第三十五回 月の妃、その重み
玲と雪瑜は実質的な皇后と見なされているが、これがどれほどの権力のあるものか示す逸話がある。
何らかの催しがある度に新たな衣裳が届けられ、それどころか特に用がなくとも、玲や雪瑜が望めば望んだ錦の衣裳が注文から僅かな期間で届けられるのを不思議に思った玲は、後宮では妃嬪の召し物を織り上げる為にどれくらいの工人が働いているのか、護景に尋ねたことがある。
曰く、「まだ不十分でございますが五百人ほどでございます」と護景は答えた。
なるほど、後宮には三千人もの妃嬪がいる。それだけの人数の衣服を織り上げるとなれば、それほどの人数になるのだろう、と玲はうなずいた。
護景、続けて曰く。
「もうすぐ三百人ほどを追加する予定でございます。それでもって一応織繡の工人は十分な数になるかと存じます」
「八百人ですか」
「はい。玲様に四百人、雪瑜様に四百人でございます」
「ん?」
返答に違和感を覚えた玲は首を傾げた。
「私たちの担当だけで八百人……?」
「はい」
「……」
改めて今いる立場の重みを思い知った玲は、絶句して何も言えなかった。
また織繡の工人ほどの数ではないが、月巧妃が身に着ける装身具を作る玉作人や細工師などは別に存在する。
皇帝が万民の頂点に君臨するのと同じく、月巧妃もまた実に多くの者の上に立っていた。
それほどの権力を持ちながら、嫦娥宮の一角にある玲の私室(雪瑜とは別の部屋である)は質素でどこか侘びしい雰囲気に包まれている。
月巧妃に侍る宮女・宦官の数も膨大だが、玲の部屋に近づけるのは玉蘭と護景などごく限られた数名だけだ。
玲は自分の身の周りのことは自分でやると言って、多くの人間を自分の生活スペースに近づけさせなかった。
皇帝に迫られた玲は、逃げるように部屋に向かう。
部屋に近づく一歩ごとに人の気配が消えていく。
今は誰にも会いたくない気分だ、と思っていたが、途中で玉蘭が出迎えた。
「玲様、お帰りなさいませ。どうでしたァ、宴会? 楽しかったですか~?」
玉蘭はいつも通り若干馴れ馴れしく話しかけてくる。
そして一瞬で玲の様子がいつもと違っていることに気付いた。
「あれぇ? どうしたんですか? 何かありました?」
「いや、別になにも……」
玲は声を振り絞ろうとしたが、まだ動揺していた玲の声はあっさりと玉蘭の声にかき消された。
「まあここは寒いですし、中でゆっくり聞きますよ」
と、玉蘭は零の手を握った。
「わっ冷たい!」
玲の手を握った玉蘭が声を上げる。
「月巧妃様をこんなに冷やしてるなんて、外の侍女は何やってるんだ!」
ブツブツと文句を言う玉蘭に引きずられるようにして、玲は私室の扉をくぐった。
「ちょっと待ってくださいよ~っと」
玉蘭は湯気の立つ熱いお茶を淹れて玲に差し出しす。
「で、どうしたんですか? 武挙か宴会で何かあったんですか?」
妃と侍女というよりも、友達同士のような気軽さで玉蘭は尋ねた。
「いえ」
「……陛下と喧嘩した?」
心の中を言い当てられた玲は、ドキッとして手に持っていたお茶を零しそうになった。
思わず口調も素に戻る。
「なんで分かったの!?」
「正解だったんですか。半分勘で言ったんだけど」
「じゃあ、勘じゃないもう半分の根拠はなんだったの?」
「そりゃあ人の悩みなんて仕事のこと、将来のこと、人間関係の三つが大半なんですよ。そのどれか言えば当たるんです」
本能的に世事に通じている玉蘭は、あっけらかんとしていった。
「それに玲様と雪瑜様がそこまで気にする相手は陛下しかおりませんから」
そういって玉蘭は一つの歌を口ずさんだ。
「我哭泣時、你受傷了……因為你和我是一樣的……」
私が泣くと、貴方は傷つく。私たちは同じものだから。
それはかつて玲と風演が作った心對心という歌の一節だった。
「言いたくないなら、無理にとは言いませんが、私で良ければ相談に乗りますよ。ただ一つ言っておきますが、玲様がそこまで気にしてるなら多分……陛下も凄く気にしてると思いますよ。あの方は繊細ですから」
玲は観念したように、ふう、と一拍深呼吸した
「……これから話すことは決して誰にも言わないと誓っていただけますか?」
「勿論ですよ、玲様。まだこの仕事辞めたくないので!」
そして玲は自身の胸に込めていた思いを吐露した。
宗靖のことを話し、自分がまだ彼に惹かれていることを打ち明けたのである。
つらつらと話していくにつれ、玲の声が震えはじめた。口に出したことで恐怖が増幅したのだ。
「つまり、玲様はまだその宗靖という方のことが好きだと」
「……はい。私はずるく淫らな女です。恐れ多くも陛下に対して二心を抱いている……」
聞き終えて、玉蘭はふむふむと頷いた。
「……それで陛下のことは嫌いなんですか? もしくは迫られて嫌いになったとか」
「まさか! 恩を感じこそすれ憎むなど!」
自分が人々がうらやむような生活をしているという自覚はある。また実家である欧陽家も陛下の思し召しにより富栄えていると聞く。
憎むことなど私には無理だ。それに深い教養と芸術に対する高い感受性を持つ風演とは、純粋に会話をしていて楽しい。しかもそのような時間は徐々に増えていた。
ただ、あの瞬間だけはどうしても無理だった。
皇帝の妃である以上は、皇帝の求めに応じるのは当然である。だが、それができなかった。
陛下のおかげでこのような富貴な生活を送っているというのに……。
その自責の念が玲を苦しめていた。
「陛下は問題ではありません、私が悪いのです」
「……ちょっと失礼します」
玲が俯いた瞬間、玉蘭がスッと立ち上がって、ぐりぐりと玲の肩を揉みほぐした。
そして友人同士がじゃれる様に馴れ馴れしく声をかける
「玲ちゃん真面目過ぎる~。この私が一つ一つ教えてあげるから聞きなさ~い」
「は、はあ」
「まずねえ、誰だって気分が乗らない時ってのはあるのよ。一度断ったくらいで気にしない気にしない!」
「しかし陛下は日々帝業の重圧に……」
「だから気にするなって! 焦螟様はゴチャゴチャいうかもしれないけど、陛下がそう思ってるとは限らないでしょ」
「しかし陛下も少し悲しそうに見えました」
「そりゃヤろうって誘って断られたら誰だってションボリするでしょ。それだけよ。陛下は雪瑜様にべた惚れなんだから、玲ちゃんが謝れば許してくれるわ」
そこで少し玉蘭は声のトーンを下げた。
「それに陛下はこう、格好つけたがりのところがあるから、しんみり謝れば寛容を見せるわ。間違っても罰したりしない」
「でも……」
「そんなに心残りなら一発やらせてあげればいいだけよ。陛下はスケベなんだから、どうせまたすぐ声かけてくるわ。この世の終わりみたいな顔しなくていいのよ。私の見立ては当たるわよ。ね!」
玉蘭は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「陛下の方はそれでいいとして……問題はその宗靖という人ね。私も探してみるわ。もし宮廷で勤務しているなら探し出して連れてくるよ」
「連れて……って……まさか、そんなことができるのですか!?」
「できますよそりゃ。雪瑜様はいつも勝手に後宮を抜け出して誰かとお会いしてるんですから」
「しかし……そんなことを頼むわけには……」
「なーに言ってるんですか! 玲様や雪瑜様には良くして貰ってるからこれくらいは働きますよ」
「……ありがとうございます」
「お礼なんてとんでもないです。私ン家は玲様のおかげで食っていけてるんですから」
そこまで言って玉蘭は悪戯した子供の様に笑った。
「ね、玲ちゃん。私に話してよかったでしょう?」
「はい……」
「んふ、おやすみなさい。また何かあったら気軽に言ってね」
玉蘭は立ち上がって拱手し、玲の部屋から出て行った。
玉蘭が去ると、玲は一人深く自省した。
外廷、後宮を問わず、この宮廷という場所では皆が己の場所を確保するために戦っている。
天香妃や恵徳妃といった大貴族出身の妃も、玉蘭のような立場の低い侍女も、宦官も例外はない。
その争いは決して美しいとは言えないけど、生きるためには必要なことだ。
自分は今までその戦いから逃げていた。
争いを避け、苦境にある人にを助けているつもりであった。そのくせ自分が嫌だと言って、妃としての役割からも逃げた。
雪瑜に甘えて、嫌なこと、やりたくないことは全て彼女に押し付けていた。
宮廷で繰り広げられる暗闘は醜い。
そこから身を遠ざけたいと思うのは今も変わらない。
だが、それならば伯夷と叔斉(※古代の聖人。武力によって殷を倒した周を否定し、周の粟を食せずと言って隠棲して餓死した)のように、食を絶って潔く絶命でもすればいい。
大昭国の三妃という位に就き、昭の禄を食みながら、嫌なことは全て誰かに押し付け、自分だけは清廉を気取るのは卑怯だ。
そういったところでは、逞しく生きる雪瑜や玉蘭を見習う必要がある。
それからまた玲は宗靖についても考えた。
宗靖もきっと必死で戦っている。いや、誰よりも必死に生きていたのが靖ちゃんだ。
そんな靖ちゃんなら、私が生きるために必死になって行動したとしても……責めるようなことは言わないと思う。
──指は薪を為むるに窮するも、火は博わる。
私もまた生きる為に戦おう。靖ちゃんと再会したときに恥ずかしくないように。
今回で年内最後の更新となります。また、書き貯めの為、次回更新は2025年2月になる予定です。
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それでは皆さんよいお年を!




