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第二十六回 破邪の瞳

 宗靖は都から遠く離れた辺境の地に居た。

 千里の距離を隔てて、時折幼馴染の噂が耳に入る。

 欧陽玲と、その内に潜む白猴……いまは雪瑜という名の娘が、後宮に入ったことは宗靖も知っていた。

 もう自分と玲の手が触れ合うことは二度とないだろう。

 しかしそれでも、宗靖は諦めてはいなかった。

 例え二度と触れ合えなくとも、玲への想いは少しも陰りはしない。 

 ──なんとしても、玲の体から白猴を消し去る方法を見つける。


「どうしたのかね、ぼうっとして?」

 宗靖の前に居た道士は首を傾げた。

「いえ。なんでもありません。それで天師殿、その化け物を降伏させる方法はあるのですか?」

 宗靖が相談していたのは、辺境にひっそりと隠居する、老いた道士だった。

 枯れ木のように痩せていて、一見弱々しいように見えるが、動作は機敏で矍鑠(かくしゃく)としている。

 その道士は地元ではちょっとした尊敬を集めていて、天師と称されていた。

「……その娘の体を傷つけずに、か。難問じゃぞ、これは」


 天師は目を瞑って唸った。

「少なくとも、わしには到底無理だな。そもそも、その山首とかいう化け物に打ち勝つことがまず難しい」

「そんな。天師殿ほどのお方でもですか」

「そりゃあそうじゃろ。考えてもみなされ、山首という(さる)は千年も修行を積んだのだろう。そこまでに至った化け物は、並の土地神や城隍神では手が出んようになる。そんな奴を退治できるのは、千年以上修行した者か、天の意思が味方した場合だけだ。精々八十年生きるのがやっとの人間では手に負えん」


「しかし、私が降伏させて欲しいのは山首そのものではなく、その娘に取り付いた妖異です!」

 天師は首を振った。

「同じことじゃ。お前さんの話を聞く限り、山首が千年修業した報いはその娘に引き継がれておる」

「そんな……それではただ天に願うしかないと……? あんまりだ……そんなことは……」

「うーむ。そうじゃなあ。一つだけ、なんとかできるかも知れない方法がある。本当に僅かな望みだが……」

「何ですかそれは!? お、教えて下さい!」

「むか~し、昔な。殷という国がまだ栄えていた頃、殷の朝廷には多くの巫女を召し抱えていた。その巫女たちの目には霊威が宿っており、殷の軍隊が進むところ、必ず巫女たちが先導し、初めて進む未知の土地の妖魔たちの払除を行っていたという」


「は、はあ」

「やがて周が殷を倒し、多くいた巫女たちも姿を消した。だが、その中で生き残っていた一族がいたのだ」

「生き残った……? 不死身なのですか、その巫女は?」

「違う。そうではない。一族の命脈を保ったということじゃ。寄る辺なき身となった一族は、漂泊の巫師となり世界中を放浪するようになった」

「そ、それで?」

「旅を続けながらも、彼女らは巫師としての性質を保ち続けた。新たな地に赴くと、その土地の呪術師や道士の類と交わり、子を()してまた旅へ出る……そうして世界中の呪術師たちの力を、自分たちの一族に組み込もうとしていたのだ。その営為は二千年にも及ぼう。千年修業した山首に対抗するにはこれしかないじゃろう」

「そ、そんな一族が。俄かには信じられません」

「わしも伝説とばかり思っていた。じゃが五十年ばかし前に、出会ったことがあったのじゃよ。その頃のわしは未熟でなぁ、巫師の一族の子を作らさせてくれんかったわ。ひゃひゃひゃ」


「本当に実在するのですか!? では、その一族は今どこに?」

「五十年前は東海を渡った先にある島国に行くと言っていたな」

「では東海の先に……」

「待て待て、五十年も前の話じゃ。漂泊の巫師のこと、いまもそこに居るとは限らんぞ。じっくり腰を据えて探すことだ。案外この近くにいるかも知れんぞ」

「では……その一族について他に手掛かりなどはありませんか、天師殿?」

「うーんそうじゃなあ。手掛かりになるか分からんが、その巫師たちは西域の人間と交わったようだったのう。顔つきが西域人によく似ていた。その一団はのう……」


 宗靖は天師の言葉を一句たりとも聞き逃すまいとして、耳を澄ました。


 ──深目 高鼻。

 目は深く、鼻は高く。


 ──紫髯 緑眼。

 赤毛で、緑の眼をしていた。




 逃がさん。なんとしてでもここで天香妃を捕まえる!

 山野を駆け下る獣の如き速さで、雪瑜は天香妃は迫っていた。

 だが、不意に物陰から現れた何者かが、その前に立ちふさがる。

「おっ!?」

 雪瑜は思わず飛びのいた。

 その人物は有無を言わず攻撃してきたのである。

 一瞬なので雪瑜にも何かはよく分からなかったが、光る何かが襲撃者の袖口に隠れていた。


「月巧妃様。そんなに急いでどこへ行かれるおつもりか?」

 雪瑜は怒りに燃えた目で、己の前に立ち塞がる者の名を叫んだ。

「カラブラン!」

 天香妃の側近は優雅に一礼した。

「そこをどけ! 踏み潰されたくなかったらな!」

「聞けませんな。天香妃様のお命がかかっているようなので」

 緑の瞳を持った女は、激昂した雪瑜にも一歩も引かず、端然としている。

 その様子を見た雪瑜は二の句を告げず、カラブランに襲い掛かった。


 カラブランの袖口から匕首が閃く。

 (かっ)

 刹那、金属と金属がぶつかる音が響いた。

 カラブランの匕首を受け止めたのは、雪瑜が身に潜ませていた鉄扇である。

「叩き殺してくれる!」

 今度は突き上げるように雪瑜は鉄扇を振るった。

 その一撃を受け止めようとしたカラブランは、踏ん張ろうとした足が空を切った。

 体ごと持っていかれ、吹き飛んだのである。

 女身とはとても思えない、恐るべき雪瑜の膂力だった。


 流石、猿神の娘というだけある。

 力では到底敵わない。


 常識外れの怪力に、カラブランは息を呑んだ。

 だが、彼女にはまだ切り札が残っていた。

 (みどり)の眼を瞬かせると、見る者を居竦ませる視線が雪瑜を貫いた。

 ──うっ。

 途端に、雪瑜の動きが止まる。


 体が動かん。

 まるで、見えない鎖で縛されたかのように、体の自由が利かない。

 強制的に動きを止められると、雪瑜の頭が少し冷えた。

 今更ながら、カラブランと出会ったときは不思議なことが起こっていたことを思い出す。


 私も玲も後宮で気を失ったことがあるが、そういえば思い返せばそのときはこいつがいた……!

「そうか貴様、邪視だな!」

「邪視? なにを馬鹿なことを。これは浄眼と申すもの。お前のような化け物を払う目だ!」

「お、おのれ。この月巧妃を化け物と呼ぶか!」


 雪瑜は浄眼に対抗するように赤目でカラブランを睨みつけたものの、それ以上の抵抗は出来なかった。

 次第に意識が遠のいて、視界が暗くなっていく。

 それはまるで精神が黒い嵐に呑みこまれていくかのようだった。

「お、おお……!」

「我が浄眼の前に疾く消え去れ、化け物め!」


 まずい。

 カラブランにこんな力があるなんて想定外だ。

 なにか、あの視線を遮るものが要る……!


 カラブランの浄眼の力の前に、雪瑜は逃げた。

 肉体はそのままに、自分の意識を精神の奥へと退いたのである。

 白雪のような髪が黒髪に変わり、赤々と燃えていた火眼は静まった。


「あ、れ……?」

 きょとんと周囲を見渡したのは、雪瑜ではなく玲であった。

 月巧妃の精神が交代したことに気付くと、カラブランも一息ついた。

「ふう……去ったか」

「え、え? カラブランさんがやったんですか? あの雪瑜を追い払った?」

「はい。私の浄眼の前では、どんな魔性もただでは済みません」

「もしかして、もう雪瑜は現れないのですか!?」

 玲は期待を込め、興奮気味に言った。

 しかし、カラブランは首を横に振る。

「それは、残念ながら……。私の浄眼は人間、特に澄明な心の持ち主には効果が薄いのです。雪瑜は玲殿を盾にして身を退いただけでしょう」

「そうですか……。しかし、驚きました。雪瑜が逃げ出すなんて。こんなことは初めてです」

「どれほど強大に見えても、無敵の存在などありえないのですよ。さて、月巧妃様、随分失礼をいたしましたが、できるならこのまま私を見逃してくれると、さらにありがたいのですが」

「勿論です」

「では、お言葉に甘えましょう。おさらばです」

 カラブランは拱手し、深く頭を下げた。つまり、視線を外したのである。

 刹那、雪瑜が飛び出した。


「なっ!?」

 カラブランが顔を上げるよりも早く、雪瑜はカラブランの背後に回った。

 そしてカラブランの目を塞ぐように腕を回し、そのまま顔を締め上げる。

「へっ油断したな、カラブラン! だが、驚いたぞ。貴様にそんな特技があったとはな!」

「ぐ、貴様……!」

「しかし、その自慢の目もこれでは役に立たんだろう。無敵のものなどない! いい言葉だな! ハッハッハ!」


 雪瑜は哄笑して勝ち誇った。

 だが、カラブランは毅然として言い放つ。

「わ、私の役目はここで貴様を足止めすることだ。その役目は果たされた。天香妃様は今頃都外にいるだろう。私の勝ちだ、雪瑜!」

「……健気だなカラブラン。その精忠は気に入ったぞ。そしてお前の持つ特技は危険だが、役に立ちそうだ……どうだ、ここで命を見逃す代わりに、私に仕えないか?」

「な、なんだと……」

「別に私はお前に恨みなどないんだ。私が殺してやりたいのは天香妃だけ。どうだ? 悪い話ではあるまい。私の元で腕を振るえ」

「二家には仕えん。例え殺されてもお前に膝を折るものか!」

「そうか。ならば仕方あるまい……このまま頭を砕いてくれる」

 雪瑜は一層腕に力を込め、締め付けを強めた。

「く、ぐぁぁ……」

 カラブランが苦悶の呻きを上げる。

 だが。


 雪瑜は自身の腕が小刻みに痙攣しているのに気付いた。力を込めているからではない。逆に力が抜けていく。

「あ……!」

 頭を砕くどころか、あっさりとカラブランは抜け出してしまった。

「な、なぜ逃がす?」

「ち……腕が上手く動かん」

 雪瑜は吐き捨てるように言った。

「なに?」

「玲に感謝するがいい。いまあいつは全力で私の動きを封じている……さあ、もう行け。私の半身に免じて、この場は見逃してやる」

「……」

 カラブランは僅かに躊躇った。

 いまなら雪瑜を殺せるのでは、と考えた為である。

 しかし、もうそんな時間はなかった。

 雪瑜の取り巻きである宦官たちが、ようやく追い付いてきたのである。カラブランはくるりと踵を返し、無言でその場を去った。


 息を切らしながら、護景が雪瑜に駆け寄る。

「や、やっと追い付いた。月巧妃様、ご無事ですか? 何か揉めていた様に見えましたが……」

「なんでもない」

「いま離れていったのは誰です?」

「……気にするな。忘れろ」

「その……では、天香妃様のことはいかがしましょう?」

「そのことも、もういい……」

「そ、そうですか」


 先ほど見せた激情と打って変わって、口数少なく押し黙ったような雪瑜の様子を、護景は恐れた。

 やがて雪瑜がぼそりと呟く。

「なあ護景、私はいま一つ教訓を得たぞ」

「は……。それはどのような物でしょうか」

「根回しはしっかりやれということだ」

「えっ? そのことで月巧妃様に手抜かりがあるとは思えませんが……」

「いや、一人忘れていた。そのせいで今日、大魚を逃したわ」

 雪瑜は天を仰いだ。


 ただの泣き虫だと侮っていた。

 お前がここまでするとは思わなかったぞ。

 いいだろう……玲。お前のことを認めてやる。

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