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第二十一回 妖姫の望み

 後宮の内外にも名が知られていた恵徳妃の死は、多くの人々に衝撃を与えたが、彼女の葬式はしめやかに、ごく控え目に行われた。

 それに代わって、この暗い訃報を掻き消すように行われたのが、風演の新曲『月君』の発表であった。

「欧陽充媛がいなけれは、この曲は存在しなかった。その功は千歳の月日を経ても忘れられることはあるまい」

 と、風演は激賞し、静かで優雅な旋律の曲を、自ら(しょう)を手に取ってその場で演奏して見せた。


 こうした動きの中、天香妃の陣営は揺れていた。

 可能性の一つとして、このような展開になることをカラブランは予想していたものの、細かい点で誤算が大きかった。

 一つは、疑惑の目がこちらに向けられていたこと。

 声を大にして非難する者こそいないが、多くの人間が恵徳妃の死は天香妃の仕業であると考えていた。

 特に恵徳妃の元侍女らは、遠間から天香妃を睨みつける姿が散見された。


 もう一つは欧陽充媛こと雪瑜の勢力の、急激な膨張である。

 恵徳妃に気に入られ、その侍女たちからも人気のあった雪瑜は、恵徳妃の死後その勢力を取り込んだ。

 通常、このようなことはない。

 表の世界でも、忠臣は二君に仕えず、とされているのと同じく、主を失った侍女たちは後宮を去るのが原則である。

 しかし、雪瑜と恵徳妃は互いに義姉、義妹と呼び合う仲であったことはよく知られていた。

 雪瑜が後宮を去ろうとしていた侍女たちに声をかけ、また後宮で働かないかと誘ったとき、それを不義の行いであると咎める者はいなかった。

 姉を慕っていた妹に仕えることを不忠であるとは言えないからだ。


 充媛にすぎない雪瑜だが、皇帝の寵と、日陰の者たちからの支持という二つの後ろ盾を得て、いまやその勢いは天香妃を凌ぐほどとなっていた。

 このような状況では、恵徳妃を殺害したのは、欧陽充媛だと告発したところで、全くの逆効果だろう。

 讒言とみなされるのは火を見るより明らかだった。


 どうしてこうなった?

 カラブランは唇を噛んだ。

 そしてカラブラン以上に、天香妃は我慢の限界を超えた。

「これはどういうことよ!?」

 青筋を立てた天香妃がヒステリックに叫ぶ。

「このざまはどういうことよ! お前のせいでこうなったのよ! 死ね! 死んでしまえ!」

 天香妃は手元にあるものを掴んでは、カラブランに向って投げつけた。

 雑貨や小物が体に当たるのを、カラブランはじっと耐える。

 このような扱いでも、カラブランに不服はなかった。この事態を招いたのは、確かに自分の失態だった。

 もう悠長に構えている時間はない。

 罵倒されながら、カラブランは次なる手を考えていた。

 

 お嬢様のお父上、伊宰相がもうすぐ国公の位を賜るという話がある。

 まずはそれを起点に、陛下、伊宰相そしてお嬢様三人だけの席を設けよう。

 同時に、なんとか欧陽充媛を遠ざける手を考えなければならない。

 ……欧陽充媛、いや雪瑜。奴は不気味だ。

 暗幕に隠されているかのように、奴の動きの情報はあまり入ってこない。

 人伝に聞くのではなく、自分で探り出すほかないようだ。


「ウッ……」

 カラブランがそう考えていると、突然天香妃が口元を押さえ嘔吐(えず)いた。

「お嬢様!?」

 渋面を浮かべた天香妃は呻くように言う。

「クッ……お前たちのせいで頭が痛いし気分が悪い。もう休む」

「はっ」

 侍女に体を支えられながら、天香妃は宮殿の奥に消えた。

 その歩調は、弱々しく頼りない。



 一方雪瑜は自信に満ちた足取りで、風演の隣を歩いていた。

「後宮での暮らしに何一つ不満はありませぬが、この雪瑜は田舎育ち。たまには外の風に当たりたいと思います」

「おうそうか。それでは一つ、誓娃湖に舟を浮かべにいくか」

 と、風演も雪瑜に同意し、皇帝を伴った一行は、都の近隣にある湖に向かった。


 誓娃湖の穏やかな湖面に、珍しい船が出現した。

 風演が作らせ、葉舟と名付けた船である。その由来は全体の形状にあり、船べりは笹の葉に、帆はフキの葉に似る。

 風演の神仙趣味がここでも出ていて、巨大な仙人の手で拵えられた草船というコンセプトの船なのだ。

 特に目的地などない、遊覧である。雪瑜と風演を乗せた葉舟はゆっくりと誓娃湖を回遊した。


 外出は雪瑜の思い付きだったが、船の上で風に当たっていると、風演はまるで毒気が抜かれたかのようにホッとした。

「雪瑜、お前とこうしている時間ほど楽しい瞬間はない」

「おや、そうですか?」

 雪瑜は悪戯っぽい微笑を浮かべた。

大家(ターチャ)は玲にも同じことを申しているのでは?」

「そっそんなことはない!」

「でも近頃は、大層仲が宜しいようで」

「玲は……いい相談相手だ。私にない新たな物の見方を示してくれる。そういえば……」

 湖を眺めながら風演は嘆息した。

「仙遊宮の池のほとりで、玲に望みは何かと尋ねられたことがあったな。考えてみれば、あの言葉は私がお前たちに言うべき言葉であったわ。雪瑜、お前の望みは何だ?」

「私の望み……それは大家の帝業の一助になることですよ」

「それは助かるが、そういうことを聞いているのではない。もっとな、こう、私的なことを尋ねているのだ。お前の欲しいものはなんだ?」

「しかし……」

 雪瑜は少し考えた。

 舌の蕩けるような美酒美食、目もくらむような富、万人を平伏させる権力……。

 正直に言えばどれも好きだ。手に入れたいと思っている。

 しかしそれが望みかといえば、違う気もする。

 私がいま望むもの、それは──。

「……」


 雪瑜は茶を一気に飲み干して、すっと立ち上がった。

「大家、一差し舞いたい。もしよければ笛を頼む」

「お、おいこんなところで……」

 静止に構わず、雪瑜は歌いだし、舞い始めた。

 あまり大きくない船は微かに揺れるが、それでも雪瑜の見事な体重移動によって必要以上には揺れない。

 風演も仕方なしに、手にした笛で伴奏を始めた。


 やがて雪瑜の額に汗が浮かぶと、その肢体から得も言われぬ芳香が漂ってきた。

「おお……」

 甘い香りの汗である。

 その香りを嗅ぐと風演はここが船上であることも忘れ、雪瑜の舞いに目を奪われた。

 忘我の境地とはこのことだろう。

 もとより、雪瑜には人々を惹き付けるものがあった。

 それが成長によってさらに妖艶さを増し、魔性の域に近づいている

 しかし彼女は、熱狂と広大無辺の度量で支持されるカリスマとは少し違う。

 雪瑜の美は、陰に属するものであった。

 彼女に熱はない。その心は大して広くもない。が、とてつもなく深い。

 その暗い深遠に、観る者の心を引きずりこむのだ。

 

 舞い終えた雪瑜は、いつの間にか風演の背後に回っていた。

 雪瑜は両手を風演の両肩に置き、耳元に顔を近づけて囁く。

「大家、雪瑜は二つ欲しいものがあります」

「……遠慮なく申せ」

「三妃の位が欲しい」

「三妃……おお、それは私も望むところだ。ちょうど一つ空いたことだしな」

 忘我の境地にある風演は、なぜ一つ位が空いたのか、そこに誰が座っていたのかなど、もはやどうでもよかった。

 ちょうど一つ空いた──そう語る言葉には何の感情も込められていない。

 雪瑜は微笑した。

「いま一つはなんだ?」

「先日、天香妃様の宮を訪れた際、それはそれは美しい牡丹の花を拝見いたしました」

「うむ」

「その牡丹の木が欲しいのです」

「な、に……」

 天香妃の号の由来ともなっている牡丹。

 それを彼女から奪おうとすれば、どのような反応を引き起こすかは分かり切っていた。

 だが、雪瑜はどうしても、己を(さる)と呼んだ天香妃を許せなかった。

 お前から全てを奪うという果てしない怨毒、その始まりである。


「て、天香妃の牡丹か……?」

 忘我の境地にあるはずの風演も、思わず我に返って聞き返した。

「難しゅうございますか?」

「……代わりの物は用意できる。天香妃の持つ牡丹以外にも、世に見事な牡丹はあるだろう」

 風演は言葉を濁した。

「私は天香妃様の牡丹が欲しいのです」

「しかし……」

「無理を申しました……もうわがままは言いません、ご放念ください」

 と、雪瑜は恐ろしく他人行儀に言って、風演から離れるとツンと横を向いた。

 

「……せ、雪瑜」

 雪瑜は横を向いたままである。

 風演は精神を引き裂かれたかのような痛みを覚えた。

 恋に狂う風演は、既に雪瑜がいない生活など考えられないところまで来ていたのである。

 耐えかねた風演は声を絞り出した。

「ま、待て。お前に天香妃の牡丹を与えよう」

「大家、この場を取り繕うだけの空言は聞きたくありません。そんなことを天香妃様は承知しないでしょう。あの方になんというおつもりですか」

「いや、それは……そっそうだ。お前が三妃へ昇格となれば、祝いの品がいるだろう。そのときに出させる!」

「本当でございますか? それで天香妃様は納得いたしますか?」

「する。いや、させる! ()は大昭の皇帝だぞ! 不可能なことがあるものか!」

「嬉しい」

 そういって雪瑜は風演の胸に顔を埋めた。

「ありがとう、大家……」


 雪瑜に抱き着かれた瞬間、風演は欠けたものがピタリと埋まるような感覚を覚えた。

 言葉に出来ない充足感と多幸感に、体が蕩けそうになる。

 風演は、古に作られた歌を思い出した。


 北方有佳人、絶世而独立。

 一顧傾人城、再顧傾人国。

 寧不知傾城与傾国、佳人難再得。


 北方に佳人有り、絶世にして独り立つ。

 一度顧みれば人の城を傾けて、再度顧みれば人の國を傾ける。

 (いずく)んぞ傾城と傾国を知らざらんや、佳人は再び得難し。


 李延年という者が己の妹を歌った歌だが、自分はいまそれ以上の美姫を抱いている、と風演は確信していた。

 

「ああ、雪瑜……」

「ふふふ、大家……」

 葉舟がかすかに揺れ、湖面に波紋を作った。

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