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ドウヨウ

8月、県大会が終わった直後だった。

顧問の先生に呼ばれたかと思うと、その後ろには見知らぬ男が立っていた。清潔感のある茶色の短髪、真っ白なワイシャツが好印象を与えた。

その男が俺の前へやってきて、俺の両手を握り、目を真っ直ぐに見つめて言った。


「初めまして。僕は『練馬東高校』のサッカー部、スカウトを担当している永山と申します。とにかく、大会お疲れ様でした。大活躍でしたね!」

見た目のまま、営業マンのようにずいずいと押し寄せてくる彼にひきつった笑顔をつくる。こういうタイプの人は、あまり得意ではない。

「ありがとうございます…それでも、ベスト8という結果には物足りない気もします」

「そうですよね。そこでです、もっと強い学校でサッカーをし、より高みを目指す気はありませんか?」

永山は必死に俺へ問いかけた。目を見ただけでその情熱が伝わってきた。


「つまり、僕へ東京に来てほしいと?」

「飲み込みが早くて助かります。それで…」

「いきなりは決められません。時間をください」

冷淡に、そう言い放った。

俺は慎重に考えたかった、裏を返せば優柔不断とも言える。

「相変わらず冷静だよな、お前は」

先生は困ったように笑う。永山は振り返って笑い、再び巧へ顔を向けた。

「それでは、決まったらここへ連絡してください。いつでも君を待っています」

差し出された名刺をポケットへ仕舞い、会釈して去る永山を見届けた。


特別強くなりたいとか、プロになりたいとかは考えておらず、ただ楽しいからと言う理由で漠然とサッカーをしていた。想いがそのままなら、強豪へいく意味はなかった。

それでも、彼女は言っていた。


『いつか巧がプロになったら…全試合応援に行くからねっ!』

きっと冗談だったかもしれない、冗談だ。彼女の顔を思い出すと同時に、大事なことに気がついた。


俺が東京に行くとしたら、彼女はついてきてくれるだろうか?


答えはなんとなく分かっていた。

きっと彼女は、できない。

どんなに想っても、頑張って通おうにも、彼女には彼女の家庭事情がある。厳格な家庭でこそないが、そこまで彼女の自由を許してくれるかといったら、それは分からない。

それでも俺はどこかで、彼女を失うことを怖がっていた。

幼馴染みであろうと、いつか別れる時がくる。それは突然やってくるものなのかもしれない。現に今、その時がじわじわと迫ってきているのである。

彼女に応援されるために、彼女から離れる。

俺は、何がしたいんだ?


「…み」

「…た…?」

「巧、生きてるか?」

ハッと気づくと、前の席でハンドルを握る母がこちらを向いて話しかけていた。

「な、なに?」

「スカウトされたんだよな、快挙じゃんね!」

弾ける笑顔のお手本とでもいえる笑顔で、俺へ言った。

「そうだね…でも、少し考えたいんだ。勢いで決めたら、絶対後悔する気がする」

神妙に話す巧に、母は大声を張って笑った。それにムッとして、少しイラついた口調で言った。


「俺は真剣に考えてんだよ!」

「悪いわるい、アタシと柊真の子が、どうしてこうも頭の回るやつかって思っただけだよ。理由はだいたいわかるけど」

「理由?」

単純に母へ問うと、なぜわからない?という顔で話を続けた。

「どう考えても光でしょ?あんな自由人が常に隣にいたから、お前は冷静になった。そういうことでしょ?」

「…」

俺の沈黙を無視して、母は続けた。

「それで、悩む理由も光でしょ?」

…なぜわかった、俺の頭の中にでも侵入したのか?

いちいち鋭い母にはいつも驚かされる。

「…そう、かもしれない」

「どうせこのこと、光には言わないんでしょ?」

「そうだね、でも…覚悟を決めるのは、今しかない。そんな気がするよ」

歯痒くも、彼は自分の夢を追うことを選んだ。渡された番号へ電話をかけ、一度学校へ趣き、心の準備を済ませた。はずだった。


バターンッ!

背後から大きな物音が聞こえ、慌てて振り返った。その先には、呆然と立ち尽くし、鞄を落とした光の姿があった。

「ひ、光…聞いてたのか?」

彼女は答えない。答えられない。

思考が止まったかのようにまったく動かなかった。恐る恐る近づくと、彼女の目には涙が溜まっていた。

「こ、これは…」

「……バカ。」

たった二文字だけを残し、彼女は走り去っていた。

その二文字は、今まで彼女から喰らった数々の蹴りや拳、関節技よりも痛かった。言葉の矢が、彼の身体に重く突き刺さった。

そしてまた、彼の思考も止まった。





「バカ…バカ……バカッ!!」

巧のバカ!何で言ってくれなかったの?

何で私に相談してくれなかったの?

何であのとき、微妙にほのめかしてきただけだったの?


どうして私から離れていっちゃうの?


落とした鞄も忘れて、彼女は一心不乱に走った。足が痛くて、涙が止まらなくて、息が切れて。

辛かった。これはただ走っているからではない、現実を突きつけられた痛み。大事な存在を失う痛み、正直考えてなどいなかった。

こんなにも早く巧が、大好きな人が隣からいなくなってしまうなんて。

もしあそこで聞かなければ、彼はきっと何も言わずに去っていっただろう。

私を置いて、自分の夢を追うんだ。

背中くらい、追わせてくれてもいいじゃない…

もっと傍にいさせてよ、巧…


家へ着くと、ママが目を見開いてこちらを見ると、恐る恐る歩み寄った。

「光…?どうしたの、そんなに息切らせて…泣いてる?なにか嫌なことでも」

「ごめん、今日はご飯いらないや」

ママをすり抜けて、階段を上がっていった。

ママは小さくなっていく私の背中を、ただ見つめていた。

こんなに思いつめている私を、見たことがなかったから。なんと声をかければいいか分からなかったから。

何もかもやる気になれなくて、気分は重くなるばかりで。自然と、涙が零れ落ちた。





コンコンッと、ドアがノックされる音が響いた。返事らしき音は聞こえない。

「光…起きてる?ご飯持ってきたわよ…入るね?」

恐る恐る扉を開けると、そこには明かりがついていなかった。そして正面には、ベッドに横たわってまったく動かない光がいた。

制服のまま、飛び出した狐の尻尾は無造作に投げ打たれ、ベッドへ項垂れている。


「…何があったの?話せる?」

「…」

盆に乗せられた夕食を机に置き、隣へ腰掛けた。

すると光が、僅かに頭を動かして、言った。


「…ママは、知ってた?」

「なにを?」

「巧が…東京に行くって…」

光の問いの意味を察するとともに、ぎゅっと唇を噛み締めた。

「巧くんがね、光には言い出せなかったんだって。ショックを受けるんだろうなって」

「…巧は、ずるいよ。私を置いてくなんて…」

「そう言わないで、さっき鞄を届けにきくれたのよ?だから許して…」

「私に、相談してくれなかった!なんでよ!今までずっと…ずっと一緒に…」

突然上半身を起き上がらせ、そこまで叫んだところで、台詞が途切れた。


何も言えなかった私は、ただ光を抱き締めた。このまま飲み込んでしまいそうなほどに、深く、深く。

握られた拳は小刻みに震えていて、静かにすすり泣く声が聞こえた。金髪混じりの黒髪を手で解し、小さな頭を撫でる。顔こそ見えていないが、微笑んで優しく呟いた。

「ごめんね、光以外は知ってたのに…気が遣えなくて、ごめんね…」

それに僅かに、頭を左右に揺らした。

「大丈夫だよ、だって巧は頑張りにいくんだよ。応援するんだ、応援しなきゃ…いけないのに…つらいよ、苦しいよ……」

再び力が入る。光にも力が戻り、行き場のない悲しみを音にして、切ない音色を奏でた。





翌日、隣の教室を覗くと、そこには空いている席が一つあった。いつもいるはずの、少し騒がしい少女がいなかった。

「やっぱり、今日はいないか…」

「おい巧〜お前光ちゃん泣かせたらしいな?」

数人の男子生徒が、けらけらと笑いながら俺の背中を叩いた。

「なっ…まあそうだけど、いろいろと事情があってだな」

「あんなにラブラブしてたのに?」

「ラブラブはしてねえよ!!」


傍からはそう見えているか…無理もない、彼女は誰に対しても距離は近いが、俺には一層近づいてくるのだから。

そんな存在が今日、初めて学校を休んだ。クラスにも相当な動揺があったらしい。

俺だって今日は眠れていないんだ、昨晩家に行ったはいいものの、話す勇気がなかったくらいだ。


「直接言えず終いばっかり…俺って情けなえな」

心の中でそう呟き、窓の外を眺めた。青々とした空に浮かぶ雲を、ただぼんやりと目で追う。

受験が終わって、部活も終わって、光との楽しい時間も…一体俺には何が残るのだろう?

「おい相河!ぼーっとしてんな!」

はっと我に返ると、眉間にシワを寄せて教壇に立つ先生と、他の生徒の視線を感じた。

「す、すいません…」

「浮かれてんのか知らないが、授業はちゃんとやれ」

軽く叱られ、気持ちが少し引き締まる。いつもなら。

やっぱり授業に集中できない。このまま言えず終いでは、きっとずっと引きずり続けるだけだ。


行こう、そして真っ向から話すんだ。

真柴 光と。

大好きな幼馴染みと。





「どっどうしよう…」

光は布団にうずくまって、頭を抱えていた。

理由は、勢いで休んでしまったこともある。しかし彼女にはもう一方が重要だった。


「皆勤賞がなくなった!!!」


おのれ巧…絶対に許さん!

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