第十三回 陰に潜む蠱虫
住居を後宮に移した雪瑜は、贈物を携えて恵徳妃の住む北陽宮を訪れた。
「突然の訪問申し訳ない。新米の充媛が是非面会したいと言っていると、恵徳妃様に伝えてくれないか」
雪瑜は玄関口に現れた宮女にも丁寧に対応し、金を握らせて奥へ伝えるよう頼んだ。
ほどなくその宮女が現れて、告げた。
「恵徳妃様がお会いになると言っています。どうぞこちらへ」
雪瑜とその従者たちはしずしずと北陽宮の奥へと進んだ。
北陽宮の一室に恵徳妃は佇んでいた。
恵徳の名に相応しく、やや肥えた体つきの、柔和そうな女性であった。
太り過ぎというわけではないのだが、丸顔のせいで実際以上に太って見える。
「この度充媛を拝命致しました雪瑜と申します。恵徳妃にお目通りが叶い、光栄です」
雪瑜は恭しく揖礼した。
「貴方が例の仙女ね。ふっふっふ。天香妃を凹ませたっていう」
「や、それは誤解というもので……」
「ふふふ、なにが誤解なものですか!」
恵徳妃は雪瑜を見ると上機嫌な様子で、口元に手を当てて笑う。
会談は初めから和やかな雰囲気であった。
元々、恵徳妃がおっとりとした性格の女であるということもあるが、それだけでなく雪瑜を上手く使えば、再び皇帝の寵愛を取り戻すことができると踏んだからである。
──そうとも、私達には天香妃という共通の敵がいる。
あなたの派手なお披露目は、やりすぎだったわ。
満座の中で天香妃から陛下を奪うなんて。そりゃあ彼女は怒るでしょうよ。
ええ、貴方がここに来た訳は分かってますとも。私が天香妃から守ってあげる。
その代わり私に協力しなさい。そうすれば貴方の地位は安泰よ。
私が皇后に昇格した後……空いた三妃の位をあげてもいいわ。
と、恵徳妃は考えていた。
実際、それは半分当たっていた。
雪瑜もまた恵徳妃の庇護を期待して近づいたのである。
「仙女などと言われますが、本当のことを言えば、野からでてきた田舎者に過ぎませぬ。右も左も分からぬ故、恵徳妃様におすがりして、後宮での振る舞いなどご教示頂ければと考え、本日参りました」
「うっふふふ。それは殊勝ね。貴方、お歳はいくつ?」
「先日十七になりました」
「まあ、花も恥じらう年頃ね。分りました。不安なこともあるでしょうけど、困ったことがあるなら何でも私に相談なさい。ここでは私の方を姉だと思ってくれて構わないわ……ふふふ、母の方が近い年の差かも知れないけど」
「そのようなことは……」
「気にしなくていいのよ」
「ありがとうございます。恵徳妃様のお言葉に、もう一人の私も安心しております」
「ああ、髪が黒い方の貴方ね。いいわ、まとめて面倒を見てあげる」
恵徳妃としばらく歓談した後、綾絹、瑪瑙や翡翠の器などを贈り、雪瑜は北陽宮を後にした。
これでよし。ひとまず繋ぎはつけられたな。
だが、これだけでは雪瑜は安心しない。何事も初めが肝心である。
恵徳妃と面会した後、今度は護景に声をかけた。
「忙しいところ申し訳ないが、調べて欲しい物がある。頼まれてくれないか?」
「はっ。何を調べればいいのでしょうか」
「後宮が陛下の物になって以降、後宮で出た死者とその死因だ」
「……そ、それは」
何やら穏やかでないものを感じた護景は即答しかねた。
そのような物を調べて何をするつもりです?と、護景の目が訴えている。
「心配するな、ただ身を守りたいだけだ」
雪瑜は調べものを頼んだ意図を説明した。
「後宮では気に入らない相手に毒を盛ることなど日常茶飯事なのだろう?」
「いえ、そこまで頻繁にあることではありませんが……」
「それでも、ないわけではない。だから手口が知りたいんだ。どんな毒を使ったか、毒でなくともどのような方法で殺したのか。死因を調べれば見えてくる。場合によっては手を下した者もな」
「それはまことですか」
「場合によっては、だがな。殺す度に違う毒を用いる者はそう多くない。大抵の者は同じ毒を使うそうだ。疑いをかわす為、あえて違う毒を用いる者もいるが、それはそれで不自然に毒の種類がバラける。そこで特定の者がやったと分かるそうだ」
「誰にそのような話を聞いたのです?」
「仙遊宮にいた捕吏あがりの道士からだよ。まあ誰が私を殺そうとするかは大方の見当がつくので、そこはどうでもいい。それより今まで使われた毒だ。刺客を送り込んでくるなら返り討ちにしてやるが、毒を盛られたらどうしようもないからな」
「承知しました。しかし、記録を調べるのに少し時間がかかるかも知れません。それに他に何人か動かす必要があります」
雪瑜は宦官に頼みごとをする際には必ず金を握らせていたが、このときは普段より多くの金を護景に握らせた。
「これを使って調べろ、足りなかったら遠慮せずに言え」
「はっ」
雪瑜が後宮に入って初めにやったこと、それは守りを固めることだった。
恵徳妃の元に身を寄せつつ、情報を集め敵の攻撃に備える。
秘めた野心が彼女を突き動かしていた。
一方、後宮に存在する殆どの者は、このときはまだ欧陽玲と雪瑜という存在を軽視していた。
皇帝が目新しい妃妾の元に通うことは、これまでしばしばあった。
しかし彼女らは一時皇帝の興味を引いただけで、皇帝が飽きるとそのまま忘れ去られた。
皇后の座を巡る戦いは、つまるところ天香妃と恵徳妃の戦いである、と大半の者は考えている。
欧陽玲と雪瑜は皇后への挑戦者ではなく、巨人たちの戦いにおける駒の一つにすぎない、と誰もが考えていた。
それは雪瑜を受け入れた恵徳妃も、天香妃ですらもそのような認識であった。
この人はもしや……そう思っているのは、今はまだ密命を受けた護景だけであった。
玲/雪瑜が正式に後宮に入ると、二人の生活リズムにも変化が生じた。
以前は不規則に体を掌握し、心行くまで仙遊宮の中を探険していた雪瑜だったが、後宮に入ると人前から姿を隠すようになったのである。
鶴髪の乙女が姿を現すのは、護景に指示を出すとき、恵徳妃に呼ばれたとき、そして皇帝への夜伽の際ぐらいであった。
代わって長い時間に渡り表に出てくるようになった玲は、周囲に波風を立てることなく、粛々と日々を過ごした。
特に恵徳妃に対しては、まるで彼女の侍女の様に唯々諾々と随い、少しもその機嫌を損ねることがなかったので、恵徳妃はこの新しい充媛を気に入ると同時に、少し拍子抜けした。
話を聞く限り、もっと癖の強い女かと思っていたが、まるで借りてきた猫ではないか──。
恵徳妃にそのような思いがよぎる
ふと足元に目をやると、鼠を咥えた猫が庭先を横切った。
後宮には多くの猫が放たれている。観賞用ではなく鼠捕りの為である。
──いや、猫とてあのように爪牙を持って獲物を捕らえる。してみるに、欧陽充媛は猫より大人しい。彼女は全く牙を持たぬ。
さらに恵徳妃がその考えを強める出来事があった。
恵徳妃が後宮の中を移動する際はいつも四、五人の侍女がその後ろに続く。最近では、玲とその侍女が一団に加わった。
あるとき彼女たちが階段を上ろうとしていると、たまたま天香妃とその侍女たちが上の階から降りてきた。
階段が狭かったので、恵徳妃は立ち止まり壁に寄って、天香妃が過ぎるのを待った。
天香妃は恵徳妃たちを認めると、五段も高い所から恵徳妃を見下ろして言う。
「おや、これは恵徳妃殿、ご機嫌よう……」
「おはよう、天香妃殿」
天香妃たちは年上の妃をどかせて当然とばかりに階段を下っていく。
だが恵徳妃に倣い、壁際に寄っていた玲の傍まで降りて来ると、声を上げた。
「貴方、無礼ですわよ」
「え……」
いきなりそう指摘された玲はたじろいで、目を白黒させた。
さらに天香妃が追い打ちをかける。
「目上の者が下りてきたのなら階下まで降りて待つものです。貴方、そんなことも御存知ない?」
確かに儀式などの場ではそうするが、日常の中でそんなことはしない。
恵徳妃は、言いがかりに近い理由で絡まれた玲に助け舟を出した。
「まあまあ天香妃、その辺で勘弁しておやりなさい」
「恵徳妃、貴方がそのように甘い顔をしているから他の者が付け上がるのではなくて? 後宮の規律を弛ませる原因になるわ」
天香妃は恵徳妃に標的を変えた。
だが、恵徳妃も負けていない。むっとして反対に言い返す。
「後宮の規律のことを言うなら、天香妃、貴方こそ最近奢侈が過ぎるのではなくて? 先日弟に屋敷を買ってあげたと思えば、今度は金糸の羅だけを使った着物を作ったと聞きましたよ?」
「そんなことは関係ないでしょう!」
「いいえ。関係あるわ。今夏の日照りのせいで畑は乾き、地はひび割れたと、私は聞いておりますよ。その影響で、後宮の外ではまだ飢饉が続いている場所があるとか。そんな時に贅沢をしていたら周囲はどう思うでしょうね。陛下の御名に傷がつくかも知れませんよ」
「言わせておけば……」
天香妃は誰にも聞こえない声でそう囁くと、ふんっと鼻を鳴らして階段を降りていった。
二人が火花を散らしている間、玲は恵徳妃の後ろに避難して隠れていた。
天香妃の一瞥に恐れをなして、すぐさま退散する様子からは、とても皇后になるという覇気を感じない。
欧陽充媛は、初めから勝負を降りている。
いつしか恵徳妃はそう思い込むようになっていた。
だが、その裏で雪瑜は動き出していた。
半月後、雪瑜は護景から調査の報告を受けていた。
「いまの後宮とは関係ないと思われますが、まず陛下が皇帝になられた直後、先代の充容、婕妤、才人であった者三名が首を括っています」
「自死の理由は?」
「分かりませんが、恐らく殉死であろうということでした。尼として生きるこれからの人生に絶望したのだろうという者もおります」
「……早まったな」
雪瑜は嘆息した。
皇后や御子を生んだ一部の者を除き、後宮の主が変われば殆どの妃は強制的に出家させられ、世俗から切り離される。
亡き皇帝の菩提を弔う為、そして皇帝との秘事を外部に漏らさぬ為の措置だ。
が、実際は尼として数か月から数年過ごせば適当な理由で死んだことにして、別人としてこっそりと還俗させるのである。
数百人もの女を無為のままに過ごさせる無益さは、朝廷も認識していたというわけだ。
「その次ですが十年ほど前、陛下の初の男子を生んだ李昭儀が産後の肥立ちが悪く、出産後すぐ身罷られました。その時生まれた子も二年後に病で亡くなっています」
「……次」
「はっ。次の死者は五年程前ですね。この年、夔婕妤という者が亡くなったのを皮切りに、その半年後には荀美人が、さらにその二月後には辛昭儀が亡くなられています。また妃嬪ではありませんが、恵徳妃様の侍女である馮彗玉という女官も、辛昭儀と同時期に死亡しています」
「一年に四人もか」
「それも馮彗玉以外の三人は、陛下の寵を得つつあった女性だったということでした」
「それぞれの死因は?」
「記録の上では四人とも流行り病ということになっておりますが、医官の助手の話では。毒殺の疑いがあるということでした」
「四人ともか?」
「はい。死の間際の症状に不審な点が多く、とりわけ芫青紛の症状に似ていたということです」
芫青粉はハンミョウ科の昆虫が分泌する体液を乾燥させたもので、僅か数十ミリグラムで人間を殺す猛毒である。
「さらに翌年、つまり四年前にも妃嬪が二名、また恵徳妃様の侍女一名が、芫青粉と思わしき症状でこの世を去っております。ただそれ以降に死者は出ておりません」
「また恵徳妃の侍女、か。被害が集中している四、五年前に何か大きな出来事があったかどうか分かるか?」
「立場上は言いにくいことですが……」
護景が初めて言葉を濁し、口ごもった。
「構わん、言え」
雪瑜は先を促す。
「五年前は、天香妃様が後宮に入った年でございます」
「くぁ…」
雪瑜はたまらず空を仰いだ。
「天香妃がやって来た途端、大家に抱かれた妃嬪や恵徳妃の侍女が殺され始めたとこういうことか?」
「は……」
護景は俯きがちに頷いた。
「大家の寵に、恵徳妃の侍女ね……要するに、私が今立っている場所に立った奴は、みんな殺されているというわけだ」
「……如何いたしましょう、雪瑜様」
「今更、どうもこうもないわ。来るなら来いだ」
前々回くらいから、ちょっとづつ読みやすくなるように改行を増やしてみてます。
なんかまだ足りない気がする。




