第二話 ワールド・オブ・フレイムⅣ
「よいしょっ、と」
地下二階の脱出口を開け、上りきったアリアは再び茜色の夕日を視認する。
「……今日も出られたな」
同じように夕日を見上げた乾は、感慨深そうにそう呟いた。
「これからもずぅっとずぅっと出られるんじゃない?」
ニコニコと笑うアリアに、乾は「どうだか」と一蹴して斜面を下りる。
「だって、昨日も一昨日も出られたんだよ? 初めて抜け出した日はちょっと怖かったけど……」
慌てて乾を追いかけるアリアは、妖怪と、泣きじゃくる涙を思い出してニコニコと笑うのを唐突にやめた。
「油断大敵、だよ」
それがアリアの想像を遥かに超えた何かに対するものだと理解はしている。
「わかってるよ!」
だが、どんなリスクがあろうとも抜け出すことをやめようとは思わなかった。
何故なら──
「あ、さっくん!」
──あの公園に、朔那がいるから。
「……今日も来たのか。二人揃ってほんと仲良いな」
朔那はボロボロの黒いランドセルを下ろして今日もブランコの片側に座っていた。昨日と違うのは、くすんだ錫色の髪が寝癖なのか天然なのか無造作に跳ね上がっているところだろうか。
「同じ家に住んでいるからな」
朔那の青目に見つめられ、乾は腕を組みながらそう答える。
「はぁ? なんで」
だが、その問いかけには答えられなかった。不思議に思って乾を見ると、乾は微妙に困っている。乾が困っているならと、アリアも答えようとはしなかった。
そんな二人を見た朔那はため息をつき、「もういい」とそっぽを向く。
「さっくん! 会いたかったよー!」
安堵したアリアは朔那に駆け寄ろうとしたが、「来るな」と乾のように一蹴されてしまった。
「…………う」
「南雲、アリアをいじめるな」
「いじめてねぇよ」
「本人がそう思ったらいじめなんだ。いじめっ子思考なんだな、南雲は」
鼻で笑った乾に反論することはなく、朔那は無視を決め込んで。そんな変な空気を変えたくて、アリアは「ねぇ、どこかに行かない?!」と提案した。
「どこかって、どこ」
「それはさっくんの案内で!」
そっぽを向いていた朔那は、青目だけ二人の方を見つめて「なんで俺が」と抗議する。その返答はもっともだった。
「私らはこの辺のこと知らないからな」
「はぁ? この町に住んでるくせに知らないことはないだろ」
その言い方がアリアにはよくわからなかったが、乾が「ここは庶民の住む住宅地だろ?」と返すと朔那は納得したような声を出す。
「お前らどっかの一族か。だからそんなに常識外れなんだな」
「庶民の常識と私らの常識は違うんだよ。わかったら案内するんだな」
乾の上から目線な態度にハラハラしたが、素直に従った朔那を見てほっと胸を撫で下ろした。
「こっちだ」
「うんっ!」
乾ではなく、今度は朔那の後を追う。乾は何か言いたげな表情をしていたが、アリアの嬉しそうな笑顔を見て言葉にすることをやめた。
*
朔那が二人を案内したのは、住宅街と駅前の中間地点だった。家もあり、店もあり、帰宅途中の町民でここは夕方が一番賑わっている。
「……さっくん、これなぁに?」
「……お前、クレープも知らねぇの?」
広場に出ていたクレープ屋の前で足を止めたアリアに驚き、先を行っていた朔那は目を見開いて戻ってきた。
「うん! ね、ヌイ!」
「え!? い、いや……私は知って……」
「嘘だな」
「嘘だね」
「はぁっ?! い、いや、だから……!」
言い訳を探す乾はもごもごと口を動かしたが、アリアの興味は既にクレープ本体に移っていた。
「さっくん、私これ食べたい!」
看板に書かれたメニューを眺めて、アリアは勢いよく指を差す。
「だから?」
「買って!」
「自分で買えよ」
「お金持ってないもん」
まじまじと看板を見つめていたアリアだが、朔那からの返事が途絶えて振り向いた。
「…………さっくん?」
「…………わかった」
「やったー! さっくん大好きー!」
「うっわ、やめろお前!」
朔那をランドセルごと抱き締めて、アリアはぐるぐるとその場を回る。朔那は抵抗していたが、アリアの力には敵わなかった。
「ちょっ、お前ら人の話聞けよ!」
「ねぇねぇ、ヌイはどれがいー?」
「はぁ? あー……じゃあ一番高いやつ」
「だって、さっくん!」
「ふざけんな安物じゃねぇと買えねぇぞ」
「貧乏人かよ。なら、アリアと同じでいい」
朔那は舌打ちをしながらも、すぐにアリアがねだったイチゴクレープを買って二人に手渡した。
「うまー! ……あれ、さっくんのは?」
「いらねぇよ」
「えぇ?! そんなのダメだよ! せめて私と半分こしよ?!」
「おわっ?!」
ぐいぐいと朔那の口元にイチゴクレープを寄せるが、「食べかけじゃねぇか!」と言って朔那は一向に受け取らなかった。
「いらないって言ってるんだからそれでいいだろ」
「うぅ、ヌイがそう言うなら…………ッ?!」
瞬間、住宅の隙間で黒い塊が蠢いた。
動く塊は触手を伸ばし、魚のような目玉をぎょろぎょろと不規則に動かしている。アリアは言葉を失って、持っていたクレープを地面に落とした。
「なっ! おい、何落としてんだよ!」
朔那が声を上げるが、アリアも乾も朔那の言葉を聞かなかった。アリアの視線の先にいるものに気づいた乾はサトリの力で逃げ道を探し、「アリア、南雲! 逃げるぞ!」と手を振る。
それにかかった時間は、五秒もなかった。
「うん! ……あっ!?」
動揺していたアリアは足を縺れさせ、思い切り転倒し掌の皮を盛大に擦り剥く。膝もじんじんと痛みを上げるが、泣くのを我慢して死に物狂いで立ち上がった。
「あぁもう! 南雲、アリアを任せたぞ!」
「おい待てよ! さっきから一体なんなんだ!」
「いいから早く! アリア、安心しろ! あれは普通のやつにはたいした害を与えねぇから!」
「ッ?!」
逆を言えば、それは人工とはいえ半妖である自分たちの危機を示していた。
「チッ、わけわかんねぇ!」
何も見えていない朔那だったが、それでも二人の慌てっぷりに危険を感じてすぐさまアリアの手を引いた。白人のように白く細い腕だったが、それ以上に白くて細いアリアの腕は、少しでも力を加えるとあっという間に折れてしまいそうだった。
「こっちだ!」
妖怪から逃げることだけを考えて、乾は二人を先導する。が、乾が逃げた雑居ビル地区では、サトリの能力では見えていなかったものが待っていた。
「ん? おい、こっちの方なんだか騒がしくないか?」
「え? ……あ、ほんとだ」
「はぁ? ……ん、そういえば。逃げるのに夢中で気がつかなかったな」
妖怪が追ってこないと判断した乾は、足を止めて辺りを見渡した。そんな乾の視線の先を追っていたアリアはある音を聞いて身震いをする。
「……え?」
そして視界に入ったのは、血よりも赤い炎と──闇よりも黒い煙だった。
「おい、これって……」
「火事、かよ……」
動揺する二人。アリアの脳裏には両親の最期の声が響く。朔那の手を振り解いて耳を塞ごうとした刹那──
『助けてください! まだ子供が中に!』
──あの時の自分と同じような、掠れた叫び声が聞こえてきた。
「…………チッ。この人混みだ、あれはまだ向こうにいるがいつこっちに来るかわからねぇ。アリア、南雲。こっちだ」
「……あ、あぁ」
『誰か、誰か助けて!』
『おい、あんた! 危ねぇよ!』
『…………私が……私が助けないと! 子供が! 伊吹が!』
(あぁ、そっか)
刹那にわかってしまった。
あの日、あの時、あの場所で、自分は両親に助けられたのだと。そうして今を、生きているのだと。
「待って」
「ッ?!」
「ヌイ、助けようよ」
「な、なんで……? 助ける義理が…………」
「助けようよ。……だって、ヌイには全部視えてるんでしょ?」
乾は碧眼を見開いて、弱々しく項垂れた。
「でも……視えていても……」
「おい、お前らいい加減にしろよ。なんの話して……」
「ヌイ一人だけじゃないよ。私たちなら、助けられる」
「…………助けたって、私たちが助かるわけないし……あれが来るよ、きっと」
「見捨てるの? しかも、あそこにいるのは罪のない子供なんだよ?」
乾が勢いよく顔を上げた。
罪のない子供──それが乾の心の糸に触れたらしく、碧眼には迷いが断ち切られている。
「……わかった。やろう、アリア」
「ありがとう。さっくん、ちょっと危ないから……下がっててね」
アリアは朔那のランドセルを押したが、朔那はそれを下ろした。
「さっくん?」
「待てよ。だからお前ら、何話してんのかまったくわかんねぇつってるだろ」
「黙って見てろ。それしか南雲には理解できないだろ」
「ふざけんな。俺も行く」
「……はぁ?」
ぽかんと乾が口を開いた。
「どうして? 危ないんだよ?」
アリアも乾と同じだった。
「だから行くんだよ。お前ら常識ねぇし、お前らの方がよっぽど危なっかしいし」
当然困惑の方が強かったが、少しだけ心が弾んだのをアリアはちゃんと感じていた。上手く表現できないが、嬉しいのだと思って──またニコニコと笑った。