第一章 始まりは結婚式
ヴァンレール王国の王都にある小さな教会では、白い百合が飾られて参列者が並び、いままさに結婚式が行われようとしていた。鳴り響く祝福の鐘に青空を舞う幸福の象徴である白いハト。神がこれから夫婦とならん若き男女を祝福しているような五月の晴れた一日のことだ。
けれど、祭壇の前に立っているのは花嫁である私こと、アイビー=レッドベリーただ一人。純白のドレスとレースで縁取ったベール。手には百合の花束を持ったまま、かれこれ半時ほどこの状態で待っていた。祭壇の前にいる白髪の司祭様もすっかり困り果てた顔をしていた。
本当なら、新郎新婦揃って跪き、誓いの言葉を立てて結婚証明書にサインをし、指輪を交換。新郎がベールをそっと上げて口づけを交わし、参列者が拍手を送る。それで結婚式は無事に終了するはずだった。三十分ほど前までは誰もがその予定で、今日のよき日を恙なく終えられると信じていただろう。
なんだかおかしいぞと私も含めたこの場にいる人たちが思い始めたのは、十五分ほど前のことだ。新婦である私はこの通り準備万端なのに、肝心の新郎の姿が見当たらない。新郎側の親族がなにやらバタバタし始めて、トラブルが発生していたのがわかった。それでも、参列者を不安にさせてはいけないと、無理矢理祭壇に連れてこられた私は、「ちょっと準備が遅れているだけです」、「新郎の気分がよろしくないようで」というあちら側の親族の説明を真に受けて、ここでボケーッと待っていたけれど、新郎はそれから十分経っても現れない。とうとう、三十分が過ぎてしまった。
おかしい――と、誰もが思っているのか、参列者もざわついていた。私の父と母は何度も教会の礼拝堂を出入りして、あちら側の親族と何やら深刻そうな顔で相談していたが、とうとう父がぶち切れたらしく、外で怒鳴る声が聞こえた。そのまま、どうやら頭に血が上りすぎて昏倒してしまったらしく、運び出されて医師が呼ばれたようだ。
ちなみに、私の父は一応は子爵であり、小さな領地を所有している。私はその子爵家の長女で、いずれ家と爵位を継ぐ予定の弟は十歳だ。すっかりこの状況に退屈したらしく、一番前の席に座って脚を揺らしながら欠伸を漏らしている有様だ。
私の婚約者であり、新郎となるはずだったのは子爵家よりもずっと格上の伯爵家の次男で、ローマン=リスモンドという人だ。見た目だけで言えば、かなりいい。美しい金髪で顔立ちは整っており、社交界でもかなり人気の男性だった。しかも伯爵家の次男でもあり家柄も申し分ない。この婚約は、親同士が決めたもので私は十歳の頃から、このローマンと結婚するのだと言い聞かされて育ってきた。ローマンは少々軽薄なところがあって、美人やかわいい女性を見ると鼻の下を伸ばすようなヤツだったが、そう悪い男ではなかった。婚約者だった私にも花束や贈り物を欠かさなかったし、デートで湖畔に連れていってくれたり、オペラに連れていってくれることもあった。
だから、まあ私も、彼と結婚することに特に不満はなく、多少女性関係に問題があっても目を瞑るかくらいに寛大な気持ちでいたのである。貴族の男性にとって愛人を作ることは珍しくない。私の目に入らない範囲であれば許容しようとすら思っていたのだ。彼は乱暴な性格ではなかったし、散財も多いが、伯爵家は裕福だからその点も気にするほどではなかった。
彼にうっとりして見惚れる女学生のような甘ったるい気分にはならなかったけれど、それでも彼と夫婦になればそれなりによい関係を築き、子どもを育てていこうという気持ちも十分にあった。
そう。十分前までは――。
「おい、聞いたか? どうやら……逃げたらしい」
「愛人と一緒に駆け落ちだそうだ……」
「置き手紙が残されていたそうよ……なんでも相手の方に子どもが……」
「伯爵も激怒して勘当すると喚いているそうだ」
そんな囁き声が嫌でも聞こえてきて、ベールの下の私の顔が引きつる。
つまり、ローマン=リスモンドは私を捨てて、愛人と駆け落ちしたのね。しかも、子どもまですでにできているらしい。結婚式当日に、愛人がいたという事実まではまあ……そんなものかなと我慢しよう。だけど、子どもまでいたってどういうこと!? 隠し子登場!?
私は何にも聞いていないんだけど!?
というか、それ今日、発覚したことじゃないよね!? もっと前に分かっていたよね!?
なんで、結婚式前に言わないわけ!?
言ってくれれば、結婚式は諸事情により中止となりましたと皆様にお詫びのお手紙を送って、『はい、解散!』ってできたのよ――っ!!
ああ、結婚式の準備に費やした私の半年間はなに?
しかも結婚式当日に新郎に逃げられたなんて、社交界のいい笑い者じゃない。たしかに、私はしがたない田舎貴族の娘だよ。子爵家なんて言ってもたいした家柄でもない。きっと、明日には……いいえ、今日の午後には王都中に噂が広まっていて、明日には友人たちから慰めの手紙が大量に屋敷に届けられるだろう。そして、舞踏会に出るたびに、「ほら、あれが新郎に逃げられた子爵家の娘よ」、「まあ、平凡で面白みのない顔のご令嬢ね」、「きっと、ひどい性格の持ち主だったのさ」なんて陰でネチネチ言われてしまうのだろう。
頭が痛い。お腹も痛い。立ちっぱなしだったから足も痛い。それどころか、今ここで一人でポツンと突っ立っている私の存在そのものが痛い!
もう帰っていいかな? いいよね。新郎いないと結婚式なんてできないんだし。中止決定でしょ。
まさか、あいつを連れ戻そうとか考えてないよね!? 連れ戻されても無理だよ。愛人も隠し子もいるような男と結婚なんて。いくらこっちは子爵家で、あっちは格上の伯爵家といっても、私にだって子爵家の令嬢としての矜持ってものがある。そんな舐めた真似されて、黙っていられるわけがない。
こうなったら、ここで神様に一生お仕えすることを誓って、修道院に逃げ込んでやる。三年くらい隠れていたら、きっと社交界の人たちも私のことも、噂もすっかり忘れてしまうだろう。そうなったら還俗して自由気儘な独身生活を満喫するんだ。実家に迷惑をかけるかもしれないけれど、こうなった責任は結婚を決めた両親にもあるのだから、少しくらいは面倒を見てもらおう。
うん、決めた。私は面白おかしく好き勝手に生きてやる!!
新郎に捨てられた哀れな令嬢? それがなによ。好きに噂するといいわ。評判なんて地に落ちて、結婚相手なんてもう見付かりっこないだろう。いたとしても、貴族と縁故になりたい成金か、老後の面倒を見てもらいたい偏屈老人くらいだもの。それなら、結婚しないほうがマシ!
元から、ロマンス小説のような愛だの恋だのは、私にはよく分からない。感受性が薄いのかもしれない。女学校時代の友人たちにも、「アイビーってなんかさめてるよね」と言われたくらいだ。小説も恋愛小説よりサスペンスや、ミステリー、ホラー小説を好んでいた。私にはときめきってものが分からないらしい。顔のいいローマンに頬にキスをされた時だって、蜂が頬に止まったくらいの感覚しかなかった。きっと私は恋愛というものに向いていないのだろう。そう、これは向き、不向きの問題なのである。ただ、結婚生活には多少、夢も見ていたんだけどなぁと、滲みそうになる涙をグッと堪えた。
傷つかないわけじゃないのだ。結婚という大事な儀式で、こんなふうに粗末に扱われてしまったことに対して。それに、今日参加してくれた友人、知人に対して申し訳ない気持ちでいっぱいにもなる。せめて、私にできることは笑い話にしてみんなに帰ってもらうことくらい。多分それは、この祭壇の前に立っている私の役目で義務なのだ。それを放り投げられるほど、私は無責任な人間にはなれない。
一呼吸置いてから、クルッと参列者の方を向く。「みなさん、今日は私のためにお集まりいただき、ありがとうございました!」と、ドレスの裾を摘まんでお辞儀をする。ああ、泣きそうだ。でも、今は我慢だ。笑顔で対応。クイッと顔を上げてベール越しに哀れむ参列者の皆様をしっかりと見る。
その時だった――。
教会の礼拝堂の扉が大きく開いた。まさか、ローマンが今さらになって戻ってきたの!?
なんて、期待なのか呆れなのかわからない感情を一瞬抱いたけれど、入ってきたのはお父様だった。
「は? お父様!?」
血圧が上がりすぎて倒れたと聞いたけれど、大丈夫なのかしら。心配する私を他所に、父はなぜか喜々とした表情でニンマリと笑った。
「アイビー、結婚相手がお待ちだ!!」
父の大きな声が小さな礼拝堂に響く。参列者も私も、祭壇の司祭様もポカンとしている。
「今すぐに会場を移動するぞ!!」
「えっ、は? ええええええっ!?」
こうして、わけがわからないまま私の結婚式は続行されることになったのである。
馬車に押し込まれ、参列者をゾロゾロ連れて向かったのは、私たちが結婚式を挙げる予定だった小さな教会のすぐ近くにある別の教会だ。
その前で馬車を降りた私は、愕然として尖塔のある大聖堂を見上げる。
「こ、ここって……王都大聖堂じゃないの…………?」
王都の中でも一番格式が高く歴史ある大聖堂だ。国教会の総本山でもある。まさか、ここで挙げるわけじゃないよね? こんな大聖堂で結婚式を挙げるのは大貴族や王族くらいなものだ。うん、きっとこの裏手に小さな教会でもあるんだろうな。そう思っていた私は、あれよあれよという間に大聖堂の中に運ばれて、控え室に押し込まれる。ズラリと並んでいたのはメイドさんや侍女たちだ。
「このドレスでは無理ですね……今すぐに新しいドレスとベールを!!」
メガネをかけた長身の侍女が進み出て私のドレスを確認してから指示を飛ばす。
「あっ、あの……えっと?」
「十五分で全て完璧に整えてご覧にいれます。何もご心配なさいませぬよう」
メガネの侍女はキリッとした表情で言うと、テキパキと他の使用人たちに指示を飛ばす。用意されたのは目が飛び出そうなほど豪華な純白のドレスだった。ベールは総レースで、パールが縫い付けられている。メイクも髪のセットもやり直しだ。いつの間にか足に履かされていた靴もパールの飾りがついていた。しかもメガネの侍女が運んできたのは、特大のダイヤが並んでいる重量のありそうな首飾り。
(こんな首飾りつけて結婚式に出るの!? 私、断頭台送りになったりしない!?)
処刑台に上げられて首かせをはめられた私の姿が頭を過る。大柄な男がニヤッと笑って大きな斧を振り下ろすのだ。そんな不吉な想像をしてしまって、頭がクラッとしてくる。けれど、有無を言わさない間に首飾りは装着されていて、頭には首飾りに負けず劣らずの特大ダイヤで飾られたティアラが載せられる。首も頭も重い。これ、いったいいくらくらいするんだろう。もしずっこけた拍子に落として踏んじゃったりして、傷をつけたら弁償だろうか。無理だよ。子爵家が破産するもの!! うちは細々と田舎領地を守っているだけの子爵家なんですからね。
というか、こんな宝石やドレスを用意できるっていったい、どこの誰?
私、誰かと勘違いされたりしてない? お父様、いったい結婚相手を見つけてきたってどういうこと!?
何も分からないままぐったりして座っていると、「ご準備できました!」と声が上がる。
私の心のご準備はまだできていませんが!?
なんて、不満は誰も聞いてくれそうにない。私はこうして、事情がさっぱりわからず、誰かも知らない相手との結婚式に急遽臨むことになったのであった。
誤字脱字報告ありがとうございます。




