第二十五回 逐電
翌日、目を覚ました雪瑜は、勝利の余韻に浸りながら、天香妃が口を滑らすのを待っていた。
一言でも余計なことを漏らした瞬間、こちらに寝返った天香妃の侍女が通報する手筈になっている。
玲は見事に雪瑜を出し抜いた、と言えるだろう。
昨夜起こった出来事について、雪瑜は何一つ知らなかった。
嫦娥宮の庭に植えられた牡丹の木を、満足げに撫でて、
「この牡丹が花を咲かせる日が楽しみだな。見事に花が咲いた暁には、これを贈ってくださった天香妃様を招いて、宴の一つでも張って差し上げたい」
などと、分かり切った皮肉を言う始末であった。
ゆったりとした時の流れる雪瑜の周辺に比べ、天香妃のいる花王宮は激震が走っていた。
玲の報告を受けてから、カラブランは大急ぎで後宮を引き払う準備を進めていたのである。
そもそも、後宮を出ること自体、簡単ではない。
当然だが後宮に入った者は皇帝の所有物であり、勝手に移動することは許されないのである。
しかし、いまは道理を曲げて無理を行う必要があった。
まずカラブランが作成したのは、伊宰相への書状だった。経緯の説明と、後宮を脱出したい旨、そのことの助力を訴える内容である。
身内への手紙のため、カラブランは殆ど下書きも何もせず急いで書をしたためると、すぐに伊宰相の元に送った。
返書が来るのはどんなに早くても今日の夜だろうか……。
こちらの危機的状況が、伊宰相に伝わってくれればいいのだが……。
次に取り掛かったのは皇帝に対し、謝罪と申し開きを記した書状の草稿である。
これらの作業は夜を徹して行われた。
急がなければ。
こちらの動きを雪瑜に気付かれる前に。
幸い、お嬢様はしばらく前から体調不良ということになっている。
そして、牡丹を奪われた悲嘆と怒りから、昨日から臥せったままだ。
肉体的にも精神的にも、具合がよくないのは本当だった。
病を理由にして、なんとしてでもこの死地から抜け出なければ。
その日の午後、伊宰相の送り込んだ宦官が花王宮を訪れたとき、カラブランは少しだけホッとした。
素晴らしい動きの早さだ。伊宰相はこちらの苦境を十分に理解してくれたらしい。
「その顔では想像以上に事態は切迫しているようですな、カラブラン殿」
「……面目ありません」
「伊宰相は無双お嬢様を救うため、既に陛下に働きかけております。カラブラン殿は、引き続きここを引き払う準備を進めて下され」
「助かります……!」
あとは時間との勝負だった。
一方、その少し前。
天香妃の父である伊宰相こと伊 玄曹は、カラブランの書状を受け取り、愁眉を寄せていた。
国一番の美人と謳われた天香妃の父だけに、年経ていても美男子の面影を残している。
しばらく書状を眺めていたが、伊宰相は逡巡の後、パッと顔を上げた。
「……一旦、引くか」
それが伊宰相の答えだった。
位人臣を極め、権勢並ぶもののない自分でも、どうにもできないのが後宮の中であった。
あそこには焦螟がいる。
宦官を統率し、常に皇帝の元に侍るあの老宦官こそ、唯一自分に対抗しうる存在だったのだ。
ところが、今に至るまで二人の権力者の仲は、そう悪くなかった。
それは、これまで焦螟が外の政治に口出ししてこなかったからである。
皇帝風演という、権力の源泉を中心に、伊宰相は外廷を、焦螟は内廷をそれぞれ領分とする。
そんな暗黙の協定が二人の間に結ばれていた。
ここで強引に後宮のゴタゴタに乗り込んで行って、焦螟と敵対するのは危険が大きかった。
年齢から言っても、どうせ焦螟はそう先は長くはないだろう。彼がいなくなれば、残る宦官共などは小粒しかいない。
ならば娘が生きてさえいれば、潮目が変わることもあろう。
場合によっては、月巧妃を除く好機もあるはずだ……だが、それは今ではない。
伊宰相には自信があった。
決断すると、彼はゆっくりと風演の元へ向かった。
「潘国公(伊宰相のこと)、どうしたというのだ?」
伊宰相は媚びた愛想笑いを浮かべ、あえて自分が苦境にあることを演出した。
「陛下、娘のことでお話がありまして」
伊宰相の一言で、風演はすぐに思い当たった。
牡丹を巡って天香妃とはかなり激しく言い合い、最終的に強引に移動させた。
花王宮の庭は、ほじくり返されて無惨な有り様だと聞いている。
少し罰を与えたつもりだが、やりすぎだったろうか、と風演は思った。
まさか、あの性格の天香妃が親に泣きつくとは。
「何やら陛下と言い合いになったと聞いております」
「ああ、そのことか。孤も少し大人げなかった。花王宮の庭は修繕させよう」
「それは大変有難うございます。しかし、実はそれだけでなく……」
「まだ何かあるのか?」
「はい。どうも近頃、娘の様子がおかしかったのは病のせいだったようで、だいぶ神経が参っているそうなのでございます。陛下に無礼を行ったのも、恐らくはそれが原因かと存じ上げます」
「病だと? それは気づかなかった。いつからだ? どんな病だ?」
「そう申されると難しいところですが……医者ら話を聞く限りでは、原因は都の風土にあるようなのです」
「風土?」
「は。どうやら母親の生国である南方の風土と水が、娘には合っているようで、こちらの気候はどうにも苦手らしく、この十年来の間の無理が少しずつ祟ってきたとのこと」
「む……確かに、ここ最近の天香妃の様子はどこかおかしかった。そうか、不調を抱えていたか……」
最近の天香妃の精神的な不安定さは、病だと思えば合点がいく、と風演は思った。
否、思おうとした。
風演も雪瑜と天香妃の確執には気づいている。二人の妃の仲が良くないことは、あまりにも有名だった。
もしや、天香妃の癇癪は妬心の混じったものではないか。もっと言えば、雪瑜にも原因があるのではないか。
そう考えることもしばしばあった。
だが、風演はそれを信じたくなかった。
既に風演の心には、雪瑜は理想化された存在として君臨している。
彼女を疑うような真似はできない。
そんなときに投げ込まれた、「天香妃は病気」という言葉は、風演に格好の言い訳を与えた。
病気ならば、しょうがない。
かつて愛した女性に、微かな哀れみを抱きつつ、風演はそう思うことにした。
「しかし、どうすればよいのだ。その病を治すには?」
「土地の風土が合わぬことが原因でございますので、ここを離れるのが一番だと医者は申しております。お許し頂けるなら、しばし娘をどこかに遷し、静養させて頂きたく存じ上げます」
「……」
長い沈黙があった。
このようなことは前例がない。
だが、これはいい機会だなと風演は考えた。体のいい厄介払いである。
やがて、風演は決断した。
天香妃は、皇帝が天香妃へ向けた愛ではなく、皇帝が雪瑜に向けた愛によって、その命を拾ったと言える。
これから送ることになるだろう雪瑜との生活に、天香妃は邪魔だった。
「よい。許す」
「あ、ありがとうございます。娘も喜びましょう」
このようなやりとりが行われていた時、天香妃は自分を取り巻く状況についてまだ何も知らなかった。
自分が後宮を去ることなど露知らず、牡丹を奪った雪瑜を憎み、床の上で呪いの言葉を吐き続けていたのである。
壁一枚隔てた向こうでは、カラブランが引っ越しの作業を進めていた。
その作業の目的を知るのはごく一部の者に限られ、大半の宮女や宦官は、目的も分からずにカラブランの指示に従っていた。
翌日――。
天香妃にとって運命の日となった。
食事を運んで来た宮女の居る前で、天香妃は叫んだのである。
「全てはあの女のせいだ! あの猴めは朝な夕な邪神を祀り、厭勝を行っているそうじゃないか! 陛下、陛下……!」
涙が絡んだ、無念の慟哭であった。
その場に居合わせた宮女は、そっと後ずさり、天香妃の怒りに触れぬよう、静かにその場を離れた。
そして彼女は月巧妃 雪瑜の元に走ったのである。
報告を受けた雪瑜はにんまりと笑った。
「へえ。私が厭勝を行ったと、天香妃殿は確かにそう言ったのだね?」
「は、はい。恐ろしい形相で……」
「私はどういわれても、構わぬが……その様子では天香妃様は尋常ではあるまい。それ、一つ私が直接問いただしてくれよう。そうだお前、ええと王燕だったね。よく教えてくれたよ」
雪瑜は天香妃の宮女に謝礼を渡すと、満を持して立ち上がった。
「護景、人手を集めなさい。天香妃殿の元へ参るわ」
「はっ」
雪瑜は嬉々として、大勢を引き連れて百花宮へと向かった。
万が一荒事になった場合は勿論、言い合いで相手から失言が飛び出たとき、証人は多い方が良いと考えたのである。
雪瑜は自信に満ちていた。
およそ口論というものは精神状態が大きく作用する。いまの天香妃ならば、少し突けばすぐにボロを出すだろうという確信があった。
しかし……。
「天香妃殿は居ないだと?」
雪瑜は百花宮の入り口で止められた。
そこで天香妃の不在を告げられたのである。
「そんなワケあるか! だったらどこに行ったというのだ?」
「それは、私どもには知らされておりませんので、どこへ向かったのかは……」
「話にならん。通るぞ!」
雪瑜は門衛を強引に押し切って中に入った。
が、本当に天香妃の姿はない。
百花宮はもぬけの殻であった。
──どうしたことだ、これは。
全く予期していなかった状況に混乱しながら、雪瑜は宮殿に残っていた宮女を集めて話を聞いた。
その結果、思わず叫びたくなる事実が判明した。
「き、昨日から引き払う準備を進めていただと!?」
「は、はい。カラブラン様の指示で……」
──やられた!
どうやってか知らないが、こちらの動きを察知されていた!
「それで天香妃殿は、いつここを出て行かれた?」
「え? 月巧妃様が来るほんの少し前に……」
「少し前、だと。お、おのれ……!」
雪瑜の白い肌が怒りで朱色に染まる。
百花宮の女たちも、雪瑜の取り巻きたちも、激高した月巧妃の姿を見て、震え上がった。
「月巧妃様……?」
「ふざけるな。まだ間に合う!」
「え……」
動揺する取り巻きたちを無視して、雪瑜は一人宮殿を飛び出した。
護景を始めとする者たちも、すぐにその後を追ったが、雪瑜の脚力は人間のものではなかった。
野獣の如き速さで疾駆する雪瑜と、宦官たちの差はあっという間に開いていく。
おのれ、おのれ、おのれーっ!
この数か月、奴の生皮を剥ぐのを楽しみにしていたのだぞ!
絶対に逃がさんぞ、天香妃!!
生きて後宮を出られると思うなーーっ!!
今回の話を書いてて、皇帝と大臣が会話する際、皇帝の嫁になった自分の娘のことを、大臣はなんと呼ぶんだ?と思い少し悩みました。
一応劇中では「娘」としましたが、違う気がする。難しい…でもそこが面白い…。




