第二十四回 獣が寝入った夜
──そ、そんなことはさせない!
精神の奥底に封じられた玲は、そこで雪瑜の意図を知った。
雪瑜は天香妃様に罪を着せて殺すつもりだ。
しかも恵徳妃様のときのように、ただ毒殺で終わらせるつもりはない。
自分を面罵した天香妃様には、激しい責め苦を味わわせようとするに違いない。
今度はなんとか助けなくては……!
玲は静かに機会を待った。
ずっと私を閉じ込めておくことはできない。雪瑜の体は、私の体でもあるのだから。
実際、雪瑜は少し疲れていた。
天香妃ほどの大物を陥れる謀を考えるのは大変だったし、月巧妃となれば、これまでとはまた違った人間と出会う機会が多くなり、いままでより一段高い立ち振る舞いや教養が求められる。
当然だが、風演との房事も無下にはできない。
流石に疲れた……。
雪瑜が普段より多く溜息をつくようになった頃、やっと天香妃の牡丹が届いた。
運ばれてくる牡丹が目に入ったとき、雪瑜の疲労は吹っ飛んだ。
やったぞ!
ついに天香妃の鼻を明かしてやった!
それは雪瑜が想像していた以上の成果だった。
一本や二本の牡丹が届いたのではない。
牡丹を乗せた車が、続々と雪瑜と玲が住む宮殿──改名され、いまは嫦娥宮と呼ばれている──に到着した。
風演は後宮の庭師や工人に命じて、花王宮に植えられていた牡丹の半分を、強引に雪瑜の元へ運ばせたのである。
寒門出身の小娘にいいようにやられ、今頃天香妃の誇りはズタズタだろう。
溜飲が下がるとはこのことだった。
雪瑜がニタニタと笑う横で、玉蘭と護景は絶句していた。
「て、天香妃様の牡丹がこんなに……」
「これでは花王宮は一体どうなっているんだ。確かめに行くのも恐ろしい……」
「そうだな。花王宮は酷いことになっているに違いない。フフフ、これほどの贈り物をくださった天香妃殿に、礼の言葉を伝えねば無礼というもの。玉蘭、筆を持て!」
「雪瑜様、あまり天香妃様を逆撫でするようなことは書かない方が……」
「くっくっく、いまの天香妃なら何を書いても怒り狂うさ」
雪瑜が庭師たちの植え替え作業を見学していると、風演もそこに現れた。
「おう、やっているな」
「これは大家……!」
日頃にも増して、雪瑜は深く揖礼する。
「素晴らしい贈り物を賜り、感慨無量でございます。しかし、天香妃殿は嫌がっていたのではありませんか?」
「よいよい。天香妃は何でも自分の思い通りになると思っている。たまにはいい薬だ。もし天香妃が何か言ってきたら、そのまま孤に伝えよ」
「そう言うことであれば……」
「それと、今日はこれから用事があって嫦娥宮には来れん。すまんな」
「用事?」
「近頃は孤を訪ねる者が多くてな。お前の進言のおかげだ」
どこか嬉しそうに風演がいうと、雪瑜も胸を張った。
「それはなによりで」
このとき、風演の元に訪れていたのは、後に庵室の学士と呼ばれる人々であった。
彼らは庵室で風演と膝を突き合わせ、様々な話をした。
多くが無位無官である彼らが、なぜ皇帝の元へ馳せ参じられるかと言えば、雪瑜が一枚絡んでいる。
雪瑜は風演が政治的に孤立しつつある状況を憎んでいた。
門閥貴族が国家の要職を占め、その権勢は皇帝をも圧迫している。宮廷に風演の味方は少ない。
これでは詔一つ出すのも一仕事である。
……味方が少ないのなら、増やせばいいじゃないか。
雪瑜はそう考えた。
その為に白羽の矢が立ったのは、進士たちである。つまり科挙の及第者だった。
彼らの多くは科挙に合格したものの、官吏の席に空きがなく無為に日々を過ごしていたり、低級の役職に就けられたりしていた。
こうした官僚の卵たちを、雪瑜は焦螟を通して皇帝に繋げたのである。
「大家には信頼できるお話相手が必要に思えます」
「しかし、そうは言ってもな。どうすればそのような者が得られるか……」
「焦螟殿にお頼みなさってはどうでしょう。きっと賢人を紹介してくれるでしょう」
「しかし、大臣たちがどう言うか」
風演は自分がそのような者達と交流することを、宰相は気に食わぬというだろうと懸念した。
「構わぬでしょう。いまだって楽士を呼び、彼らと語らっているではありませんか。不安なら彼らは芸術家ということにすればよいのです」
「そ、そうか! そうだな!
こうして庵室の学士は宮廷に出入りするようになった。
そして庵室の学士と交流することで、風演に少し政治的な情熱が戻ってきた。
元々自分には何もできないという無力感から、風演は捨て鉢になっていたところがある。
味方を得て、それが少し改善されたのである。
無論、庵室で政談を語り合ってるだけでは、行動を伴わない“ごっこ”にすぎない。
だが、それでも雪瑜の閨房を訪れるより、庵室の学士と会うことを優先したのは、風演の中で風向きが変わりつつある証拠であった。
「一人寝は寂しいか雪瑜?」
「いいえ全く」
「何だまったく。少しは気にしろ」
「大家は私をお忘れにならぬと知っていますので、雪瑜はどれだけ待たされても、少しも苦ではありません」
「可愛い奴だ。天香妃の奴も、お前の半分でも素直であればなあ……」
それだけ伝えると、ぼやきながら風演は外宮の方へ向かっていった。
山野の獣のように、普段の雪瑜は眠っていても脳の一部は常に緊張し、警戒している。
しかし、この晩は例外だった。何もかも忘れ、ぐっすりといつもより深い眠りについていた。
彼女が眠るのは、自分が殺した女から奪った宮殿。
その宮殿の周囲は、これから殺すつもりの女から奪った花に囲まれている。
普通であれば気にかけるものだが、雪瑜にそのような気持ちはない。
むしろ、勝利の証として蕩けるほどの至福を味わっていた。その多幸感が雪瑜を普段以上の安眠に誘ったのである。
──この時を待っていたわ……!
雪瑜の意識が完全に眠りについたことを確認すると、玲は起き上がった。
急がないと。あまり時間はない。
天香妃様を助けるんだ。
正直、あの人のことは好きではない。だけど、これ以上雪瑜の好きにはさせない!
玲はそっと寝所を離れると、宮殿を抜け出した。
当然、途中何度かは門衛や見張りの者に見つかったが、いまの後宮に月巧妃を知らぬ者はいない。
「お願いします、通してください。後日、お礼は必ず……」
月明りの下に、いまを時めく月巧妃の姿を認めた門衛の宦官たちは、黙って門を開けた。
そして周囲に人がいなくなると、玲は懸命に走った。履の中で足の皮が破れたが、それでも走ることを止めなかった。
その彼女の足を止めたのは、花王宮の無残な姿が目に入ったからである。
「うっ……!」
夜の暗がりの中でも、はっきりとその異常は見て取れた。
あれだけ奇麗に植えられていた牡丹の園は、その殆どが持ち去られ、ひっくり返した土がそのまま放置されている。
まるで災害にあったようだった。
「酷い……陛下は牡丹を取り去った後、整地させなかったんだわ。なんということを……」
そこからは慎重に歩き始めた。
ここまでの見張りは月巧妃の味方であったが、流石にここまで来るとそうでないと思ったからである。
「誰だ! 何をしている!」
見張りに見つかった玲は一瞬身を竦めせたが、なるべく動揺を見せないよう、努力した。
……いや、それだけでは足りない。
このようなときこそ、雪瑜のように堂々と振舞わなければ。
そう思った玲は声を張り上げた。
「わ、私は月巧妃です。急ぎの用事があって参りました。て、天香妃殿の元に案内しなさい」
「月巧妃……さ、ま? まさか!」
見張りは目を丸くした。玲は畳みかけるように言う。
「早くしなさい!」
「え、で、でも……」
「グズグズしないで! 私に逆らえばどうなるか、いまの花王宮を見れば分かるはずよ!」
見張りはどう対応するか迷っていたが、この一言で背筋が凍った。
確かに逆らえばどんな目に合うか、分かったものではない。
「し、失礼しました! とりあえず付いて来てください!」
見張りの者に連れられ、玲は花王宮の中に入っていった。
通された部屋でしばらく待っていると、不意に戸が開いた。
ただしそこに現れたのは、天香妃ではなかった。
「あ、カラブランさん」
部屋に入ったとき、玲の顔を見たカラブランの顔に、軽い驚きが浮かぶ。
彼女は月巧妃が来たと聞いて、てっきり雪瑜が来たのかと思っていたのだ。
しかしすぐ気持ちを取り直し、カラブランは抑揚に欠ける声で尋ねた。
「月巧妃様、このような深夜に、お一人で来られるとは何用ですか」
カラブランの翠の瞳が、心の奥まで探るように玲を凝視する。
「すみません時間がなくて。急いで天香妃様に伝えたいことがあるんです! 何とかお会いできませんか?」
「天香妃様は既にお休みです。どうしてもお会いしたいのなら、夜が明けてからもう一度足を運び下さい」
「それでは遅いのです。朝になれば、私はまた雪瑜になってしまう! 会えないというなら、私の言葉を必ず天香妃様に伝えて下さい!」
「……それは内容次第でございます。何を申されるおつもりであったのですか?」
「いますぐ、後宮から逃げ出してください、というつもりでした」
「なっ……」
「もはや一刻の猶予もないのです。雪瑜は天香妃様に罪を着せ、残酷な方法で責め殺すつもりです。戚夫人の故事のように。どうかすぐにここを発ってください」
「な、な……貴様、よくもぬけぬけと……!」
──我が主に、後宮を去れだと。殺される前に逃げ出せだと!
カラブランは全身の毛が逆立つほどの怒りを覚えた。
そんな脅しに屈すると思うのか。
小賢しや!
「月巧妃……いや、欧陽玲! 我が瞳を前にして、同じことが言えるか!」
カラブランの翠眼が、星の如く輝いた。
瞬く光を受けた瞬間に、玲はその光が自らの体を貫通したのを感じた。
途端に、目に見えない何かが体を縛り付けた。
まるで玲の周囲の空気が、重く粘つく物体に変わったかのようだった。
「えっ……」
なんだこの術は。
体が動かないだけじゃない。息が……苦しい。呼吸が……。
「カラ、ブラン。やめ。お願い……信じて」
「まだ言うか!」
「お、お願い。このままでは、天香妃様が……天香妃様が殺される! それでもいいの! す、すぐに言う通りにしなさい!」
「おっ……!」
玲が気を吐いた瞬間、カラブランの目から発せられていた妖しい光が弱まった。
同時に、玲の体にまとわりついていた、重々しい空気も霧散していく。
自らの術を破られて、カラブランは相当驚いていたようだった。
「私の縛めを抜けるとは……貴様、まさか本気で警告に来たというのか」
「最初からそう言っているでしょう。願い、私を信じて下さい。夜が明ければ、雪瑜が目覚めるわ。雪瑜がこのことを知れば動きを早めるかも知れない」
「……天香妃様に罪を着せると言ったな。どんな罪だ?」
「誣告よ。どんな内容かまでは分からないけど、雪瑜は廉安公主様を通して、何かを天香妃様に吹き込んだの。でも、それは事実とは違う。そのことを口に出した瞬間、天香妃様は誣告の罪で捕らえられるわ」
カラブランは苦しそうに渋面を浮かべていたが、玲の言うことが真実だと悟ると、全てを観念して腹を括った。
──もしこれが真実だというのなら……。
カラブランには悩む時間すらなかった。
「……分かった。もう行け。お前がここに居てはまずい。あとは私が対処する」
「あ、ありがとう。私もなるべく雪瑜を抑えてみるつもり」
「私とお前は敵同士だ。礼など言われる筋合いはない。互いにな……」
「雪瑜はどうか知らないけど、私は貴方や天香妃様の敵になったつもりはありません」
「……お前がどう思おうが、やはり私とお前は敵同士だ。私は雪瑜を殺すかもしれん。お前には嬉しくない話だろう」
「いいわ。私もそれを望んだことがあるから。気にしないで」
「……なんだと。お前、それほど……」
「じゃあ、もう行きます。頑張ってください」
玲が部屋から出て行こうとしたとき、カラブランは居住まいを正し、深々と揖礼した。
「月巧妃様……格別のご高配、痛み入ります。天香妃様に代わり、御礼申し上げる」
「とんでもございません」
玲もまた、カラブランに礼を返した。




