第三十四回 指は薪を為むるに窮するも、火は博わる。その尽きるを知らざるなり。
「少し酔いました」
酒宴の途中で風演や石豹らと歓談していた玲は、頬を紅潮させてそう切り出した。
「一旦静かなところで酔いを覚ましたいのですが。少し席を外してよいでしょうか?」
「おおう。構うことはないぞ、玲。休んで参れ。無理はいかん」
「では、失礼します」
風演の許しを得た玲は、そっとその場を離れた。
「こちらです、月巧妃様」
案内されるまま侍女について行く。
その足取りは覚束ない。
酒に弱いのに少し飲み過ぎた、と今更ながら玲は後悔した。
……あれ?
酒で鈍った思考を無理やり働かせて、玲はふと足を止めた。
ここは、どこだろう?
後宮から出る機会が少ない玲は、後宮と以前住んでいた仙遊宮以外の場所について疎い。
「控室はこっちでしたか?」
「ええ、そうですよ」
そのまま侍女に見知らぬ部屋に案内され、心の中では、ここは違うでしょうと思っていたものの、反論する気力も萎えていた玲は、ひじ掛けのある椅子に座って目を瞑った。
心地よい眠りの中で、玲は熱を持った何かが傍に近づいてくるのを感じた。
それは暖かく心地よいものである。
“熱を持ったなにか”は暫くそこに留まっていたが、やがてそっと玲の傍から遠ざかっていく。
「あ、待って……」
一瞬、懐かしい香りがした。
ああ……この匂いには覚えがある……待てよ。
その瞬間、玲は微睡みから一気に目を覚まし、立ち上がった。
目を開けると、そこには自分を案内した、名も知らない侍女が控えている。
「いまここに誰か人が来ませんでしたか!?」
目を泳がせながら、しどろもどろに侍女は答えた。
「い、いえ、誰も来ていません」
「本当に!?」
「えっと……」
嘘である。
玲は知る由もないが、そもそも侍女が会場から少し離れたこの部屋に案内したのも、賄賂を贈ってそうするように頼んだ者がいるからだった。
珍しく顔に青筋を立てて迫る玲の剣幕に押された侍女は、賄賂のことは伏せてその男のことを話した。
「じ、実はさきほど、兵士の方が道に迷った様子でここに入ってきました。本当にそれだけです」
やっぱり!
ここに彼がいたのはついさっきのはずだ。
まだ追い付ける!
玲は急いで道に迷っていたという兵士を追った。
あの懐かしい田舎の匂い。どれだけ時が経っても忘れられない。
冷え切った私を優しい熱さで癒してくれた人。
姿を見ていなくても、彼のぬくもりを間違うはずがない。
きっと……いいえ絶対、さっきまでここに居たのは靖ちゃんだ!
玲は単身広い宮殿の中で幼馴染を探し回った。
だが、宗靖は見つからない。
そのうち、他の者に姿を見られ、玲は何度も声を掛けられた。
「おや、月巧妃様お一人でいかがなされた? 道に迷いましたか?」
「……酔い覚ましに少し歩いているだけです。お気になさらず」
まさか他人に、かつての許嫁が来ているのかも知れないと言うわけもいかず、その度に玲は誤魔化して捜索を続けていたが、皇帝の愛妃である月巧妃が一人でウロウロしているなど不審極まりない。
しばらくしていよいよ誤魔化しきれなくなった玲は、しぶしぶ酒宴の行われている会場へと戻った。
その際も、もしかしたら武挙の合格者の中に靖ちゃんは居るのかもしれない、靖ちゃんなら武科挙でも文科挙でも受かるはずだ、とさりげなく顔を見て回ったが、やはり宗靖の顔はなかった。
玲は先ほど自分を案内した侍女を呼んで、色々と顔の特徴を質問したが、いま一つ要領を得ず、思うような返答は返ってこなかった。
宗靖といえば宗靖らしいが、判然としない。
仕方なく、質問の方向を変えた。
「では、その方が何か言っていた言葉がありますか?」
「いえ、部屋を間違えたことを詫びた以外には……あっ、そう言えば去り際に詩のようなものを口ずさんでおりました」
「詩? どのような詩ですか?」
「えっと、えっと『指は薪を為むるに窮するも、火は博わる。その尽きるを知らざるなり』と、このような言葉です」
「指は……」
玲はその言葉を口に出して諳んじた。
「指は薪を為むるに窮するも、火は博わる。その尽きるを知らざるなり……」
力強い言葉であった。
どのような意図の言葉ははっきりとは分からないが、人力の限界を認めながらも、決して諦めぬ意地のようなものを感じる。
口に出して言うと、胸の奥から力が漲って来るような思いがした。
「火は博わる。その尽きるを知らざるなり。良い言葉ですね」
玲は侍女を下がらせると、正体不明の男が残した言葉を胸に、皇帝の隣に戻っていった。
「おお、玲、心配したぞ。先に帰ったかと思ったわ」
と酔いで紅潮した頬の風演がいった。
「申し訳ありません」
玲が席に着くと、風演がいつもより狎れた様子で肩を寄せてきた。
「なに気にするな。へそを曲げて顔も出さぬもう一人の月巧妃に比べたら、なんでもない」
酔いが風演の口をいつもより軽くして、玲を見る視線に熱を帯びさせていた。
だが、隣に座る玲は皇帝の変化に気が付かず、気もそぞろに何度も心の中で例の言葉を反芻していた。
──指は薪を為むるに窮するも、火は博わる。その尽きるを知らざるなり。
「……荘子か」
酔眼の風演が不意にそういうのを聞いて、玲はびっくりして振り返った。
「え?」
「今のお前の言葉だよ。荘子、養生主篇・第六」
「あっ口に出してしまいましたか。さきほど誰かが口にしていたのを聞いて、気になっていたのです。そのような論旨の言葉か、陛下は御存知ですか?」
「いや。分からぬ。なにせ養生主篇第六はその一節しかないのでな。解釈を巡って学者たちの間でも意見が分かれていたはずだ。ま、誰にも分らぬ言葉なら好きに解釈すればいいだろう」
「そうでございますね」
酒宴の上座に座りながら、玲の心は別の場所にあった。
新たに羽林軍に入った兵の喜びも、隣にいる皇帝の熱視線も目に映らない。
このどこかに宗靖がきっといる。いるに違いない。それだけを信じ、宗靖が残したと信じた言葉の意味をひたすらに考えていた。
やがて酒宴が終わり、玲と風演は連れ立って後宮へと帰った。
そして共に嫦娥宮に上がったが、同伴するのはそこまでである。これまで風演は決して玲を抱こうとしなかった。
「本日もお疲れ様でございました。お休みなさいませ」
いつものように玲は揖礼し、私室へ引き上げようとする。
だが、この日の風演の様子がいつもと違った。
「今晩は寒くなりそうだ」
と独り言のように、だが玲に聞こえる様に風演は言った。
「陛下?」
「このような夜に寂しく独り寝をすることはあるまい」
そして皇帝の手が、空前の大帝国を掌に乗せる手が玲に迫る。
──い、嫌だ。
玲は背筋が凍るような思いがした。
ほんの少し前であれば、玲は風演を受け入れていたかもしれない。
だが、宗靖がこの近くにいるかも知れない、という考えに至った今、他人に抱かれるというのは酷い嫌悪感を伴った。
玲は恐怖のあまり身震いし声も出せない。
その怯えた様子を、風演は男を知らない故の反応だと思った。
「そんなに怖がらずともよい。私がお前に酷いことをするはずないではないか」
と気遣うように言った。
「……へ、陛下」
玲は頭が真っ白になって、言い訳も思いつかない。やんわりと男女の行為を拒否する言葉などもっと思いつかない。
どうしようもなくなった玲は、ただ縋りつくような視線を風演に向けた。
しばし風演は逡巡していたが、やがて玲の方を見てぽつりと言った。
「お前が嫌なら……無理強いはせん」
その言葉を残して、風演は踵を返した。
ほっと胸をなでおろした瞬間、玲に声を掛けたものがあった。
「月巧妃様……」
玲はぎょっとして顔を上げる。
突如として影の中から出現したように見えたのは、焦螟であった。
いつもは空気のように存在感を消してまるで気配を悟らせないが、皇帝の影と呼ばれる老宦官は常に皇帝の傍にいるのである。
「しょ、焦螟様」
「我が君は昭国の皇帝という重圧から一時でも心休まる場所を求めでおいでにございます。あまり無下にすることは無きよう、この老骨からお願い申し上げる」
「す、すみません。突然のことで」
「拙のような家奴に頭を下げる必要はございませぬ、月巧妃様」
そこまで言って、焦螟は突然話題を変えた。
「宮廷で生きるには城が必要だと、以前拙が申し上げましたのを覚えておいでですか?」
「初めてお会いしたときでございますね、覚えております」
「拙の見たところ、月巧妃様の……いや、玲様の『城』はいまだ不十分に思われます。そのような中で我が君からお声がかかるのは、決して悪いことではございませぬ、よっくお考えくださるよう……」
そういうと、焦螟は滑るように風演の元へ向かって行った。
忘れていた。
自分が篭の中の鳥であることを。
風演と焦螟が去ると、自分の立場を思い出した玲は慄いた。
想いを秘めながら、別の男に抱かれようとするのがこれほど辛いとは思わなかった。
胸の前で右手をぎゅっと握ると、まだ自分が動揺し動悸が治まっていないのが分った。
心が軋み、壊れそうになる。
縋るように、今日一日考えていた言葉を口ずさんだ。
「指は薪を為むるに窮するも、火は博わる。その尽きるを知らざるなり……」
火は伝わる。尽きることなく。
玲はその言葉を信じた。
体を震わせていたものが少しづつ治まっていく。
薪をおく手が窮しても、火が尽きることはない。
代わって恐怖を払拭するように、胸の奥からふつふつと滾るものがあった。
立ち上がり窓の外から空を見上げると、星欄干ともいうべき見事な天の川が輝いていた。




