疑惑の金曜日・4
かたん、と硬い音が響いて葵は意識を引き戻した。
既望がコーヒーカップを引いたのだろうか。
顔を上げると何故か満足げに微笑まれた。
(どうして、飛び降りようとしたのかな)
言い訳めいたことは口にたものの、結局問いにはまともに答えていない。
葵が勝手に自分の記憶を反芻しただけだ。
にもかかわらず、既望は何を問うでもなく目を細めて葵を見ていた。
これまでもだ。
聞いてくる質問そのものは遠慮も何もあったものじゃなかったが、答えを最後まで求めてくることはなかった。
(初めて会ったとき、空が綺麗だからと言ったね)
思えば既望が言葉を重ねてくるのは、葵が問いかけを掴みきれなかったときだけだった。
口に出しても出さなくても葵が何かを見つけたならそれでいいとでも言うような。
一週間のやりとりで、既望が話の種にできそうな情報はほとんどなかったはずだ。
この人は取材のために私を雇ったんじゃなかったのか。
(いったい何がしたいの)
ずっと葵の中でくすぶっていた違和感が、初めて疑問として形を持った。
だがそれはあまりにも端的で漠然とした、どうとでも答えようがある言葉にしかならない。
正面から聞いたところではぐらかされるだけだろう。
初めから、得体が知れないという認識はあった。
飛び降りるのを引き止めたときも、葵が死のうとしていたということに関して全く関心がなかった。
(こういうの止められた人って、もっと抵抗するものだと思ってた)
既望は葵にこう言ったが、葵もまた思ったのだ。
(こういうのを止める人って、もっと必死に説得するものだと思ってた)
別に善意で引き止めて欲しかったわけじゃない。
ただ、人が死ぬのを止めるなら、その人の中には死に対して抵抗なり恐怖なりがあるものではないのか。
だが、既望は。
(一週間付き合ってくれたら、君を殺してあげる)
何気なく引き止めて、何てことないようにそそのかす。
まるで、既望自身が死ぬということに頓着がないような。
それは興味がないからどうでもいいというよりも、あまりにも身近にありすぎたために抵抗が薄れてしまったかのような奇妙なこだわりのなさだった。
それは、つまり。
「あなたも、死にたいと思ったことはあるの」
葵の、反発ではない初めての問いかけに既望は不意を突かれた顔をした。
大きく息を吐いてゆっくりと笑う。
「そりゃあ、長く生きていればね」
ああ、そういう答えか。
なんだ、と思ったのか。やっぱり、と思ったのか。
とにかく、結局はそんな言葉しか返ってこないのだと苦い思いで視線を外した。
「でも、死に損ねた」
少しだけ低くかすれた声。
はじかれたように顔を上げた。
「何、それ」
「それだけのことさ」
おどけた仕草で肩をすくめて既望は話を切り上げた。
感情を見せないわけじゃない。
けれど断片を垣間見せながら、決してその尻尾を掴ませない。
その言動がわざとなのか何なのか。
それがどれだけ葵を苛立たせているかを知っているのかいないのか。
どうしてあの屋上から葵を捕らえたのか。
死の理由にかこつけてあいつのことばかり聞くのは何故だ。
もう何の意味もない記憶に葵を向き合わせて、今更どうしようと?
既望は自分を語らない。
その目的も。意図も。思惑も。
正攻法では捕まらない。
だが、一方的に人のことを揺さぶっておいて、自分は揺らがずに見せようだなんて許さない。
「あなたは、」
言いかけたもどかしさは言葉にならずに葵は口をつぐんだ。
ただ、目の前の人物を動揺させてみたい。
葵は漠然と強く思った。




