第二話 ワールド・オブ・フレイムⅠ
昼食を食堂で過ごし、午後の能力検査を終えて一号室に戻ることを許されてから、アリアと乾の小さな冒険は始まった。
二人で手を繋いで、鍵がかかる前に一号室を出る。アリアは乾が温かな手をしていることに気づき、自然と笑みを零した。
「いい? 絶対に音をたてないでよ?」
昼前はたくさん大声を出していたのに、変なことを言うなぁとアリアは思う。それでも乾の言葉には素直に従って頷いた。
一号室がある地下から上下の階へと続く階段前まで歩き、乾は一回足を止める。どうしたんだろうと思いこそっと乾の顔を覗くと、乾の碧眼はここではないどこかを見つめていた。
「……?」
右手を乾の顔の前でぶんぶんと振る。すると、目の焦点が合い始め、彼女は不快そうに眉間に皺を寄せた。
「気が散る」
「あ、ごめん?」
乾はそっぽを向いて階段の方を睨みつける。電気もなく光も射さない地下は薄暗く、一階からの光だけが階段から漏れ出ているような状況だった。
「邪魔な奴らはみんな二階にいる。けど、一階の正面口にはカメラがあるから、そこからは絶対に出られない」
「じゃあどうするの?」
やっぱり無理なんじゃ──そう思うアリアに乾は安心させるように頷いて、真下を指差した。真下には確か、亜子と小町の研究室があったはずだ。当然、五道の研究室もそこにあるのだろう。
「あんたが考えてるのとはちょっと違う。ええっと、さっき視たのは……やっぱ自分で見た方が早いからついて来て」
「諦めた!」
「しぃー!」
「しぃー……?」
乾に手を引かれて、上ではなく下へと進む。一号室がある階よりも地下に行くのは初めてで、アリアは密かに胸を弾ませてついて行った。
地下二階は地下一階よりも薄暗く、アリアと乾は壁伝いで移動する。構図は、地下一階と同じく長い廊下が広がっているだけだった。
「こっち」
「うんっ」
先を歩いていた乾が振り向く。暗くて表情がよく見えなかったが、笑った──ような気がした。
「ほら、ついた」
「ついたって?」
乾は廊下の再奥で立ち止まり、身を屈める。小さな掌で壁を押すと、壁が回って道が姿を現した。身を屈めて覗いてみると、その道はどこまでも続いている。
「うわぁっ、すごいすごいっ! 何これ?!」
「さぁ? 私は過去を見れないからわからないけれど、逃げ道っぽいよ」
乾の〝逃げ道〟という表現が引っかかり、アリアは道から視線を外して乾を見つめた。
「だから外に続いている。ここからなら、絶対にバレない」
乾は真っ直ぐにただただ正面だけを見据えており、アリアは乾に手を引かれるままに突き進む。不安はアリアが思っていた以上に存在しなかった。それは多分、とっくのとうに心を許している乾が傍にいるからだろう。
両親とアリアを引き裂いたあの火事の日以降、アリアは外に出たいと思わなくなっていた。悲しくて、一時的に保護された家で泣いていた。
それと同じ悲しみと不安をここで受けたアリアは、せめて乾の傍だけは離れないようにと強く強く彼女の手を握り締めた。
「……ここだ」
乾が真上を指差した。アリアが目を凝らすと梯子が取りつけられているのが見え、その先には重厚そうな扉もある。
「ここを上るの?」
「ここは地下だから」
「あ、そっか」
「先行くね」
握り締めていた手が解かれた。乾は振り返らずに上り続け、扉を思い切り押し上げる。瞬間、光が降り注ぎアリアは思わず目を細めた。
「そんなに高くないから、早く上ってきなよ」
乾の言う通り、乾が扉を開けた位置は思っていたほど高くはなかった。ただ、この光の温かさは外のものだ。だから外と繋がったということで間違いないのだろう。
アリアは出ていった乾の後を追うように素早く上った。顔を出すと、一番に香った草の匂いと土の匂いがアリアの目を覚ます。乾は枯れ草と落ち葉の上に座ってアリアのことを待っていた。
地面に足をかけて立ち上がる。赤く染まった木々の隙間から、茜色に染まった夕日が燦々と輝いていた。
「……きれい」
「うん」
「……これが、夕日」
「赤色、だね」
「……うん。そうだね」
「本当に綺麗だ」
アリアは大きく息を吸い込んだ。
土や草の匂いだけではない。木の匂い、太陽の匂い、動物の匂いが空気中に混じっている。
「って、は?!」
「っわ、びっくりした……。しぃー、じゃないの?」
「……う、ごめん。でもあんた、まさかとは思うけど夕日見るの初めてとか言わないよね?」
「…………」
目を見開いた乾は立ち上がり、アリアの隣に慌てて立った。同じ目線の高さにある碧眼を見つめたアリアは頷き、軽く首を傾げる。
「そうだよ?」
「え、嘘……」
「嘘じゃないよ? 私、よくわからないけど昔のことあんまり覚えてないの」
「え?」
両親を亡くし、五道の実姉の乙梅の元で過ごしていた日がアリアにはあった。記憶を失くしたことを気にする余裕もなく、ただただ泣いていた日だ。
「じゃ、じゃあ、なんなら覚えているの?」
「私の昔の名前と、パパとママが火事で死んじゃったこと」
乾の愕然とした表情の中の碧眼に、アリアの蒼目が一瞬映った。半開きの口から漏れ出る声を聞き逃さないように、アリアは静かに耳をすます。
「昔の、名前? あんたもそうなの?」
「そうって?」
何がそうなのだろう。
「私にも昔の名前がある。あと、お父さんとお母さんも亡くなってる」
「え……。そう、なんだ……」
「じゃなきゃ、こんなとこに預けられてない」
アリアはすぐに納得した。ここは両親を亡くした子が来る場所だと乙梅に教わったのを忘れていたのだ。
「ねぇ! 名前! なんていうの?」
「は? ……乾」
「それだけ?」
「だぁーかぁーらぁー、上の名前が昔の名前なんだってば。もう捨てた名前だけど……そう言うあんたは?」
アリアは少し迷った。乾がどちらの名前を求めているのかを考え、答えを出す。
「私は有愛! 十一歳っ!」
「私は十二歳。……よろしく」
昔の名前を乾は言わなかった。だからアリアも言わなかった。
手を差し出す乾の手を再び握り締めて、アリアは大きく破顔する。
「うんっ! よろしくね、乾っ!」
「ッ?! ……うん、ありがとう。アリア」
何が〝ありがとう〟なのか、アリアにはよくわからなかった。だが、不器用な乾の笑顔を見ることができたからなんでもいいやと心から思った。
「笑ったね!」
「うぇっ?! チッ、そういうアリアも笑ってるだろーが!」
「えへへ。今日は初めてだらけの日だね!」
「そうだね」
乾はアリアの背後に視線を向ける。そこには、木々に隠れた斜面の上にクリーム色の養護施設が建っていた。
「行こう。どこがいい?」
「うーん。私この町のことあんまり知らないから……」
「そっか。じゃあとりあえず近くの公園でいいよね? ……あるかな」
「うんっ! さんせー!」
透視する乾の後ろを飛び跳ねながらアリアは歩く。乾がいれば、どこまでも行けるような気がした。この町の外、この国全体、そして世界にまで手が届くような気もしていた。
しばらく山の中の斜面を下りていると、アスファルトの道路に出た。車が何台も通っていて、亜子と小町が二人に着せた白いワンピースが風で揺れる。
「公園までそんなに時間はかからないけど、急ごう。晩飯に遅れたらマズいから」
「まだバレてない?」
「平気。あいつらは今日の成果を纏めてるから、私らのことなんて気にかけてない。桐也と涙は帰ったし、あの男は晩飯作ってるしね」
「良かったぁ」
アリアはほっと胸を撫で下ろした。
乾の言葉ならばどんな非現実的な話でも信用できる。他愛もない会話を続けているといつの間にか住宅街に入って、やがて乾は足を止めた。
「あっ、ついたぁー!」
遊具に向かって走ると、履き慣れていないサンダルが小石に当たってバランスを崩す。
「わっ」
砂の上で盛大に転び、慌てて駆けつけた乾に素早く起こされた。
「あぁもうアリア! 汚すなよ、バレねぇモンもバレちゃうだろ!」
「う、うん。ごめん」
砂を払い落としてもらい、アリアは白いワンピースを見回す。ほんの少しの汚れはあっても、破けてはいなかった。
「だっせっ」
「ッ?!」
突然聞こえてきた声に思わず顔を上げる。
ブランコで遊ぶわけでもなく、ただそこに座っていたのは、同い年くらいの少年だった。黒いランドセルを背負った少年は、鋭い目つきでアリアと乾を睨みつけている。
「誰だよ、あんた」
「は? なんで名乗んなきゃいけないワケ?」
少年は鼻で笑って、灰色に近い捨てられた小動物のような錫色の髪を掻き上げた。
「チッ、めんどくせぇヤツだな」
「……そうだ! ねぇ、君も遊ぼーよ! 私は有愛!」
アリアはどうしてもその少年を放っておくことができなかった。
ニコニコは世界を救う。にぱっと笑い、アリアはそんな少年に怯むことなく近づいていく。
「君の名前は?」
少年は、乾の碧眼でもアリアの蒼目でもない青色の瞳を見開いた。その瞳にはアリアのみが映っていて、少年はゆっくりと、色白い唇を動かす。
「……南雲、朔那」
「名乗るのかよ」
「チッ、うるせぇな。てめぇは誰だよ」
「乾」
朔那は乾を一瞥し、ふんっとすぐにそっぽを向いた。乾が眉間に皺を寄せるのを見たアリアは、慌てて朔那に声をかける。
「ねぇ! さっくんは何をしてたの?」
「ッ?! さっ、くん……?」
勢いよくアリアの方を向いた朔那は、あんぐりと口を開けたまま何も言わなくなってしまった。乾は朔那を鼻で笑い、「かわいいあだ名だな、南雲」と揶揄う。
「はぁっ!? なんなんだよ、お前ら!」
「ふんっ。あんたこそなんなの?」
「ちょっ、ケンカはダメ! そんなことよりも一緒に遊ぼうよ!」
「アリア、遊びに来たわけじゃないでしょ?」
「あう?! ……うぅ、ごめんなさい」
「別に謝んなくてもいいけどさ」
二人の喧嘩を止めることも遊ぶこともできないと知ったアリアは、自分の無力さを思い知った。五道から向けられた〝兵器〟という言葉が脳内をぐるぐると駆け巡って、心が急に重くなる。
「…………」
「…………」
「…………一回だけだぞ」
「…………遊んであげる」
朔那と乾がそう言葉を発したのは、ほとんど同時だった。
「ほんとっ? やったぁ! さっくん、ヌイ、大好きっ!」
二人が喧嘩を止め、同時に遊ぶことを約束してくれただけでもアリアの心は一気に軽くなる。思わず乾を抱き締めて、すぐにブランコに座る朔那を覆うように抱き締めた。
「なっ?! はっ、離れろバカ!」
「ちょっ!? ヌ、ヌイって何!」
振り返ると、顔を赤らめた乾がいた。
夕日のせいとは言い難いそれに、アリアは歯を見せてニコニコと笑う。
「ふんっ。かわいいあだ名だな、乾」
「殺す!」
「照れてんじゃねぇよ」
「なっ?! 照れてないし!」
仕返しと言うように乾を揶揄う朔那の姿は、数分前に出逢った朔那よりも生き生きとしていた。
くすんだ錫色の髪と青い瞳。白人のように白い肌に細い体。それを強調するかのようなぶかぶかの洋服にボロボロの黒いランドセル。
アリアが一目見て放っておけないと思った朔那は、そんな朔那だった。
「あははっ! 私、ブランコで遊びたいっ!」
乾を無理矢理引っ張って、アリアはもう一度ブランコの周囲に設置された柵の中に入る。朔那は一気に近づいた二人に一瞬だけ身を引いたが、何も言わなかった。
茜色の夕日が徐々に傾いていく。
久しぶりとも思えるが、乾にとってもアリアにとっても、外の景色と離れていた時間は一週間もなかった。それでも弾む心を何よりも大切に抱き締めて、アリアは何度でも、ニコニコと笑った。