いつか見た空の色・9
引き続き回想です。
不意に体中を打ち付けていた雨の感覚が途切れて、葵は薄く目を開けた。
視界が黒い。
バラバラと何かを叩く音が耳についた。
目をこらすと黒の中に銀色の骨が見えて、目の前にあるのが広げられた傘だと知る。
「濡れるぞ」
雨音の中聞こえた声に、葵はため息をついた。
傘の持ち主を目でたどる。
声でわかる数少ないクラスメイトだ。
「……楠本」
楠本敬司。
葵と同じ図書委員。
あいつの、最も仲のいい友人だった。
「濡れる」
そっけなく言って敬司はさらに傘を葵に傾けた。
濡れるぞと言いながら、葵に傘を差しかけて敬司自身は雨に打たれているのだ。
当の葵はもうとっくに濡れ鼠だというのに。
「馬鹿じゃないの」
突き放すような声にに敬司は見下ろしていた顔をしかめた。
傘を差しなおし、二人とも中に入るように寝そべる葵の真隣に立つ。
あいつ、と敬司はひとりごとのようにつぶやいた。
だが、ためらっているのか言葉を探しているのか続きがない。
何、と葵が先を促すと言いにくそうに口を開いた。
「あいつ、本当に死んだのか」
ああ、と葵は嘆息した。
確かに担任がクラスで話したのはあいつが事故で死んだということだけだ。
通夜も葬式も既に済んで、おまけに埋葬は母方の実家があるヨーロッパのどこかの国でなされるという。
確かめようのない説明はどこかフィクションじみていて実感がなかった。
悪い冗談にしか聞こえない。
何の証拠もないならいっそ「家の都合で転校しました」とでも言えばいいのに、とお門違いに担任を責めた。
……だけど。
葵はずっと握りしめていた右手を開いた。
「これ」
葵の声に敬司は足下に視線を落とした。
それが開かれた手のひらに向けられた瞬間、敬司が息を呑むのがわかった。
傘を肩にかけたまま敬司はその場にしゃがみこむ。
片手を濡れた地面について葵の手のひらを見つめた。
「…これは、」
二の句が継げない敬司に、葵は低く笑う。
「担任に渡された」
ゆるく開かれた葵の手の中にあったもの。
それは敬司もよく知っている、
(空の十字架)
十字架も、それに連なる鎖にも覚えがある。
空自身が葵にもらったと自慢げに見せびらかしてきたのだから。
その後もずっと、襟元から銀の鎖をのぞかせていた。
たが、敬司の記憶と違うのはそれがひどく傷付いているということ。
なめらかだったはずの表面に引っ掻いたような跡が無数に走っている。
かなり黒ずんで汚れもあるようだ。
乾いた染みのようなこれは……
「事故のときにつけていたものだってさ」
担任の説明は全く信じられなかったのに、傷だらけのその有り様が事故が事実を裏付けているようで。
何よりも、その十字架が持ち主の手を離れてここにあるということが空の不在を突きつけてくる。
「……でもどうしてこれ、担任が?」
硬い声のまま敬司が問う。
「頼まれたって。これを、私に渡すように」
「誰に」
「あいつの、保護者だって」
保護者という言い方に、敬司が一瞬怪訝そうな顔をした。
保護者というより今は遺族って呼ぶべきなのか、などと皮肉めいたことを考える。
だがそれならまだいい、と葵は唇を歪めた。
まだ、空との関係に明らかな名前があるのだから。
比べて今の自分はなんだ?
彼女ではない。
友人でもない。
クラスメイト、と言えば嘘にならないのか。
けれど例えどんな言葉で表したところで頭に「元」という断りがつく。
空が消えた今、自分と空との繋がりに名前はない。
そもそももう繋がりすらないのか。
ならばこの手の中にあるものはなんだ。
「佐野は、」
「なんなのかな」
敬司は驚いた顔で葵を見る。
敬司も同時に何か言いかけたようだったが、葵の強い口調に口をつぐんだ。
「今更、こんなもの押し付けてなんだっていうの」
葵は空いた左手で顔を覆った。
頭が鈍く痛む。
持ち上げた腕が重い。
「あいつは、一体何がしたいの」
実際は十字架を託したのは空自身ではないのだから、そこに空の意図はないのかもしれない。
それでもなお。
一方的に振って勝手に死んで、手の届かないところに消えた挙げ句忘れることすら許さないなんて。
どれだけ振り回せば気がすむのか、と……。
痛みに耐えかねたように葵はうめいた。
この日はじめて葵が見せた感情に、敬司は目を細める。
「……あいつは最後まで我がままで嘘つきだったよ」
静かな、だがきっぱりとした物言いに葵は目を見開いた。
顔を覆っていた手をずらして呆けたように敬司を見る。
「だけど、それだけは事実なんだろ」
敬司は何かを諦めたような表情で葵を見つめた。
「あいつが死ぬまでそれを手放さなかったってことだけは」
息をするのも忘れて葵は敬司が言ったことを反芻する。
(空の嘘)
嘘って何だ?
何のために?
(空の我がまま)
あいつは一体何を望んで、何をしようとしたのだろう。
葵が渡した十字架を道ずれにして?
握りこんだ手の中で鎖がきしんだ。
敬司の言葉は新たな疑問を生んで、葵を絡めとっていった。




