゃるたい!

 寿は、煙罐に煙草を揉み消しながら言った。

「そいで、出発はいつかの」

 阿部が口を開こうとすると、扉を叩く音がして当番兵が入って来て、

「当番、曹長殿の軍装を持って参りました」

 と、これ以上に磨きようがないと思われるほど磨かれた長靴を、阿部の足元に置いた。

 曹長は、足を突き出して当番兵に長靴を履かせると、それを床へ二三度踏み慣らして履き具合をととのえた。

 軍刀を佩刀し、被服を正した曹長は、当番兵を帰して向き直った。

「さっきも言ったが、川尻、お前を本日付で軍曹に昇進させるとの中隊長殿より達しがあった。お前の年次からすれば、当然の進級だということでな。それにもう一つ、名簿から二名削除して、別の二名と入れ替えることになった」

「誰と誰かの?」

 阿部はニタリと笑った。

「一名はうちの中隊からだが、もう一名は、お前がよく知っている八中隊のあのやくざな暴れ者だ」

「ああ、有働とかいうあれね」

 阿部はうなずいた。

「あの兵隊やくざめ、おとつい砲兵隊とまた大喧嘩をやらかしてな。昨日五日間の営倉に入ったばかりだが、急遽それを解いて入れることになった。もう一人は野下だ」

「野下を?」

 と、寿は、瞬間、意外な顔をしたが、野下の身上を思い起こしてすぐに表情を戻した。

 そう。どれほど成績が優秀であっても、いったん思想的にいかがわしい人物と睨まれた兵隊は、軍隊では絶対に浮かばれない仕組みになっている。野下の一選抜進級を中隊長に具申した耕介でさえも、こればかりはどうにもできなかった経緯があったから、寿は、敢えて野下に関しては触れずに聞き捨てた。

 阿部は、それを、ぬけぬけとこう言った。

「俺は野下のような優秀な兵隊を出すのを反対したんだが、中隊長殿に押し切られてな。ま、そういうことだから可愛がってやれ。名簿から抜いた二名は、そのまま東雲台の陣地構築に廻す。出発は三日後。軍装品等々の支給は出発前日、出発時刻はおって通達する。以上だ」

 阿部曹長は慌ただしく出て行った。

 事務室を出た寿は、薄暗い廊下を居室に向かいながら、

「そうかい、あン野下も、結局は出されるとか……」

 呟いて、野下との間に因縁めいた感情を覚えた。

居室に戻ると、部屋には誰もいなかった。いつものように日夕点呼まで酒保に出向いて息抜きをしているのだ。

 机の上には軍装一式が揃えてあった。当番兵が気を利かして調え(ととの)たにしてはおかしかった。当番兵は、このことはまだ知るはずがないのだ。

 見ると、それは小月伍長のものであった。

 寿は首をかしげた。分哨勤務を終えたばかりの小月は、当分はなにもないはずである。だとすれば、小月もどこかへ転属かもしれない。

「あれもどこぞに出されるんかの?」

 独言を呟いて、酒保へ行こうとして扉の把手に手をかけたが、急に気が変わってそのまま寝台に寝転んだ。

 軍隊という組織は非情である。本人の意思とは無関係に、ある日、突然誰かを出して、それと入れ替わりに見知らぬ誰かが来る。出て行った者は二度と帰らない。軍隊の別れは永訣なのである。

 寿が寝台でぼんやりしていると、小月伍長が戻って来て、寿の寝台に腰を下ろして囁くように言った。

「行かれるそうですね」

 寿は半身を起こした。

「四家屯の監視中隊だそうじゃ。おんしとも、これでお別れたい」

「班長殿がいなくなると淋しくなります」

「いや、オイみたいな札付きはおらんほうがよかとじゃ。本来なら、真っ先に出されとりゃならんのに、深谷や通堂軍曹どんが先に出されたとやけんの。少々遅かった感があるが、これでよかとじゃ、これで、の。大隊長も中隊長も、これで、もう気ば揉むことァなかばい」

 寿は淡く笑って、それから机上の装具に顎をしゃくった。

「それより、そりゃどげしたとや?」

「もうすぐ第六分哨に出るんです」

「半数交替で戻ったばかりやゆうのに、またか?」

 小月は冷めた笑いを浮かべた。

「仕方がありませんよ。私ら乙幹上がりは経験が浅いですからね。場数を踏んで来いとでも言うのでしょ?」

 阿部なら、それくらいはやるだろうと思った。阿部は、寿と同年兵で兵隊から叩き上がった男だが、この男の難点は、高学歴の幹候上がりを嫌っていることであった。つまり、下級者が自分よりも理屈を持ち合わせていること事態が、阿部にとっては気に食わないのである。こうした不条理な勤務を平気で割当てるのも、人事掛の特徴でもあった。

「こン中隊には、遊んどる奴がぎょうさんおるゆうのに、あれも(けつ)ン穴ば(こま)か姑息ン男たい」

「松島も村中もぼやいていますが、みんな諦めていますよ。いちいち感情的になって腹を立てたところで、私たちにはどうにもできませんからね。それより班長殿、明日は外出が許可されますよ。明日の日朝点呼時に、週番司令の阿部曹長殿から正式に達せられますが、希望者には、外泊も許されるそうです。さっき便所で、曹長殿とばったり出会いましてね、そう言っておられました。新編分隊員全員だそうです」

 寿は、今度は卑屈に笑った。

「あれがそげな気の利いたことをする奴とも思えんばってんが。ま、折角の御配慮やけん有難かお受けしますたい」

「私が戻って来たときには、もう班長殿にはお眼にかかれませんが、あっちへ行っても、くれぐれもご自愛を……」

「……おんしにゃ世話になったばい。こンとおりたい」

 こうべを垂れた寿は、小月の手を取って感謝を示した。

「お互い、つまらんことで命ば棒に振るまいぞ、の」

「班長殿……」

 小月は眼を潤ませて、声を詰まらせた。

「これは通堂軍曹どんが置土産に言うたとやが、お互い無事に生きとりゃ、いつかは必ず逢える日が来る言うたたい。わしゃそいを信じとる。やけん、命ば無意味に棄てちゃつまらんぞ。いつかまた、どこぞで、の」

 小月は大きくうなずいた。

「私もその言葉を信じます。もし無事に生き延びたら、いつか班長殿の炭鉱を訪ねますよ」

 と、悲しげな笑みを浮かべて、腕時計に眼をやった。

「ぼつぼつ時間ですから、もう行きます。いろいろとお世話になりました」

 挙手をして、小月は装具を抱えて部屋を出て行った。

 閉じられた扉を見つめて、寿は、小月とは二度と逢うことはないであろう永訣の(むな)しさを憶えて、胸の内でそっと訣れを告げた。胸の内に、言い知れぬ侘しさが込み上がって、胸が疼いた。

 帰る場所を失ったはぐれ鳥が、冷たい雨の降る枯木の止まり木に身を(せぐく)め、前途に暮れて、じっと風雨に耐えている心境であった。

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