阿波の国 ― つるぎ町
山に踏み入った瞬間、幻術が彼らを包み込む。
外界は遮断され、電子機器すら歪められる。
霊気と妖気が絡み合い、露となり夜の闇に溶けていく。
地中の奥で、地脈の鼓動が低く鳴る。
その響きは静寂を裂き、鼓膜を突き破るほどの圧を帯びていた。
蛍の光だけが、妖しく宙を舞っている。
セシルとルクジムが到着したのは、午前零時を過ぎた頃だった。
静けさが耳を刺す。幻聴が聞こえるような錯覚に陥るほどだ。
町とはいえ、民家の数は少なく、灯りもほとんど見当たらない。
「山に登るしかないな。妖気の匂いが強い」
ルクジムが低く呟く。
「ここからは出たとこ勝負ですね」
セシルが後ろから応じる。
互いの存在が、無限の力を抱かせる。恐怖という言葉は、もはや彼らの辞書にはなかった。
「ネットの環境は良くねえな」
スーマの画面には、通信不能を示す×マークが浮かんでいた。
静かに、山へと踏み入る一行。
疲れはない。
だが、意識がぼんやりと霞む。
かれこれ数時間は歩いている。
周囲の景色がまったく変わらないことに、ルクジムが気づいた。
「同じところをぐるぐる回ってるのか?」
セシルとスーマに視線を向ける。
「いや、マップ上では間違いなく山中を進んでる」
スーマが答える。
「何かがおかしい。感覚を上げるんだ」
セシルが険しい声で言い放つ。
その瞬間、視界が歪んだ。
天地の感覚が、ぐるりと入れ替わる。
「こ、これは……幻術か!?」
真紅の瞳が鈍く光り、セシルの表情が険しくなる。
「感覚が、すべてを否定している……!」
ルクジムが爪を握りしめる。
獣の鋭敏な本能が、周囲の風景を偽物だと叫んでいた。
「マズい!通信だけじゃなく、GPS座標まで捻じ曲げられてやがる!完全に外界から遮断された!」
スーマの画面が警告の赤色に染まる。
セシルとルクジムは力なく倒れていく…
どれほどの時が流れたのか。
……セシルが目を覚ます。
頭の奥に、遠い鐘のような響きがまだ残っていた。
視線を動かすと、隣にはルクジムが眠っている。
左手には、スーマの冷たい感触があった。
「幻術にかかったあの時、我々は気を失ったらしいですね……」
セシルは低く呟き、周囲を見渡した。
広い板張りの空間。
奥には仏像が鎮座し、まるで神殿のような荘厳さを漂わせている。
行燈の明かりが揺れ、壁に長い影を投げていた。
その影は、仏像の穏やかな表情を、一瞬、恐ろしい鬼の形相へと歪ませた。
やがてルクジムも目を開けた。
「ここは……?」
スーマの電源が点き、画面がぼんやりと光る。
「電源が落ちてた……? 外部から遮断されたか?」
セシルが小さく頷く。
「幻術が、電子機器にまで干渉した可能性がありますね。」
その瞬間、空気が微かに震えた。
……気づくと、背後に三つの影が立っていた。
「誰だ!」
ルクジムが即座に身構える。
「近くには、俺たちとあの三人だけみてぇだ。」
スーマの画面が黄土色に変わる。
揺れる灯に照らされた三つの姿――
ひとりは鳥の顔に翼を生やした人型。
ひとりは年老いた狸の顔の僧衣姿。
そして最後のひとりは、赤い肌に二本の角を持つ大男。
どれもが、人ではない。
その容姿、雰囲気、匂い――。
リバース(異能者)としか思えない、異界の気配を纏っていた。
セシルは、吸血鬼の祖の記憶を辿りながら低い声で呟く。
「これは、我々が知るリバースの系統ではない。…土着の神、あるいは妖精の類いか。極めて古い、妖気だ。」
「つるぎ町 ― 龍の心臓・守護者」へ続く。




