第二十回 暗闘
「なに、今度は雪瑜が倒れただと!?」
「はい。はっ何者かに毒を盛られ、危篤の身であると。それと恵徳妃様も同様に」
凶報に接したとき、風演は手にしていた笛を落とすほどの衝撃を受けた。
この時の光景を見た者がいれば、二心一体の乙女に対し、いかに風演の寵愛が大きいものなのか、即座に理解できただろう。
動揺し、笛を取り落としただけでない。
最初の反応から既におかしいのだ。
風演に伝えられたのは『恵徳妃と雪瑜が毒に倒れた』というものである。
だが、情報を受け取った時点で、恵徳妃の存在は隅に追いやられていた。
長年連れ添った恵徳妃が占めていた部分は、もはや雪瑜と玲にとって代わられていた。
倒れた両者の症状は極めて相似しており、素人から見ても同じ毒が使われたということは明白だった。
しかし、両人が迎えた結果は違った。
解毒剤の効果か、風演が焦螟を伴って駆け付けた際、雪瑜は既に、牀の上で身を起こせるまでに回復していた。
だが、二人が担ぎ込まれた病室の雰囲気は、どんよりと重い
雪瑜が死の淵から生還したすぐ隣で、恵徳妃の方は二度と意識を取り戻すことはなかったのだ。
雪瑜に仕える者も含めて、多くの宮女や宦官が彼女の死を悲しみ悼んでいた。
妃嬪の一方は生存し、一方は死去。
このような状況であるにもかかわらず、風演は生きている雪瑜を一目見た途端──安堵した。
胸をなでおろし、体の強張りをいくらか緩める。
「雪瑜、無事か!? 大事ないか?」
「はい。大家、私はこの通り……」
と言いかけて、雪瑜はケホケホと咳き込む。
一命は取り留めたといえ、刺激性の毒物を取り込んだことにより食道や消化器官を痛めたのだ。
「おお、無理をするな雪瑜、何も言わなくてもよい」
「わ、私は何ともありませぬ。しかし、恵徳妃様は……」
「む……」
言われて初めて風演は、糟糠の妻ともいうべき恵徳妃が亡くなったことを知った。
「恵徳妃……楊僑……」
風演は横たわる恵徳妃の頬に触れ、彼女の本名を呟いた。
皇帝の背後で恵徳妃の侍女たちがしくしくとすすり泣く声が響く。
しかし、風演自身は不思議なほど落ち着いていた。
まるで凪いだ海のように、心が揺れない。
それどころか心のどこかで、『三妃の席が空いたか。ならば雪瑜と玲を繰り上げてやろう』という、今後の人事を考えていた。
そのとき、フラフラと雪瑜は立ち上がり、横たわる恵徳妃の枕元に立った。
「なんとお労しや……」
「おい、雪瑜、無茶をするな」
「お、お、お、お……恵徳妃様……」
止めようとする風演の手を振り切って、雪瑜はその場に膝をついた。
「雪瑜……」
「大家、恵徳妃様は、初めてお会いしたとき、自分のことは姉と呼んでよいと申され、いつも親切に、何も知らぬ私どもを援けて下さいました……」
「うむ……」
「あれは元宵祭の夜でございます。私どもは恵徳妃様と共に観灯に出かけて参りました……」
新年を祝う元宵祭の日は、後宮の宮女たちも外に出て、祭りを鑑賞することが許されていた。
「あの晩、恵徳妃様は私を見るなりその恰好では寒いでしょうと、自ら着ていた綿入を私にくだされました。そんな優しい方がなぜこのような……う、う、う」
恵徳妃との思い出を語りながら、雪瑜はさめざめと泣いた。
そして雪瑜が悲しんでいると、その悲しみが風演の心にも染み込んでいった。
ざわざわと心も震え、悲嘆が込み上げる。
風演の脳裏にも思い出がよみがえる。
後に恵徳妃となる楊僑に出会ったとき、風演はまだ一公子に過ぎず、それゆえ何の責務も負っていなかった。
いまにして思えば長閑な日を過ごせていたと思う。そしてその日々は、恵徳妃の死によって、もう永遠に戻ってくることはなくなった気がした。
「おお、楊僑……」
風演と雪瑜は恵徳妃の遺体の前で身を寄せ合い、哭泣した。
風演はすぐに恵徳妃を殺し、雪瑜を害した犯人を探すように命じたものの、手掛かりすら見つからず、犯人の正体は杳として知れなかった。
苛立った風演は後宮を監督する焦螟を呼び、珍しく叱りつける。
「老爺よ、お前は以前言ったな。後宮を預かる者として、このようなことは決して起こさぬと。それがどうだ。恵徳妃は倒れ、雪瑜さえも一時は死の淵にあったのだぞ! だのに犯人すら分からぬとは、どういうことだ!」
「面目次第もございませぬ……ただいま全力で捜索しておりますので、今しばらく……」
「そんなことは当たり前だ、焦螟! このままではお前に責任を取ってもらわなければならぬのだぞ!」
風演は吠えるように言った。
かなり重い罰が与えられることが予想されたが、風演の隣に侍る雪瑜は焦螟を庇った。
恵徳妃の死以降、雪瑜はますます風演と接近していた。心も体も、である。
共に泣き、心を重ね、夜には体を重ねた。いまや雪瑜は風演の心の隅々、ごく小さな襞にさえピタリと張り付いていた。
どこに行くにも風演の傍らには雪瑜がいるようになっていた。
「恐れながら大家……」
「なんだ、雪瑜」
「焦螟様のこれまでの働きに免じて、それはご堪忍頂けぬでしょうか?」
「だが、それでは示しがつかぬ!」
「大家、よくお考えなされ、焦螟様の忠誠は疑うべくもないではありませんか」
雪瑜は風演の耳元で囁いた。
「ここで忠臣を除くようなことをすれば巡り巡って、自分の首を絞めることになりかねませんか?」
「どういうことだ」
「私と恵徳妃様を亡き者として益を得るのは誰でしょうか? 十中八九その者が背後にいるでしょう」
「む……」
「焦螟様もそのことに気が付いているのです。しかし、相手が大きければ大きいほど、動かぬ証拠が必要。焦螟様はそれが出てこないので苦心しているのです」
「……巨大な相手、もしやそれは伊──」
「名を言ってはいけませぬ」
二人が顔を上げると、風演の表情から棘がいくらか薄らいでいた。
「……相分かった。老爺よ。これまで通り職務に励むように」
「ははっ」
結局、犯人が見つかることはなかった。
しかし黒幕は天香妃──引いてはその父であり、宰相の伊玄曹ではないかという噂が、まことしやかに囁かれていた。
「少し疲れたわ。しばらく誰も近づけないで頂戴。大家でもよ」
「しょ、承知しました。でも陛下を追い返せるかどうかは分かりませんケド……」
「大丈夫よ。私がそう言ったといえば、あの人は大人しく帰るわよ」
玉蘭にそう命じると、雪瑜は部屋に閉じこもり窓を開けた。部屋に吹き込んだ風が、わっと雪瑜の白い髪を揺らす。
藤椅子に座って目を閉じ、体を共有するもう一人の人格に向けて、意識を集中した。
『玲、玲……』
『雪瑜、貴方なんてことを……! よくも、よくも……」
『さて何のことかな』
『誤魔化さないで! 恵徳妃様を殺して、しかもその罪を天香妃様になすりつけようと誣告するなんて! 恥を知りなさい!』
『私はお前だぞ。そう自分を卑下するなよ』
『クッ……なんてことを……本当に、なんてことを……そこまでして権力が欲しいの? 貴方はもう本当の化け物よ』
『ははは。私は化け物か』
『そうよ!』
『ならば、恵徳妃も化け物だ。今回のことは化け物同士が食い合ったに過ぎん』
『なんでそうなるのよ!』
『……まだ気付いてないのか。確かに私は毒を盛った。しかし私に毒を盛ったのは誰だ?』
『それは貴方が自分でそのように工作したのでしょう!』
『違う。私を殺そうとしたのは恵徳妃だ。事前に防ぐこともできたが……命を奪うからには、奴にも私の命を奪う機会を与えてやろうと思い、甘んじて毒を飲んでやったのだ』
『嘘よ!』
『私を弾劾しておきながら、自分は真実から目を逸らすのか。まあいい。私が言っても納得しないのなら、護景にでも聞け』
ふう、と息を吐くと、椅子に座っていた雪瑜は空気の抜けた風船のように一回り縮まり、白い髪が黒に戻った。
玲は涙を浮かべながら部屋から出ると、護景を呼んだ。
突然の呼び出しにもかかわらず、背の高い宦官は恭しく拱手した。
「お呼びでしょうか?」
「護景……お願い正直に答えて」
「はっ。玲様の前で嘘偽りは申しませぬ」
「……今回の件、あなたはどこまで知っているの? 何処まで関わっていたの!?」
玲は吼えるように言った。
護景は一瞬目を細める。
「落ち着いて下さい。声を低く」
「これが落ち着いていられると思う!? 恵徳妃様が亡くなられたのよ! あなたも関わっていたの!?」
「いいえ。しかし、雪瑜様はもうすぐ恵徳妃様が自分に毒を盛るだろう、焦らず対処せよと、私と玉蘭に申しておりました」
「……あなたも恵徳妃様が私たちを殺そうとしたっていうの!?」
「はい……玲様、私の知っていることは全てお話いたします、お聞きください」
そうして護景が語った内容は、玲の想像とは全く違う物だった。
内幕はこうである。
まず雪瑜は恵徳妃の侍女たちと接近し、そのうち一人から自身の暗殺計画を知った。
そうしてその人物に、自分の飲む物だけでなく恵徳妃の飲み物にも毒を盛るよう依頼したというのである。
「嘘よ! 理屈に合わないわ! いくら雪瑜が恵徳妃様の侍女と仲がいいと言ったって、毒を入れる役を任せられるような子が、そう簡単に裏切ったりするものですか!」
「ところがそうでもないのです」
護景はさらに続ける。
「恵徳妃様は、以前から多くの者を人知れず“処理”していたのです」
玲の眉間に皺が寄る。
反論しようとして口を開いたが、何も言わず閉じた。
感情がグチャグチャになって、言葉が出なかったのである
「四、五年前、後宮で多くの死者が出た話はご存知でしょう。初めは天香妃様を疑いましたが、調べていくうちに、どうも違うことに気が付きました。なにより天香妃様には動機が薄い」
天香妃にとって、何もせずとも皇后位が舞い込んでくるのは時間の問題であった。
位の低い小物の妃嬪など殺して、余計な騒ぎを起こす必要はないのである。
しかし、恵徳妃にとっては違った。
自分が競争に敗北しかけていることに気付いた恵徳妃は、焦燥から強制的に邪魔者を排除し始めたのである。
それは計画的に行われたというより、一種の強迫観念に突き動かされた結果だったに違いない。
目標を殺すと、恵徳妃は共犯者であった自分の侍女も口封じに殺していた。
それが不審な死の真相だと、護景はいうのである。
「だ、だから恵徳妃様の侍女も死んでいたと……」
「今回手を下すよう命じられた者にこのことを告げ、首尾よくいったとしても、お前は殺されると、雪瑜様は伝えたのです。すんなりとはいきませんが、最後はこちらに付きましたよ」
「……」
自分の知らないところで起きていた陰謀に玲は絶句した。
玲と雪瑜は一心同体だが、相手が体を支配している間に起きていることを、全て把握できるわけではない。
雪瑜が恵徳妃様を害しようと動いたことは知っていたが、まさかその恵徳妃様が自分を殺そうとしていたとは、とても夢にも思わなかった。
いやまて。
護景が雪瑜を庇うため根も葉もないことを言っている可能性はないだろうか?
……恵徳妃様の陰謀と同じくらい、そうだとは思えない。
長い沈黙の後に玲は口を開いた。
「それでも、罪は罪です。私はこのことを暴露し自首します」
「誰に?」
「無論、後宮を束ねる焦螟様です」
「無駄でしょう。焦螟様は取り上げますまい。あの方は雪瑜様の味方です」
「まっ、まさか……!」
「私が少し調べただけで知り得た程度のこと、焦螟様がご存じでないと思いますか? あの方は後宮の中のことなら、どんな小さなことでも、例え宙を舞う羽虫の位置まで把握しております。これまで恵徳妃様の秘密を隠していたのはあの方でしょう」
玲は渋面を作り手で顔を覆った。
ここは陰謀に満ちている。
仙遊宮も不自然な箱庭だったが、後宮はそれよりも悪い。
心の内で、玲は悲嘆の声を上げた。
もう。嫌だ。
『玲……』
護景を帰し、一人俯いていると、雪瑜が語りかけてきた。
鍵をかけて部屋に閉じこもっても、自分は一人になれないと思い知らされる。
『なにも心配することはない。今回のことは焦螟からも暗黙の了解を得ている。』
『うるさい!』
『へそを曲げるな』
『雪瑜、なんであなたは平気なの? 人を殺したのよ!?』
『そうせざる得なかったことは護景から聞いただろう。手を打たねば、私たちが殺されていた』
半身の発言に、玲はカッとなって立ち上がった。
つかつかと姿見鏡の前に立ち、叫ぶ。
『他の人は納得させられても、私にそんな言い訳は通じないわよ! 私はお前だ! だから分かる! お前は恵徳妃様を殺したいと思って殺したんだ! どれだけ言い訳を重ねても、理由を付けても、それが真実!』
『……その通りだ』
感情の高ぶりによって、玲には姿見鏡に映し出された自分の姿が、雪瑜に見えていた。
その鏡の中の雪瑜が肩をすくめる。
『恵徳妃は私の目的のための、最初の犠牲だ』
『最初!?』
『必要なら私は誰でも、何人でも殺す』
『……雪瑜、あなたは一体何をする気……』
『私の全てはただ大家の為に……。もし私が手を下さなくても、焦螟様が殺していただろう。恵徳妃は己の本分を果たさなかったんだからな』
『……どうしてあなたたちはすぐ人をそうやって殺せるの!』
『すぐに殺したわけではない。特に焦螟様は、長年恵徳妃に期待して目をかけてきたはずだ。殺しをもみ消してやるほどにな。しかし、その期待を裏切り続けたのが恵徳妃だ』
鏡の中の雪瑜は泰然自若の態度を崩さず、滔々と語った。
初めのうち、恵徳妃が皇后となることに反対する者はいなかっただろう。
しかし時が経つにつれ、次第に恵徳妃の鍍金が剥がれてきた。
彼女は皇帝が淫蕩と遊興に溺れても諫めず、その権力が零れ落ちていくことに任せていた。
少しずつ実行力を蓄えた大臣たちは、いまや皇帝でも制御できぬほどになっている、と。
『真に大家のことを考えている者は、私と焦螟様くらいだろう。他の者は自分や一族の都合しか考えておらぬ。まっ、雑魚はどうでもいい。ただし捨て置けぬ者が一人いる……』
鏡の中の雪瑜がそういうと、玲は恐怖で鏡から目を背けた。
しかし、声は自分の頭の中で響く。
『次は百花の女王、天香妃だ」
『雪瑜、そんなことは許されないわよ!』
『……お前はしばらく表に出るな。次にお前が目覚めた時──後宮には我らに比肩する者はいなくなっているだろう』
はっはっはっは!
雪瑜の哄笑が響くと、次第に玲の意識は遠ざかっていった。




