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第十二回 後宮の三妃

 ついにこの日が来たか、と雪瑜の精神は高揚していた。

 その日は藍をとろかしたような色の、深く青い秋晴れの空が広がっていた。

 白銀の城を思わせる見事な入道雲が、蒼穹をゆっくりと横切っていく。

 新たな門出に相応しい、気持ちのいい天気の日だった。


 輝くような雲の下、黙々と荷車に荷物を積んでいく宦官と宮女たちを眺め、雪瑜は満足感を覚えた。

 宦官たちが行っているのは欧陽玲/雪瑜が、仙遊宮から後宮へと住居を移すための引っ越し作業である。


 その作業態度には規律があった。無駄口など叩かずに実にテキパキと作業している。

 どれほど位が高くとも、宦官は皇帝の奴隷。妃嬪に仕える召使。

 それゆえ、新たに後宮入りする宮女に、粛々と従うのは当たり前のこと──ではない。

 宦官も人間である。

 それも、自ら子孫を残すという望みを絶たれながら、他人が子孫を残すという目的に奉仕する人間である。

 そのような苦々しい現実があるにもかかわらず、常に人々から蔑まれるような立場の人間である。

 こういった事情から、精神を鬱屈させたものが少なくない。

 彼らの怒りや無念はどこへ向かうのか。


 それは後宮で繰り広げられる権力闘争に敗れた者や、勝つ見込みがないと見なされたものである。

 要するのに、宦官は立場の弱い宮女に精神の(おり)をぶちまけて、憂さを晴らすのだ。

 またそのような立場の宮女は、宦官に逆らっては生きてはいけないため、涙を呑むしかない。

 これが後宮の下層の現実である。

 だが、今朝方から作業を行う宦官たちにそのような兆候は見られない。

 宦官たちは新たに後宮入りする雪瑜に、恭しく礼を尽くしている。


 焦螟にとくと言い聞かせられているのか、私の傍に付くことに利があると見たか。

 いずれにせよ、好ましい状況だった。

「準備が終わりました、雪瑜様。いつでも向かえます」

 作業を統括している宦官が雪瑜に声をかけた。

 その宦官の歳はまだ二十代の半ばだろうか。

 痩身長躯の、とぼけたようなのっぺりとした顔つきだが、動きは機敏であった。

「おお、そうか。早いな」

「輿を用意しておりますので、雪瑜様はあちらに」

「いや、すまんがそれは使わんよ。これから自分が住む所だ。自分の目で眺めながら歩いてゆきたい」

「はっ。ではそのように」

「そういえば名前を聞くのを忘れていたな」

「臣は宇文 護景(ごけい)と申します」

「護景か。お前の仕事ぶりは気に入ったぞ。これから何かと雑務を頼むかもしれん。よろしく頼む」

 そう言って雪瑜は心付けを握らせようとしたが、護景は受け取らなかった。

「いけません。臣はただ命じられたことを行っただけですので」

「真面目な奴だな」

 雪瑜は十歳も年上の宦官が、世間知らずの小坊主のように金銭の授与を遠慮する態度に苦笑した。

「ではこうしよう、一つ個人的な願いがある。それを聞いてくれ」

「なんでしょうか?」

「私が表に出ていない間、玲を見てやってくれ。あれは愚図なところがある。が、護景が見ていれば安心だ。頼んだぞ」

 そう言って、雪瑜は無理やり護景に金を握らせた。

「さて、行こうか」

 宦官や宮女の一団を従えて、雪瑜は後宮に向って歩き出した。


 位の低い宮女は長屋のような建物で共同生活を送るが、九嬪ともなれば独立した住いが与えられる。

 新たな住まいは鳳巣館に比べれば小さいとはいえ、入り口には屋根の付いた棟門が置かれ、邸宅の造りもしっかりとしている。

 雪瑜が深呼吸すると、木の匂いがした。造られて間もない新築の匂いだ。


「皆よく働いてくれた。予定より早かろう。少し休んでいっても罰は当たるまい」

 雪瑜は引っ越しを終えると、作業を終えた宦官たちを呼び止めて、自ら茶を淹れた。

 異国の香りが立つ紅色の茶は、西方諸国からの貿易によってもたらされた貴重な品である。

 過分なもてなしは、立場の弱い新入りの宮女が宦官に媚びているように見えなくもない。

 だが、ここが人格と人間関係の妙で、雪瑜が給仕を行っても、宦官たちは雪瑜が自分たちの下風に立ったとは思わなかった。

 その立ち振る舞いはあくまで堂々としていて、上司が部下に料理を振舞ってやるような感がある。

「どうか私と玲を助けてやってくれ。必ず報いてやるからな」

 そう言いながら歯を見せて笑う雪瑜は、粗野な力強さがあった。

 生まれながらに貴門に生まれ、蝶よ花よと育てられた娘たちとは全く違う、

 この場にいた宦官たちの多くがこのとき、利をひたすらに求める宦官の本能とは一線を画す、全く別種の気持ちが、湧き上がってくるのを感じた。

 雪瑜の中に見出したものこそ、自分たちが陽根と共に失った“何か”であることに宦官たちが気が付くのは、もう少し後のことになる。

 ふわふわとした不思議な高揚感と共に、宦官たちは雪瑜の住まいから出て行った。


 風演は雪瑜の願いを聞き入れて、その住まいを恵徳妃の住まう宮の近くに置いた。

 恵徳妃は天香妃と皇后の座を巡って争っている、三妃のうちの一人である。

 ここで一旦、三妃について整理しよう。


 まず、恵徳妃だが、彼女は風演が皇太子だったときから、風演の後庭にいた古株である。年齢は風演と同じく三十三歳。

 風演の立場がまだ弱く曖昧だった時代からその傍にいた、糟糠の妻とも呼べる存在である。風演との間には二人の娘を儲けている。

 高官を幾人も輩出してきた家系の出自も申し分なく、一時は皇后の座を確実視されていたが、そこで待ったが入った。

 王朝の失政が続き、風演の精神が不安定になったところに、天香妃が現れたのである。

 見目麗しい天香妃はたちまち風演を虜にして、恵徳妃が皇后に就くことは一時棚上げになった。恵徳妃に男児がいなかったこともマイナスに働いている。

 天香妃が現れてから、恵徳妃と風演との間には隙間風が吹き、元来穏やかな性格の恵徳妃は、その状況を歯噛みしていた。


 さて、恵徳妃に劣らぬ名門の出自と、持ち前の強気な性格でライバルを押しのけて風演の寵を得た天香妃だが、彼女にもまた弱みがあった。

 どうも彼女は、体質的に子供が出来づらいのである。

 ここニ、三年ほど天香妃は風演の寵を独占し、何度も臥所を共にしていたが、男子はおろか娘さえできない。

 彼女が石女(うまずめ)ではないか、という疑問が内外から湧き上がっていた。

 親族たちの内で、自分に風貌が似た姪を後宮に送り込むという話があることを知ると、天香妃は激怒した。

『不愉快でございます。私が皇后になった暁には、今日そのように申した者を決して許しませぬ。それでも良いというなら、どうぞお好きになせれませ』

 という天香妃の怒りで震えた文字の書状が届くと、彼女の実家である伊氏の者たちはしぶしぶ計画を中断した。

 一旦はこのように事を収めたが、自分がこのまま子を産まなければ、いつかこの問題は再燃するであろうことは天香妃にも分かっていた。

 子がなくば皇后に登ることも難しい。

 だが、天香妃は基本的には自分の勝利を疑ってはいなかった。

 確かに懸念はあるが、恵徳妃のような、継嗣と定まる前の風演にたまたま近づいていただけの女とは違う、という自負がある。


 そしていま一人の三妃は孝淑妃という女であった。

 三妃のうちで最も年上の彼女の前身は、先帝の時代に昭国に滅ぼされた小さな国の王族の生き残りである。

 国家としては敵対していたとはいえ、王族の零落を見るのを不憫と思った前皇后が口添えし、風演の後庭に入れた女だった。

 孝淑妃は位こそ高いものの、後宮での実権はほぼなく、肩身を狭くして生きている。

 風演としても、容姿に魅力を欠いた孝淑妃をほぼ無視していた。

 ただ特筆すべき点として、風演が戯れに一度抱いた際に彼女は身ごもり、男子を出産している。

 箔と名付けられたその子は、何人かいる風演の息子の中では最も位の高い女から生まれた男子であった。

 


 護景やその他の宦官たちに金銭を握らせて、これらの情報を得た雪瑜は、最後に護景に尋ねた。

「なるほど。妃個人については分かった。それでは焦螟様はどう思っているのだろうか? 誰が焦螟様の推しか分かるか?」

 後宮を監督する焦螟の意向は、皇后を決めるうえで無視できない影響力を持つ。

 ところが護景は首を振った。

「焦螟様は主上の影に徹しております。私が見る限り、焦螟様が自らの意思で誰かを推しているということはありません」

「そうなのか? 私が聞いた話では、天香妃様はよく焦螟様の元に通い、何やら相談をしていると聞くぞ?」

「内侍省総監という立場である焦螟様が、上級妃である三妃と話し合うことは別段不思議ではないでしょう」

「だが、天香妃様が焦螟様のもとに訪れるのは、それだけが理由ではあるまい」

「……もしも焦螟様が職務以上の便宜を天香妃様に図ったとしたら、それは主上の御心が天香妃様に惹かれているからです。そうでなくばあの方は動きません」

「もしも、だ。た……」

 大家(ターチャ)と言いかけて、雪瑜は言い直した。

「た……陛下が三妃よりも位の低い者に心を寄せていた場合、焦螟様はどう思うだろうか?」

「初めに申した通り、あの方はどこまでも主上の意向に沿って動くでしょう」

「それを聞いて少し安心した」


 つまるところ、後宮も巷間(せけん)と少しも違ったところはないということだ。

 雪瑜はそのように解釈した。

 後宮内の宮女はみな階位が定められ、厳格な階級社会が形成されているように思える。

 だがそれは幻だ、と雪瑜は看破した。

 風演の寵を得た者、そして衆望を得た者は本来の官位以上の力を振るえる。

 逆に周囲に侮られた者は、本来の持っているはずの力すら振るえなくなる。

 三妃たちが良い例だ。

 本来対等であるはずの彼女たちには、明らかに格差がある。

 特段優れた功績があるわけでもない新参の天香妃は、先任の二人によりも大きな顔をして後宮を練り歩く。

 皇后になれたはずの恵徳妃は、その状況に手をこまねいている。

 皇太子になれるかもしれない男子を生んだ孝淑妃は、その子を冊立させる動きを見せず、ひたすら身を小さくして生きている。

 


 妃嬪たちの中で、この日新たに後宮に入った充媛(じゅうえん)に注目する者は殆どいなかった。

 後宮の中で争う麗しい蛇たちは、いま自分が対峙している蛇を相手にするのが手いっぱいで、新たに現れた小蛇のことなど眼中にない。

 だが、毒蛇の巣に投げ込まれるのが、必ずしも蛇だとは限らない。

 そのことを三妃を始めとする宮女たちは忘れていた。

 身を横たえていた者が臥龍であったと気が付くのは、いつだって龍が雲に足を掛けて昇った時である。


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