~富士山決戦~ 十六話
信じられないことは起きる。想像外の、想定外の、予想外のことはいつだってあり得る。
そんなことはよく知っていたつもりだった。
だが。それでも。
「和弥ぁっ!」
振るわれた信牙を辛うじて避ける。力尽きたはずの和弥から放たれたのは黒い光としか形容できないものだった。
まさか和弥が憎しみを向けて襲い掛かってくるなんてことを、良治は考えていなかった。それはきっと他の誰も、彼に近ければ近いほどに。
「神がッ! 人間がッ! 憎ウウウウウウゥイイイッ!!」
憎悪に染まった彼は文字通り変貌していく。
一対の白い羽が広がったかと思うと、それが根元から黒に変わっていく。
「黒い光……? まさか堕天……!?」
「フォール・ダウン?」
「私も話に聞いたことしかないので多分、ですけど……。天使が負の感情に支配されたとき、そうなると」
パティの言うように、和弥は彼女の言う負の感情に支配されている。それも並大抵のものではない。あれは常軌を逸している。
「まるで獣だな」
「夜叉?」
「理性など欠片もない。畜生道にでも堕ちたか。――俺が引導を渡してやろう」
「おいっ!」
能面染みた無表情の夜叉が刀を振り下ろす。そこには何の躊躇もない。
「グウウウッ!」
だがそれは信牙によって弾かれる。理性はなくとも本能が、身体が危機を回避する。武器を振るわせる。
「――っ!」
一合二合と切結んでいく。しかし徐々に夜叉が押されていく。
本来ならこんな力任せになった相手に真っ向から挑むなど愚の骨頂。しかし夜叉はそうせざるを得なかった。
和弥が厳魔を吹き飛ばした一撃。あの余波を至近距離で受けた影響でろくに足が動いてくれない。夜叉本人とすれば命があっただけマシだが、その結果がこの足を止めての接近戦だ。
「っ!」
和弥の重い一撃が夜叉の刀を打ち砕く。足は動かず、両手が衝撃で痺れた夜叉の身体はがら空きだ。
「……柊!」
「ぐ……交代だ夜叉ッ!」
ぎりぎりのところで信牙を止めたのは良治。そのまま身体で夜叉を押し退けて村雨で薙ぐ。
正直なところ良治は和弥と戦うことを迷っていた。だがその迷いは殺し合う二人を見て消えていった。そして決めた。
「――和弥、止めてやる。元に戻してやる」
殺さず、殺されず。実力行使で黙らせる。これが出来るのは、行うのは自分の役目だと、そう確信した。
冷静に考えれば考えるほど、やはりそれは自分の役割だと思う。夜叉は傷つき、パティは彼と接近戦を行えるほど強いわけではない。他の者たちも戦えるコンディションではないだろう。
「はあぁぁぁっ!」
「ガアアアアアッ!」
打ち合い、斬り合い、捌き、受ける。後先を考えずに最初から全力全開の戦闘。まるで殴り合いだ。
身体強化してある半魔族状態の良治だが、それでも後退しないのがやっとだ。
「――っ!」
不意に圧されるままに身体を逸らし、バランスを崩させる。そのまま足払いをかけ、膝を着いた和弥目がけて最速の横薙ぎを繰り出す。
「グゥッ!」
「まじかよっ!」
黒に染まった羽が散る。まさか羽で邪魔されるとは。普段ないものを計算に入れ損ねた良治の失態だ。
「ッ!」
決めるつもりの一撃をミスした先にあるのは隙だらけで硬直した身体。なす術もなく和弥の体当たりが直撃する。
(助かった、か……)
向こうもバランスを崩し、傷を負った状態でなかったならさすがに信牙で斬りかかってきただろう。
和弥相手に近接戦闘を挑むことになるなんて。普段の和弥なら遠距離攻撃がないのであり得ないが、今は信牙がある。信牙に力を込めると一気に射程が伸びるあの攻撃は、射程と威力を兼ね備えたもので続けて相手はしたなくない。逆に良治は遠距離だと弓もしくは術だが、弓は威力、術も威力が足らず、詠唱術はそれを解消できるが詠唱する時間はない。
「はっ!」
あくまで近接戦闘で戦うべき。そう良治は結論付け、足元の地面に手を触れた。
ドン、という音をさせて土煙が上がる。それは一気に広がり良治を、和弥をも包んでいく。姿を消せたことを確認した良治は真っ直ぐにそよ風を流す。と同時に僅かに風の軌道からずらして走る。
(よし!)
思った通り風が流れた道に信牙の黒い光が突き抜ける。
そして土煙を突き抜け、信牙を振り下ろした体勢の和弥に村雨を突き出す。最速、最短距離の刺突。――が、それは届かない。
「ちっ!」
横薙ぎで防がれ村雨が跳ね上がる。体勢は互角。先に振り下ろした方が勝つ。
だがそんな賭けに良治は出なかった。
「氷よ!」
「ッ!」
和弥の足元に術を放ち凍らせる。遅れて振り下ろされた信牙を地面を転がりながら避け、和弥の背後に回り込む。
和弥の右側からの攻撃は足を凍らせたままの状態で阻まれる。だが狙いはここではない。足を凍らされ、無理な体勢で攻撃を防いだ後のどうしようもない状態。
(その状態の背中――!)
「ガァッ!」
バチン。そんな音が響く。
良治としては珍しい失敗。背中には羽があり、羽は一枚ではなかったということだ。
「……やらかしたか」
攻撃モーションに入ったところを残った羽で叩かれ土を舐める。起き上がった彼の目に映ったのは、氷の呪縛を引き剥がして信牙を掲げる和弥の姿だった。
今の和弥に溜めの時間はほぼない。既にチャージしきっていた。もう射程外に逃げる余裕はない。渾身の力を込めて防御に徹することしか出来なかった。
「――ッ!!」
そして良治の視界は黒い光に覆われた――
気が付いたとき、良治はまず耳がおかしいと感じた。酷い耳鳴りだ、早く治さないと。そして視界には何もない。これもおかしい。だがすぐに土の地面だと気付いた。
自分は無様に地面に倒れている。その認識に至るまで少しばかりの時間があった。それに気付くことが出来たのは自分に近付いてくる一つの気配があったからだ。
「……」
頭を動かして気配の方を見る。するとそこには自分をこんな有様にした当人が歩いて来ていた。
(立たなきゃ……)
歩いてくる友人を見て単純にそう思った。立ってどうするか、何をしなければならないかなんて、そこまで思考は回っていない。ただ、彼が来るなら立たなければ。そう思っただけだ。
全身を刺すような痛みが襲っている。だがそれはどうでもいい。身体は動く、それだけが大事なことだ。
「和弥……」
なんとか立ち上がった彼の目の前にはもう友人が立っていた。待たせてしまったようだ。
そして――柊良治の胸に信牙が突き刺さった。
こんな結末も仕方ない。自分の命の残量はとうに尽き、今は言わば余生だ。どんなことになっても文句を言うつもりはない。ただ、無駄にはしたくなかった。
「――和弥」
信牙が刺さったまま良治は和弥の肩に手を置く。最後に彼を元に戻すことだけはしなくてはならない。
だが言葉が出ない。身体的にもう無理なのか、単純に何を言っていいかわからないのか。それもわからない。
「――和弥ッ!」
目だけで声が聞こえた方を見る。そこには友人の大事な、大事な人がいた。長い黒髪のいつも理知的な彼女。
彼女は和弥に触れると口を開く。和弥は――ただじっと彼女を見ていた。
「パティシアーノさんから話は聞きました。昔あったであろう話も」
和弥は身動き一つ取らない。
「貴方が人間を、神を憎むのは当然だと思います。きっと同じ状況になったら私もそうするでしょう。憎むと思います。それが当たり前だと思います。でも」
真っ直ぐに和弥を見上げてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それは天使の事情でしょう。今生きている和弥はどうなんですか。本当に人間を、神を殺すためにだけに生きたいと、そう思っているのですか」
そこで初めてぴくりと身体が動いた。僅かに、だが確かに動いた。
「和弥は、私の知っている和弥はそんなこと考えません。困っている人がいたらなんだかんだ助けるお人好しです。むしろ人を信じすぎる甘々な人間です。――そんな和弥を、貴方を私は好きになったんです」
今度は表情の筋肉が動く。確実に何かが変わろうとしていた、
「もう一度聞きます。本当に和弥は人間や神を殺したいのですか? それだけの為に生きるのですか?
――貴方は何の為に力を得たんですか? 誰かを殺す為ですか? 違うでしょう、貴方は、和弥は大切な人を守る為に力を欲して手に入れたのでしょう!」
「あ……」
「こんなことの為に得た力ではないはずです。それに――私を守ってくれるという誓いを破るんですか?」
「あ、やか……」
ゆっくりと、和弥の身体から力が抜けていく。
思い出したのだ。最初の願いを。彼女との誓いを。
「……すっきり、したか?」
「リョージ……」
止め処なく流れる涙を拭うことなくこちらを見る。ぐしゃぐしゃな顔が笑える。
(――ああ、終わった。終われた。これで満足だ)
和弥を救うことができた。自分に出来たのはほんの少しのことだったが、それでも力にはされただろう。
「あ、あぁ……! リョージ!」
「とりあえずトドメを刺したくないのなら信牙は抜くな。確実に死ぬ自信がある」
まだ信牙は刺さったままだ。しかし抜けば血が一気に噴き出して出血多量で死に至るだろう。
「俺はなんてことを……っ!」
「ゆっくりと信牙から手を離せ。まだ死んでないからな。取り返しのつかない事態はまだ起こってないからな」
良治の姿は半魔族化が解かれていつものものに戻っている。それが示すのはもうそんな力はないということ、そして間もなく反動があるということだ。
(半々、かな)
冷静に判断はするが生き残りたいとは思っている。ここで死ねばそれこそ和弥は取り返しのつかない傷を抱えることになる。トラウマを負ってしまう。それは避けたかった。
「良治君、肩を下に横になって。出血だけはここで止めないといけない……誰か少しでも治癒術を使える人はいませんか!」
いつの間にか寄り添っていた翔が声を上げる。どうやら予想通りかなりまず状況に置かれているようだ。
「少しくらいなら力になれるかと」
「潮見さんか……誰かゆっくりと、少しずつ剣を抜いてください。潮見さんは私と二人で血を止めます」
「はい」
「抜くのは、わ、私が!」
まどかが名乗りを上げて信牙の柄を持つ。それだけで痛みが走るが声を上げてしまえばまどかは躊躇ってしまう。我慢しなければならない。
誰もが懸命に彼を助けようとしていた。周囲にはロッジにいたはずのメンバーもいる。不安そうな者、歯を食いしばって見守る者などそれぞれだ。
ふと空を見た。夜明けが近いのだろう。藍色に染まりつつある空がとても綺麗だ。
だが、そこに邪悪な存在を見つけてしまった。誰も気付いていない。皆良治に気がいっている。背後に空間転移して来たそれに気付けなかった。気付いたのは良治だけだった。
「シグマあああああああああああッ!」
喉から血が出そうなほどの叫び。最後の力を振り絞った絶叫。その瞬間傷口から血が噴き出した。
「ぐ……てめぇ、シグマっ!」
「抜かったか! ええい死にぞこないの半端者がッ!」
和弥の右手にまるで蜘蛛や蟻のような、細長い腕のようなものが突き刺さっていた。良治の声がなかったら背中を一刺しだったのだろう。
「こんのお!」
刺さったままの腕を振り払うと素直に抜ける。だが撤退する気はないようだ。赤い目がぎろりと和弥を睨む。
「ハッ!」
バッと幾つもの腕を広げてジャンプして跳びかかるシグマ。
「死ねえええええええッ!」
「なっ!?」
空中で一本の棒がシグマに直撃し、バランスを崩す。投げたのは――禊埜塞だった。
「裏切るのかああッ!」
「俺を利用してた奴には言われたくないねッ!」
叫びながら落ちてくるシグマ。塞に気を取られて一瞬忘れてしまっているのだろう。落下地点には和弥が待っていることに。
「地獄の底まで――」
「ッ!!」
「吹っ飛んでくれッ!!」
腰を入れた渾身の右ストレート。怪我なんてどうでもいい。思いっきり、力いっぱい、全力で殴りたかった。
顔面を打ち抜かれたシグマはボロ雑巾のように地面を転がり、折れた木に当たるとその姿を消す。それが消滅なのか空間転移なのかは和弥にはわからなかった。
「っておい、リョージ大丈夫か!」
「……生きてるよ。で、だ。一つ頼みがある」
「なんだ、なんでも言ってくれ」
「今なんでもって……まぁいいや。和弥、勝利宣言頼む。それはもう高らかに、力いっぱい」
「それはリョージが……」
「俺に無理だから言ってるんだよ……もう喋らせないでくれるとマジ助かる」
「……わかった」
もう息も絶え絶えだ。それを見た和弥がようやく素直に頷いてくれた。
そして。
「勝ったぞおおおおおおおおッ!!」
「おおおおおおおッ!!」
雲間から射し込む朝陽に照らされた友人を見た柊良治は、ゆっくりとその目を閉じた。




