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母親が家に戻ってきたのは小学校低学年のことである。どこから聞きつけたのか担任の男性教師に「よかったな」と声をかけられ、心からの喜びで表情を崩して何度も頷いたものだ。どのような経緯で戻ることになったのかは聞いていないけれど、名古屋で家政婦をしていたと話していた。その時に面倒を見た子供の話などを母親は語ったが、僕は少し気に食わなかった。あなたに一方的な別れを告げられて自分はあれほど悲しく、母親のいない日々は酷く寂しいものだったというのに、何故自分がマイナス感情に浸っていた時期に面白おかしく過ごした話などをするのか、その子供たちのかわいらしいイタズラなどは自分が行ってあなたに構ってもらうのが正しいかたちではないのか、と。しかし当時の僕は抱いた感情を上手く表現する言葉を持たず、曖昧な表情で彼女の話を聞くしかなかった。感情豊かに変わる彼女の表情をよく見て、ああそういえば僕の母親はこんな顔だった、今度は絶対忘れないようにしっかり覚えておこう、と予定のない次に備えながら。
「――――。……うん、うん……。――――。うん……」
母はよく、誰かに電話を掛けていた。見かける時間帯としては早朝、僕が登校に家を出る前が多く、決まって居間などの共同生活スペースから幾つか部屋を挟んだ位置にある仏間で声を潜めて会話をしていた。偶然に傍を通っても感情もなく視線を寄越すだけで、様子で言えば母親然としてはいなかったと思う。漫画やアニメにおいてよくある早朝のシーン、忘れ物の有無や各家庭固有のルーティーンなどについて言及された記憶はなく、用があって声を掛けようとすれば煩わしげな表情を浮かべた。誰かから「母親には父親と別に愛している男性が存在する」というような旨を聞いた訳ではないし、電話の内容をしっかり聞いたこともない。積極的に調べようなどとは思えない程はっきりと、母親の愛情は他所へ行きつつあることを感じていたのだ。
それでも僕にとっては唯一の母親であり、当時10歳にも満たなかった僕は幼稚園時代に不足したこともあって母親の愛情を強く欲していた。酒に酔った父の横暴な振る舞いと家庭内暴力、自分だけ年が離れた兄姉からの疎外感、自分には理解し難い正しさを持つ祖父母。家庭環境は崩壊する寸前を保ち、僕からすれば「真っ当な母親」という偶像は自分の世界を繋ぎ止めるための寄す処だったのだろう。きっと期待通りに事が運ぶことはないのだろうと予感はしていても。
僕の家は祖母の代から、仏教のいち宗派を源とする宗教団体に所属していた。その家に生まれた僕や兄姉も自動的に入信という形になり、僕たちは毎日朝と晩に仏壇に向かって正座で手を合わせ経を唱えた。心から信じて仏を敬い聖人を愛して経を唱え、教えに沿った振る舞いを以て生活すればきっと仏はあなたの願いにも力を貸してくれるだろう。仮に大きな流れに反することが叶わず命を落としてしまうことがあっても死後の魂は安らかであり、罪を犯した人であっても赦されることだろう。家族の中でも特に祖母は敬虔で、週に一度は僕の家で信者たちとの自主的な「会」が開かれていた。それがなくとも宗教団体の慣習として地域ごとの報告会めいたものが月に1回程の頻度で催され、互いの布教活動や信仰心の強さを賛え合った後に声を合わせて経を唱えるのだが、祖母はその集まりの中でも自主的な会を開くことから一定の地位を得ていたし、報告会にあまり顔は出さずとも「地区長」に任ぜられた父と妻である母は顔が広かった。父が塗装業の下請け会社を営んでいたことと、そういった現場作業員が多く住む地域であったことも影響したのだろう。宗教団体での集まりに僕が顔を出せば信者のみんなが好意的で、努めて良い子であろうとした僕は経の暗記などで周囲の評価を得ようとしていた。好きなタレントやミュージシャンを問われれば両親から「この人は会員だ」と聞いた人を挙げ、常日頃から「偉大な方なのだ」と聞かせられる宗教団体の会長を尊ぶ言葉を連ねた。愛してもらうには「その価値がある」と示さねばならない、我儘ばかりでも血の繋がった子なら無条件で愛してもらえるなど有り得ないことを覚えたからだ。
稀に感情の爆発が起きて泣き叫んだ時、いつも母は僕を車に乗せて同じ施設の前まで連れて行き「おまえのような子供はいらない。言うことを聞くか、ここの子供になるか選べ」と脅したものである。それだけなら何処の家庭にもよくある話だと思うのだけれど、僕には母親に捨てられたという感情が根強く残っていたので効き目は抜群であった。嗚咽を噛み殺して鼻水と涙を垂れ流しながら、正しく息も絶え絶えに「ごめんなさい、捨てないで」とすぐに謝った。謝罪の言葉を聞いた母は「すべてを赦します」というような顔も「捨てられる恐怖を覚えさせて申し訳ない」という感情も見せず、ただ無感情に視線を反らして煙草に火を点けてもう一度車を走らせる。明確な赦しを得られたという安心がない僕は殆ど毎回「ゆるしてくれる?」と訪ねたが、返ってくるのは沈黙の要求ばかりだった。しかし大人しく帰宅しても、晩酌で酔った父が待っている。雇っている若い従業員たちを招いている時は気の良い親父を演じていたけれど、そうでなければ酔った父は暴君の様相である。気に食わないことがあれば母や兄を殴り蹴り飛ばし、大きな声で怒鳴りつける。よく聞いたのは「生意気言いやがって糞餓鬼が」及び「このアマ」であろう。流石に第二次性徴も迎えていない僕を殴りつけるようなことはしなかったが、味噌が沈殿した汁物を撹拌するために椀へ箸を差し込んだだけで烈火の如く怒鳴りつけられたこと、寝室を共にしていた兄が殴り飛ばされブラウン管のテレビやコンポーネントが破損する様、殴り飛ばされ鉄製のドアノブに顔を打ち付けて左目を大きく腫らして尚ドアに押さえ付けられた母親の悲鳴。理由は知らなかったがやり過ぎであることは僕の目にも明らかで、理不尽を振るう側と受ける側の図が逆しまになることはなく、父はわかり易く悪し様だった。
勿論家族の皆がいつも僕に暗い感情を見せていた訳ではない。兄や姉は忙しくなければ僕の相手をしてくれたし、父と母は時折僕を何処かへ遊びに連れて行ってくれた。祖母は甲斐甲斐しく家事のほぼ全てを喜んで担い、祖父は仕事帰りに玩具や本を買ってくれることがあった。全て頭に「機嫌が良ければ」が付くし、更に「宗教の用事が重ならなければ」という第二の関門もあったので、実際にどうだったかは別として記憶に残っているのは僅かなもので、思い出の大部分は冷たく、暴力的で閉鎖的で不公平で理不尽で非一般的に思うが。それでも幸せはあったはずなのだ。




