第十話 「気分転換」
『たまにはご飯を食べに行こう』
そう言って家主と私は、坂を下りた所にある小さな喫茶店に足を運んだ。住んでいるボロアパートと同じように木材建築の建物だが、外観からしてこちらの方がずっときれいだ。
街灯に照らされた重厚なドアが、家主の手によって開かれる。
「やあマスター。元気かい」
手を振りながら先を歩く。
丸眼鏡を掛けた、堀の深い顔立ちの中年男性が目を細める。
「久々だねぇ。相変わらずだよ」
整われた髭が鼻息に揺れる。
「珍しいね、君が誰かと来るなんて」
マスターはぺこりと頭を下げて、カウンター席に手を指した。厚みのある机に、重すぎて片手で動かしづらい椅子。端に置かれた調味料も含めて、木目調の店内に合っていた。
「ふふふーっ。実は僕のいもうとー」
「違います」
にこやかに冗談を言う口を制する。
『ほほほ』と目を細めながら、メニュー表を差し出してきた。マスターは雑談しながらも布巾でグラスを磨く手は止まらない。
オムライス、ナポリタン、サンドウィッチと、並べられた項目は喫茶店そのものだった。
おごりなのか、これは。
ちらりと家主を見やる。
「サンドウィッチとクリームソーダとプリンを二つずつね」
家主が身を乗り出してマスターに注文した。
なんだ、初めから決定権はないのか。なら手渡すなメニューを。
家の時と変わらない態度に、呆れてしまった。
「ほほほ」
メニュー表を横に置き、周辺を見渡す。入口と反対側の方に白黒の絵画が掛けられていた。そして絵画の脇役と言わんばかりに、グランドピアノが添えるようにして置かれている。
実家のリビングに飾ってあったものを彷彿とさせる。
「あれはぁー確か開店記念にくれたんだよねぇ」
食器棚から花柄の皿が出される。
「マスターが描いたんですか?」
「いやまさか。君の横に座っている人だよ」
ああ、やっぱりか。どうりで見たことあると思ったよ。
肝心の家主は、テーブル席に座っている男性客二名に話しかけていた。指をさして声を上げるその姿は、人前でほめられた小学生のようだった。
Tシャツ姿の男性は鼻で笑う。
「ばっかおめー。小田巻総悟がこんなところにいるわけねーだろ」
相席のパーカー姿の男性は会話に混ざりたくないと見えた。
幼稚な家主をほっといて前を向く。
「変わらないねぇあの子は」
あの子、ねぇ。
三十路でも中身がああじゃ、子供扱いなのか。掃除しているときにコロコロと見つかりだした紙幣を思い出す。
「つかぬ事をお聞きしますが、あれは幾らだったんですか」
レタスをちぎりながら口を開く。
「あああれはタダでもらったんだよ」
タダ、なのかあれが。
「タダより高いものはないねぇ」
矛盾したことを言う。
「高いよぉ。ほら」
サクランボがどっさりと盛られた器が差し出された。電球の明かりで宝石のように光り輝いていた。
「もらう代わりに代金は受け取ってないんだよ」
また笑う。
パンに具を挟み、大きく包丁を振りかざす。
「天才だよねぇ」
降り降ろされたように話が途絶える。
「小田巻くん、ご飯だよ」
やいのやいのと騒いでいた家主が目を輝かせる。
「わーい」
飾りと化すピアノに目を向ける。
「あれは娘の習い事用で買ったんだよ」
マスターは『もうお嫁に行っちゃったけどね』と付け加える。
口を大きく開けて咀嚼する家主は指を指した。
「なんか弾いてごらんよ」
図々しいなこの男は。
ちらりとマスターに目配せを送る。こくりと頷かれた。
「私下手だよ」
「いいじゃん」
先ほどまでおもちゃにされていた男二人組は帰っていき、店内には私たち三人だけだった。
光沢のある黒い椅子に腰かけ、鍵盤にそっと指を置いた。




