第二十八回 火眼の視線の先は外へと向けられる
「月巧妃様」
護景が声をかけると、雪瑜はツンと片眉を上げた。
「その名前は不便だな。月巧妃は二人いる……こうして呼ぶときは、今まで通り雪瑜でよい」
そのように言う雪瑜の心の内には、秘めたる高揚があった。
そうとも。月巧妃は二人いる。しかし、大家の下さったこの雪瑜という名前は私だけの物……。
その名で呼ばれるたびゾクゾクして心が満ちるのを感じる。
だが、そんな光悦を外部に漏らすようなことはせず、澄まし顔のまま護景の方を向いた。
「で、どうした?」
「はっ雪瑜様。万事準備が整いました」
「そうか。では行こうか」
雪瑜はそっと後宮を出た。
三妃の一角とはいえ──いや三妃であるからこそ、勝手に後宮を出るのは咎められても仕方のない行為だが、雪瑜の歩むところ、道には誰もいない。
護景を始めとした宦官たちが、目撃者となり得る者を排除していたのである。
常に門衛が詰めているはずの門さえ無人であった。
誰ともすれ違わないまま、雪瑜は後宮に隣接する仙遊宮へと向かった。
そこで人と会うことにしたのである。
──庵室の学士。
そう呼ばれる者たちが皇帝風演の論客として招かれていた。
雪瑜がこのとき面会したのは、その中の一人、魏 澄子という男である。
「お初にお目にかかります、魏先生。私は月巧妃、雪瑜と申す者……。どうぞよしなに」
仙遊宮の一室で魏澄子に出会った雪瑜は、姿勢を正して揖礼したが、対する魏澄子は不快な表情を隠さなかった。
雪瑜の方は見ず、剣のような尖った眼で案内役の護景を睨む。
「どういうことだ、これは。陛下がお呼びではなかったのか?」
「陛下は──」
護景が言い訳しようとしたとき、雪瑜が声を張り上げた。
「先生にお会いしたいあまり、私が嘘を付いてお呼びしたのです。申し訳ない」
「……ではもう用事は済みましたな。私はこれで失礼する」
「お待ちを。少し話でもしていきませんか?」
「話? そんなことをしている暇はないでしょう。月巧妃様こそ、早く後宮にお帰りなさい。こんなところにいることが知れたら、大変だ」
魏澄子はあくまでつっけんどんな態度を崩さない。
頑固者だな。
だが、そう来なくては。と、雪瑜は思った。
「まあそう言わずに」
「拙者にはコソコソと企むように話すようなことは、なにもございませぬ」
魏澄子は強引に帰ろうとした。
しかし、外から細工されているのか、戸が開かない。
「な!?」
「申し訳ない、魏先生」
魏澄子はガタガタと、何回か試してみて、ついに観念したのか振り返って言った。
「……話というのは?」
「陛下のことにございます。知っての通り、いま政の実権は大臣たちに奪われております。これを改善させる方法はないでしょうか?」
「言いにくいことをはっきりと申しますな」
「大事になる前に、はっきりと言わねばならないのです。臣下が専横を振るうのは、乱の前触れではありませんか」
ほう。
竹を割ったような真っ直ぐな言葉に、魏澄子の態度が僅かに軟化した。
そもそも風演が政治に無関心になり、いまのような状態になったのは荒淫が原因とも言われている。
つまり、魏澄子は月巧妃もまた皇帝を堕落させた存在と見ていた。
実際に会って強い芯を持ち、活力ある溌溂とした女であることは、魏澄子にとって意外であったのだ。
「……政治の弛緩を糺すのであれば、上に立つ者がまず手本を見せることでしょう。奢侈を慎むことが威徳を備えることの第一歩かと存じ上げます」
「なるほど。勉強になります」
「それと、規律を守ることを徹底させることです。妃が勝手に後宮を抜け出すなど言語道断! 増してや男と会うとは!」
「先生の言葉は正論です。ふしだらな私は、いつか咎めを受けるでしょう。ご教戒、感謝いたします」
雪瑜は机の上にあった鈴を鳴らした。
チリンチリン、という軽やかな音に続いて、扉の鍵の開く濁った音が鳴る。
魏澄子は軽く会釈をして、さっさと部屋を出て行った。
扉が閉まった途端、護景が気炎を吐いた。
「月巧妃様に向って、なんだあの態度は。身の程を弁えないのにも程がある!」
「別にいいさ。見世物にされたと思ったんだろう。誰だって不快にもなる。それより硬骨なところが気に入った。あの男を大家に推挙しよう。諫臣にはぴったりだ」
「そ、そうですか」
実は雪瑜が庵室の学士と対面で会い、質問を投げかけるのは、魏澄子が初めてではない。
既に何人かの人間に同じようなことをしているのである。いわばこれは、抜き打ちの面接試験だった。
その中で、殆どの者は月巧妃の威光にへりくだったが、むしろ雪瑜が求めていたのは気骨を見せる男であった。
その夜、臥所の中で風演に抱かれながら、雪瑜は二つのことを皇帝の耳元に囁いた。
一つは魏澄子のことである。
「庵室の学士の中では、魏澄子という人が最も剛直だと話に聞きます」
「あいつか……確かにそうだが私は少し苦手だな。小うるさい」
「側に置くのはそんな人間の方がいいのですよ」
「なぜだ?」
「良薬は苦いもの。口うるさいのは忠義の表れではありませんか。そういう人間がいざという時に役に立つのです。是非諫官として用いて下さい」
「……お前がそういうのなら試してみよう」
「ありがとう、大家。ついでにもう一つお願いが」
「なんだ?」
「もうすぐ行われる秋の狩りに、私もついて行きたいのです」
「狩りに? 別に構わんが、どうしてだ?」
「月巧妃になった祝いに石豹将軍に北の良馬を頂きました。折角貰ったものですから、乗ってみたいのです」
「……あやつめ、いつの間にそんなものを」
そう言ってはいるが、風演の言葉は優しかった。
辺境で活躍するひょうきんな将軍は、皇帝の権威を圧迫する中央の廷臣よりも好ましかったのである。
「分かった。いいだろう」
「やった! さっそく乗馬と弓の練習をしなくちゃ」
「おいおい、まさかお前も獲物を射る気か?」
雪瑜は少しだけ子供に戻ったような口調で言った。
「狩りに行くんだから当たり前じゃないですか。見てるだけなんてつまらない!」
「それはやめてくれ。お前に怪我でもされてはたまらん」
「だから怪我しないように練習するんでしょう?」
「それは、そうだが……」
「そうだ、大家も付き合ってくれたら嬉しいな。美術品を眺めてばかりいないで、たまには体を動かしましょう!」
「う、う~。気は進まんが雪瑜がそういうなら……」
翌日から雪瑜は暇を見つけては渋る風演の袖を引っ張って、皇帝所有の御苑へ馬を走らせ、そこで弓射の訓練を行った。
「それ、それ! ははは、大家、競争しましょう!」
「おい待て、雪瑜! 止まれ!」
「止めてみてください! さもなくば雪瑜はどこかへ行ってしまいますよ!」
外に出て馬に跨った途端、雪瑜は子供っぽい無邪気さと快活さを見せた。
馬を目いっぱい飛ばして木立の中に突っ込み、風演をハラハラさせたかと思えば、力いっぱい弓を引き、獲物に見立てた的を射って、見事に命中させると両手を上げて喜んだ。
普段雪瑜の中に眠っている行動力が爆発したかのようだった。
後宮で陰謀を企てたり、妖艶な舞で皇帝を誘惑した雪瑜とはまるで違う一面である。
結局、一日中付き合わされた風演の方がクタクタになっっていた。
馬上でゲッソリとしながら風演が言う。
「本番では、もっと、大人しゅうしてくれよ……」
「ええ、分かっておりますとも!」
「本当に分かっているのか……」
「ええ。田舎にいた頃のようで、少しはしゃいでしまって。今日は騒ぎすぎました。申し訳ありません」
「……」
風演は馬体を雪瑜の近くに寄せた。
「雪瑜よ、以前の生活に戻りたいか?」
「大家も一緒に来ていただけるのなら、戻るのもまあいいでしょう」
「私も!? はっはっは。それは無理だ! はっはっは!」
ひとしきり笑った後、風演は肩を回し、体のあちこちをさすった。
「やれやれ、明日は体中筋肉痛だ」
「ふふ、大家はもう少し普段から体を動かした方がいいんでしょう。旬日に一度は私とこうして出かけませんか?」
「ああ……考えておく」
「是非。あっ大家!」
雪瑜は人差し指を口に当て、声を出さないようにジェスチャーした。
「どうした?」
小さな声で風演が尋ねる。
「あそこにウサギがおります」
「えっ?」
雪瑜が指差した場所を見ると確かに木に隠れるようにして、チラチラとウサギが顔を出している。
「ちょうどいい。今日の練習の成果を試す時だわ」
風演にはその場にとどまるように言って、雪瑜はそろりそろりと音をたてないようにウサギの方へ近づいた。
それでも位置関係は相当に悪かった。
ウサギの体の大部分は木に隠れていて、狙いずらい。
──それが、どうした。
びゅん、と風を切る弓鳴りの音が鳴って、兎の鮮血が流れた。
小さな獲物がその場に倒れると、ちょっとした歓声が上がった。
「お、お見事!」
「やるのう、雪瑜! 流石我が娘子将軍よ!」
「いや~マグレのようなものですよ……ん?」
照れながら雪瑜は頭を掻いた。
しかし、射止めた獲物がもって来られると、真顔になりそれをじっと見つめた。
「どうした雪瑜?」
「この兎、耳が小さくありませんか?」
「ん、そう言われてみれば」
「顔も心なしか兎ではなく豚に似ているような……」
「そうか? うーむ、雪瑜が言うならそうなのかも知れんな」
「……そこの貴方はどう思います?」
「えっ、私ですか」
雪瑜はさらに風演の傍に居た者にも尋ねた。
起居注という役職の者で、皇帝の言動を記録する記録官であった。
「ま、まあ言われてみれば、そうと言えないこともないような」
「でしょう、でしょう。では、そのように記しておいて下さい」
最後に、不思議なやり取りの一幕もあったが、別段事件が起こるわけでもなく、一行は都へ引き上げた。
カポカポと馬蹄の音を鳴らしている影は、沈みゆく夕日に照らされて、長く長く伸びていた。




