第二十七回 マーブル
「やはり天香妃様の消息は掴めませんでした。南の生国に行くという名目で後宮を出たので、そちらの方面を探らせたのですが、それらしき一団は見かけなかったと」
護景の報告を聞いた雪瑜は自分の額を軽く押した。
改めて天香妃を逃がしたと思い知らされると、悔しさが込み上げる。
──あの女はこの手で八つ裂きにしたかった。
だが、顔を上げた雪瑜は動揺を隠して淡々と告げた。
「伊宰相にまんまと一杯食わされたようだな。少し正直すぎだ、護景」
「はっ。申し訳ありません」
「過ぎたことは仕方ない」
「引き続き、調査を続けます。必ずや──」
「いや、もういい。話に聞くと、天香妃は薬で眠らされて運び出されたそうだ。奴自身すら自分が行く先は知らないだろう。知ってるのは伊宰相とほんの数人の側近だけのはずだ」
そこまで言って、雪瑜は足を組み、椅子の背もたれに寄りかかった。
雪瑜がそうしていると、豪勢とは言えない椅子が、まるで皇帝の玉座のようである。
「何処に行ったのか探るのは難しい。だが、ともかく天香妃は消えた。いまのところはそれで満足しよう」
有力な二人のライバルたちを蹴落とし、これで完全に彼女は後宮の主となった。
月巧妃 雪瑜。このとき、まだ十九歳。
あまりにも若い支配者である。
その二十歳にも満たぬ彼女に、多くの者が屈服していた。
ところが。
若き月巧妃の支配を疑う者が後宮に一人だけ存在していた。
それは雪瑜自身である。
──もっとだ。もっと。
いま手にしているように見える力は、虚栄だ。私はここまで来たのは、全て大家の恩寵があればこそ。
さらに、焦螟殿も外部の干渉を防いでくれていた。どちらも私の力ではない……。
これからは、本物の力を手に入れなければならない。大家に因らない力、私自身の力を。
そうしてこそ、大家を支えられるというものだ。
田舎娘の欧陽玲しか知らない人が、月巧妃として後宮に君臨しているのはその田舎娘だ、と知れば驚嘆するだろう。
彼女は雲に梯子を掛け、天に昇ったのだと羨むだろう。
だが、権力という名の石段を歩み続け、後宮という山の頂に立った雪瑜は別の物を見た。
頂きと思った場所から見えたのは、聳え立つさらに高い山々の姿である。
権力という石段は果てがない様に見えた。
「……」
大臣たちは、女が政に口を出すことを許すまい。伊宰相に至っては、娘を放逐に追い込んだ私を恨んでいよう。
それでも、断固として彼らと戦わねばならぬ。
ここからが本番だ。
その為にはまず……玲を何とかしなければ。
雪瑜は私室に籠り、護景や玉蘭に席を外させると、自分で熱いお茶を淹れて飲んだ。
「ふう」
そして声を出さずに、自分の内側に居る玲へと呼びかける。
『玲、玲……出てきてくれ。腹を割って話そうじゃないか』
中々、反応はない。
雪瑜は辛抱強く、もう一人の自分へ懇願するかのように呼びかけた。
『頼む。もう天香妃の命は諦めた。お前の勝ちだ』
『……』
『まだ何かあるのか?』
『……別に。ただ、あなたがこうして下手に出ているのを見るのは、とても気分がいいわ』
玲の口調は刺々しかったものの、ようやく反応が帰ってきて、雪瑜は少し安堵とした。
『流石私の片割れだ。いまの言葉はまるで私のようだったぞ』
『それは嬉しくないわ。それで何の用?』
『その前に、まず謝らせてくれ。私はずっとお前を甘く見ていた。すまない』
『そ。一々言わなくても知ってるわ。あなたは私の都合なんかお構いなし。いつもそうだった』
『だが、今回思い知らされたよ。それは間違いだったとな。天香妃に警告したのは、お前だったそうじゃないか。全く気が付かなかったぞ。見事だ』
『ええ。あなたは隙だらけだったわよ』
憎まれ口を叩かれても、雪瑜は笑って答えた。
『んっふっふっふ。お前は凄い奴だ。この私を止められるとしたら、それはお前だろう。お前に比べれば、カラブランの瞳などは問題にもならん』
『……今日は嫌に持ち上げるわね。今度は何を企んでいるのかしら』
『何も企んでいない。最初に言った通りだ。腹を割って話そう』
『なにを?』
『つまりだな、これからは協力しないか? 足を引っ張り合ってもしょうがないだろう』
『ふっ。ハハハハハ!』
今度は玲が笑った。それも嘲るような調子で。
『無敵の雪瑜サマもついに泣きが入ったわね。あなたからそんな言葉が聞けるなんて思わなかったわ!』
『言っただろう。お前はカラブランの妖術などより、よっぽど凄いと。泣きも入るさ』
『ふん、お断りよ! いままで散々好き勝手やってきたのは、あなたの方じゃない! それを今更! 私は私でやらせてもらう!』
『これまではそれでもよかっただろう。大家や恵徳妃や焦螟殿が助けてくれたからな。しかし、一歩後宮の外に出れば焦螟殿の力も及ばん。最悪、殺されるかも』
『私を脅す気? でも無駄よ。私はそれでも構わないから』
『他の者に罪が及んでもか?』
『……!』
玲の動揺を見て取ると、雪瑜は畳みかけた。
『お前は優しい奴だ。あの天香妃すら助けてやったのだからな。そのお前が、自分の為に周囲の人間が罰せられることに、耐えられるかな?』
『そ、それは……』
『仮に私たちが殺されるようなことになれば、当然関係者は連座するだろうな。父を始めとした欧陽家の者は勿論、宗家も危ない。護景や、玉蘭も。彼らがどうなってもいいのか』
『卑怯よ! 他の人たちは関係ない!』
『私に言ってもしょうがないだろう』
『う、うう……』
これまで自分に親切にしてくれた人たちの顔が浮かび、玲は唸った。
自分の意地の為に他人を巻き込むのなら、それはもう雪瑜と変わりないと考えたからである。
『騎虎の勢いという奴だ。一旦虎の背に跨れば、途中で降りることなど許されんのだよ、玲。それはお前の罪ではない』
雪瑜は徐々に論調を和らげ、今度は優しく言い聞かせた。
一度残酷な未来を提示してから、優しくして相手を説得する弁論術の基本である。
『よく考えろ。私たち二人が協力すれば、誰も傷つかなくてすむ。皆が望む物を与える立場になるのだ』
『……』
『他人を差し置いて、自分がそんな立場に立つのは抵抗があるかも知れない。だが、私とお前が協力すれば、誰よりも権力者に相応しい者となる』
玲は意図の見え透いた弁術には乗らなかった。
『……それがあなたの本音ね。あなたの顔に唾を飛ばしてやりたいわ、雪瑜』
そんなことをしても、唾は自分の顔に飛んでくるだけだ。
だが、玲も言わずにはいられなかった。
『やれやれ、それがお前の望みか? ささやかだな』
雪瑜は立ち上がり、部屋の中をゆっくりと歩きだした。
『仙遊宮で言ったよな。夢のような暮らしを現実にすると。いまそれは叶った。見るがいい、この美しい宮殿を!』
雪瑜は玲に言って聞かせる様に、そして自分自身に言い聞かせるように声を強めた。
『私は大家の妻となり、お前とて既知として傍に侍っている。財産は山の様に積み上がり、後宮の者は皆私たちの前に膝を折る! 万人が羨む生活だ。一体何が不満なんだ、玲? お前は何を望む?』
『私の望みは、あなたがメチャクチャにした』
『それは、わざとじゃない……私だってそんなことはしたくなかった』
雪瑜は少し言い淀んだ。
『……』
玲はじっと考え、そして思いを吐露した。
『……やっぱり、根っこの部分で私たちは同じモノなのでしょうね。雪瑜、私の望みは陛下の理想を実現させること。素晴らしい世界をね。つまり……』
玲はしばらく言い淀んだ。
しかし、やがて観念して言葉を口に出した。
『あなたと同じよ』
『なら、何も問題ないじゃないか。私とお前と大家、三人で理想の世界を作り上げるのだ』
『けど、私とあなたではやり方が違う! 協力して欲しいなら、私に合わせなさい! これ以上、血は必要ない!』
『流血を避けようとするお前の心掛けは立派だが、それでは却って血が流れることになるぞ。これまで通り、汚れ仕事は私に任せておけ』
雪瑜は玲を宥めようとしたが、玲の反応は予想外の物だった。
『勝手なことを言わないで!』
『!』
雪瑜は目を丸くする。
『知らない間に陰謀を企まれるのはもうたくさんよ! 雪瑜、企み事は私にも教えて。なにをするかしないかは、二人で決めましょう。そうじゃなきゃ協力はしない。話し合いもこれで終わりよ』
『……お前がここまで私に食い下がるとはな。信じられんぞ』
『あなたの予定と違ったかしら? 残念だったわね!』
『いや、今日のところは我が半身の成長を喜ぼう。私は嬉しいぞ、玲』
『何を偉そうに。それで次は何を企んでいたの? 誰を殺そうとしていたのか教えなさい!』
『私だって四六時中人を殺すことばかり考えているわけではない……他にも検討しなければならないことは、たくさんあるんだ。国のこと、大家のこと、欧陽家の者たちのこと……』
『知りたいわ、全部』
『焦るな、いま教えてやる……』
この日、皇帝自らが戸口を叩くまで、雪瑜と玲は部屋に籠っていた。
書き溜めがなくなってしまったので、更新を一か月ほど休止し、次回更新は11月になります。
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