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第十九回 ペッキング オーダー

 一年が過ぎ、さらに一年が過ぎた。

 相変わらず、風演は新たな音楽を作るために玲の元を訪れ、音楽だけでは満たせぬ情念を満たすために雪瑜を抱いた。

 三千寵愛在一身。

 本来、後宮三千の佳人に向けられるはずの愛を、地方刺史にすぎない欧陽家の娘が独占していることは、誰の目にも明らかであった。

 こうなれば、周囲の目も変わる。

 二人に向けられていた親しみや無関心は、日に日に羨望や妬心に変わり、それ以上に媚びてへつらう者が増えた。

 

 しかし、相変わらず恵徳妃と玲/雪瑜の関係に変わりはない。

 恵徳妃は、自分の最大の障壁となった女を、まるで自分の娘のように可愛がり続けた。

 話し相手として、ことあるごとに玲/雪瑜を自分の屋敷に呼び、そこに風演も加わって三人で歓談することも珍しくなかった。

 除け者にされた形の天香妃の苛立ちは募る。


 そんな時、誰に気付かれることもなく、小さな変化が起こっていた。

 少しずつ雪瑜の活動時間が伸び、比例して玲の時間が少なくなっていったことである。

 そしてある日を境に、人々の前から玲の姿が消え、雪瑜が体を独占した。

 周囲の人間は「最近見ないけど、玲に何かあったのかい?」とそれとなく尋ねたが、雪瑜は謎めいた笑みを浮かべて、質問をかわした。

「元々あの子は注目を浴びることが苦手だ。いま私たちは後宮で注目を集めずにいられない。だから私に代わっているのだ」

「なるほどねえ」

 質問者の多くはそれで納得した。


 こうして、まるで後宮の主となったかのように、肩で風を切って歩く雪瑜を、天香妃は憎悪した。

 日に日に緊張が高まっていく二人は、いつ衝突してもおかしくなかった。

 あるとき、後宮の道端で雪瑜は侍女を引き連れた天香妃に出くわした。

 普通であれば雪瑜は身を道の端に寄せ、天香妃が通り過ぎるのを待つのが礼儀である。

 そうでなくても、以前階段で天香妃と出くわした際には、階段下まで下がれと叱られている。

 だが、このとき、雪瑜は道を譲らなかった。


 そのままずんずんと歩みを進め、軽く会釈をして天香妃とすれ違う。

 まるで私とお前は対等だ、と言わんばかりであった。

 何食わぬ顔で通り過ぎようとする雪瑜に、天香妃は唖然とした。


「お前!」

 思わず声が出た。

「は? なんでしょうか?」

「ぶ、ぶ、無礼者!」

 怒りのあまり、天香妃の声は震え、口は上手く回らない。

『我が美しさの前に、走る獣は立ち止まり、飛ぶ鳥は羽ばたくことを忘れ、墜落する』

 そう豪語した国一番の美貌の持ち主は、美しさをかなぐり捨てて、目を剥いて雪瑜を睨みつけた。

 このような場合、主人が直接行動に出ることは少ない。

 手足となる侍女・腰元が無礼者を咎めるのである。

 だが天香妃の侍女たちは、雪瑜の前に出ることに二の足を踏んだ。

 雪瑜の謎めいた出自、姿、そして皇帝の圧倒的な支持という背景に怯んだのである。

 政治の場ではともかく、後宮の中ならばやはり風演こそが支配者だったのだ。


 躊躇する侍女たちの中で、カラブランだけが進み出て雪瑜に対峙した。

「欧陽充媛、分を超えた真似は慎み下さい。このようなつまらぬことをしていては、陛下の失望を買いましょう」

 毅然とした対応である。

 雪瑜はすぐそばにいる天香妃に直接言わず、カラブランに向けていった。

「……考え事をして気付かなかった。天香妃様には申し訳なかったと伝えてくれ」

 雪瑜は拱手し、カラブランも礼を返す。

 そしてカラブランはそっと天香妃に伝えた。

「さあ参りましょう。天香妃様」

「それで終わりか! このまま見逃せというのか!」

「いえ正式に抗議いたします。ですが、我らの方が多勢のこの場で言い合いしていても、陛下の心象が悪くなるばかりかと」

 閨の中で、雪瑜が風演に「大勢で詰め寄られた」と言えば、結果的に不利になるのはこちらである。

 天香妃にもそのことが容易に想像できた。


「……忌々しい!」

 天香妃は小さな声でそう言って、その場を離れようとした。

 だがあまりに腹に据えかねた天香妃は、去り際に雪瑜にも聞こえるように、つまりその場にいた全員に聞こえる様に、悪態をついた。

「尻の赤い(さる)め!」

「──あ?」

 ブチン。

 雪瑜の体内に巡る血液が瞬時に沸騰し、精神の糸が切れた。











「……はっ」

 雪瑜が正気に返ったとき、その場に天香妃やその侍女たちの姿はなかった。

 あまりにも突発的で急激な激情によって、雪瑜は立ち尽くしたまま気絶していたのである。

 もしも動けたなら、雪瑜は天香妃を撲殺していただろう。

 そうならずに済んだことは、両者にとって幸運だったといえよう。

 だが、怒りと憎しみの炎は消えず、雪瑜の胸の内でくすぶっていた。

「……このことは忘れぬぞ。必ず、必ず畜生道に落としてくれる」


 このような軋轢は、皇帝の目の届かぬ場所で行われ、傍から見れば後宮は静かであった。

 妃嬪、宦官共によく治まり、静かな時が流れている。

 だが後宮の中に長く身を置く者ほど、それが嵐の前の静けさであることを理解し、息を潜めていた。



「玉蘭……玉蘭……」

 ある晩、寝所に身を横たえていた玉蘭は、何かに身を揺すられて目を覚ました。

「ほえ?」

「起きて、玉蘭……」

「は……え!? 玲様?」

 玉蘭は驚いた。目の前にいたのはここしばらく姿を見せなかった主人だったのである。

「一体どうしました?」

「よく聞いて、雪瑜はとんでもないことを……」

 何かを訴えようとしたとき、突然玲は両手で頭を押さえた。

「うう……」

「玲様! お体が悪いのですか!? 医官を呼んでまいります!」

「ちが、違うの! お願い、恵徳妃様に伝えて……雪瑜が……雪瑜が……」

「玲様!」

 玉蘭が何とか玲を落ち着かせようとしたとき、玲の瞳が火眼金睛(あかめ)に変わり、元に戻り、再び火眼金睛(あかめ)になるのが見えた。

 二つの人格が体の主導権を巡って、激しく争っているようだった。

 しかし、最後は雪瑜が玲を抑え込んだ。


「玲め、手間を掛けさせるわ」

 一息ついた雪瑜はほっと息を吐いた。

 恐る恐る、玉蘭が尋ねる。

「あの、雪瑜様。如何なさいましたか?」

「いや、何でもないぞ。気にするな、玉蘭……おやすみ」

 それだけいうと雪瑜は自分の寝室へと戻っていった。

 深夜の謎めいた訪問で、玲が何を訴えようとしていたのか玉蘭も少々気になったが、主人が雪瑜に代わってしまった以上はどうすることもできず、再び眠りについた。



 翌日。

 雪瑜の起居する館の一室は、沈香の匂いが漂っていた。

 母の位牌の前で香を焚き、雪瑜はいつも以上の熱心さで亡き母を拝んだ。

「かねてより計画していた帝業の(たすけ)、本日より始めたいと思います。お母様、どうか雪瑜をお守りください」


 その後、脂粉(おしろい)を塗った雪瑜は、いつものように恵徳妃の宮殿へ顔を出し、恵徳妃と他愛のない話を交わしていた。

 話題は風演の作る音楽のこと、辺境で活躍する石豹のこと、そして季節折々の祭りのこと。

 話題が祭りのことに及んだとき、恵徳妃は窓の方を向いて、やや不満げに少々大きな声で言った。

「はあ。七夕の節句は、晴れるかしらねえ」

 その様子に恵徳妃の侍女たちは顔を見合わせる。

 民間だけでなく、後宮でも七夕の節句には宴が開かれる。

 そして一年に一度だけ相見えられるという、天の恋人たちに想いを馳せるのだ。

 しかし恵徳妃の思いは別のところにあるようだった。

「昔から七夕の日はよく晴れると申します」

 窓の方を向いたまま、恵徳妃は上の空で答えた。

「……そうねえ」

「何かお悩みでもあるのですか?」

「……」

 恵徳妃は無言で侍女に茶のお代わりを指示した。

 二人の前に湯気の立つお茶が運ばれてくる。

「私の故郷近くで採れた新茶よ、どうぞ」

「頂きます。……ん、甘い」

「新茶は苦みが少ないの」

 雪瑜が茶を口にしたことを確認して、恵徳妃も茶に手を付ける。

 そしてゆっくりと語り出した。


「悩みというほどの物じゃないけれどね、季節が巡る度、また少し年を取ったと思ってしまうのよ。永遠に老けない織姫なら一年に一度の逢瀬もいいでしょうけど、私なら御免だわ」

 雪瑜は軽く微笑した。

「恵徳妃様は、まだそのようなことを申されるお歳ではありますまい」

「……貴方には無縁の悩みでしょうね」

「ははは。恵徳妃様、ではこの雪瑜がその悩みを解決して見せましょう」

「どうやって?」

 そのとき、雪瑜の赤い瞳がゆらゆらと悪意に満ちて燃えた。

「もうやった」

「?」

 雪瑜の表情に悪意だけでなく嘲りも加わって、今度は傲岸に笑った。

「恵徳妃様……貴方はもう、いま以上老いることはありません」

「貴方……ま、まさか……」

 恵徳妃は自ら差し出した茶の方を向いたが、事態を悟ったときにはもう遅かった。


 喉が焼けるように熱い。そして吐き気が込み上げる。

 それ以上に強烈な頭痛が恵徳妃の意識を奪い、恵徳妃はその場に崩れ落ちた。

 それだけでなく、雪瑜も同様の症状に襲われ、一瞬にしてその場は騒然とした。

 女官たちは悲鳴を上げ、異変を知った宦官たちは青ざめて右往左往しながら医官の元に走った。

「毒殺だ!」

 その凶報は嵐ように後宮をかけ巡った。

 報せをきいて護景が駆けつけたとき、意識の失った雪瑜を玉蘭が看病していた。

「例の薬は?」

 と、周囲に聞こえないよう護景が玉蘭に囁く。

 薬とは芫青(げんせい)紛の解毒薬のことである。

 周到な雪瑜はこれを三組用意し、一つは自分、一つは護景、一つは玉蘭に持たせていた。

()ませました」

「では……あとは雪瑜様次第か」


 突然の惨劇に誰もが少なからず衝撃を受ける中、後宮でただ一人、内侍省総監の焦螟だけが泰然としていた。

 雪瑜と恵徳妃が倒れたと知ると、老宦官は一言。

「そうか」

 と呟き、さも慌てたフリをして主の元へと向かった。

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