第18話
バリケードを越えて学校の敷地に足を踏み入れると、最初に目に飛び込んできたのは、遠巻きにこちらを窺う、いくつもの不安げな眼差しだった。
老人や、女性、小さな子供を抱えた母親らしき人々が、校舎の陰や体育館の入口から、じっとこちらを見つめている。誰も声をかけてこようとはしない。ただ、遠くから、値踏みするような、それでいてどこか縋るような視線だけが、こちらへ集まっていた。
考えてみれば、無理もなかった。まだパンデミック発生から二日目の昼過ぎ。昨日この学校へ避難してきたばかりの人々にとって、今日、目の前でゾンビの大群に襲われるところを目撃したのだ。その恐怖が、簡単に消えるはずもない。
「――こっちです」
案内されるまま、校舎の敷地を歩いていく。足元には、避難の際に落としたのだろう、上履きや鞄が転がったままになっていた。誰かが泣いている声も、遠くから微かに聞こえてくる。皆川が、その光景に痛ましそうに眉を寄せているのが見えた。
体育館の中は、緊急避難場所として、大勢の人でひしめき合っていた。ブルーシートの上に座り込む家族連れ、うちわで顔を扇ぐ老人、壁際に積み上げられた僅かな支援物資。蒸し暑い空気の中、あちこちでペットボトルの水を回し飲みする姿も見えた。それでも、見た限り、大怪我をしている者はいないようだった。避難する際に転んでできたらしい擦り傷や打撲――精々、その程度の軽傷ばかりだった。
むしろ、怪我をしているとすれば、たった今戦ってきた俺たちの方かもしれない。
「校長先生! 例の戦闘に参加してた人たちが、こっちに来てます!」
校舎の方から、そう叫びながら誰かが駆けてくる声がした。それから間もなく、校舎の入口から、白髪の混じった、恰幅の良い老年の男性が、慌てた様子で飛び出してきた。息を弾ませながら、こちらへ足早に歩み寄ってくる。
「まずは、保健室で怪我がないか診てもらいなさい」
開口一番、そう声をかけてきた。長年、大勢の生徒を見てきた者特有の、有無を言わせない落ち着きが、その口調には滲んでいた。だが、その目の奥には、隠しきれない疲労と緊張の色もある。
その言葉に頷きかけたところで、彼の視線が、俺たちの中の見慣れない顔――大宮や白鳥ではない面々に留まった。一瞬、探るような間があった。
「君たちも、避難してきたのかね?」
「はい、一応、そうです」
赤堀が、そう答える。
そこへ、一人の男性教師が、足早に歩み寄ってきた。恐らく、先ほどバリケードで最初に対応してくれた人物だろう。息を切らしながら、彼は校長の傍まで来ると、その耳元に何事かを囁いた。
校長の表情が、目に見えて驚きに変わる。眉が上がり、一瞬、言葉を失ったように口が半開きになった。だが、それも一瞬のことだった。すぐに我に返ったように居住まいを正すと、小さく、しかし確かに頷いた。
「中で、詳しい話を聞かせてもらおう」
教師の方が、皆に向けて声をかける。
「大宮たちと、そちらの方々は、我々と一緒に来てもらえますか」
そのまま数人が保健室の方へ分かれていくのを見送りながら、俺たちは校長と教師の後に続いた。
校舎の廊下は、外の喧騒が嘘のように静かだった。窓の外から差し込む光の中に、埃がちらちらと舞っている。
すれ違う教職員の顔には、一様に色濃い疲労が滲んでいた。無理もない。突然の事態に、避難民の誘導、生徒たちの点呼、物資の配分――ろくに眠る間もなく、この二日間、休みなく動き続けてきたのだろう。まだ二日目だというのに、その目の下には、何日も溜め込んだような濃い隈が浮かんでいる。すれ違いざま、こちらへ向ける視線にも、驚きや警戒より先に、ただ疲れ切った虚ろさの方が目立った。校長室までの短い道のりが、やけに長く感じられた。
校長室に通されると、まず口を開いたのは校長だった。デスクの向こうではなく、あえて手前のソファに腰を下ろし、俺たちと視線の高さを合わせるようにしてから、静かに切り出す。
「――改めて、名乗っておこう。この学校の校長をしている、篠崎だ。うちの生徒たち、それに、先ほどの戦いに参加してくださった皆さんに、感謝を伝えたい」
そう言ってから、校長の視線が、大宮と白鳥へと向く。その眼差しには、安堵と、それを上回るほどの心配の色が浮かんでいた。
「お前たちが無事で、よかった。今朝、いなくなったと聞いて、心配していたんだぞ」
その一言に、大宮と白鳥は、揃って深く頭を下げた。
「勝手なことをして、すみませんでした」
「ごめんなさい」
「頭を上げなさい」
校長は、静かにそう促してから、続けた。
「――他の四人は?」
その問いに、場の空気が、目に見えて張り詰めた。誰も、すぐには口を開けなかった。
「失礼」
赤堀が、静かにそう言って、会話に割って入る。
「その件については、私から話させてもらいたい。学生が口にするには、いささか荷が重いと思うので」
その一言だけで、校長は何かを察したのだろう。表情が、はっきりと強張るのが分かった。両手が、膝の上で軽く握りしめられる。
「――それって、もしかして……」
「はい」
赤堀は、一切の言葉を飾らずに、そう告げた。
「残念ながら、他の四人はゾンビに襲われ、亡くなりました」
俺たちの誰もが、その一言に、暗い顔を伏せた。部屋の中に、重い沈黙が降りる。
大宮は、ただ小さく「ごめんなさい」と繰り返していた。膝の上で握った拳が、白くなるほど強張っている。時折、「――俺のせいです」という呟きが混じった。隣に立つ白鳥は、そんな彼の様子を横目で見ていたが、慰めの言葉一つかけなかった。視線を合わせようともせず、ただ、じっと前を見つめている。
無意識のうちとはいえ、一度は彼の力に操られていた身だ。もしかしたら、あのまま命を落としていたかもしれない――そう思えば、かける言葉など、彼女の中には残っていないのだろう。
校長が、「大宮、白鳥……」と言いかけたところで、赤堀が代わりに説明を引き継いだ。
俺たちのグループが、元々は昨日、避難の途中で大量のゾンビに遭遇し、避難所へ辿り着けなかったこと。近くのスーパーへ逃げ込み、一夜を明かしたこと。今朝、夜明け前に大宮たちが現れたが、店の前がゾンビで埋め尽くされており、彼らが取り囲まれてしまったこと。何とか助けようとしたが、全員を救うことはできず、四人が命を落としたこと。
その後、大宮からこの学校のことを聞き、目指すと決めてここまで来たこと。到着した時には既に戦闘が始まっており、自分たちも参戦したこと。そうして、今に至ること。
赤堀は、淡々と、しかし丁寧にそれを語った。校長は、時折目を閉じながら、最後まで黙って耳を傾けていた。
話を聞き終えると、校長は、隣に立つ教師と一度目を合わせた。それから、緊張した面持ちで、こちらへ向き直る。
「失礼ですが。先ほど、沢田先生から聞いた、超能力……というのは、本当なんですか」
その問いに、俺たちは思わず顔を見合わせた。
「――ええ、まあ。確かに、超能力ってことになるんですかね」
赤堀が、乾いた笑いと共にそう答える。改めて言葉にすると、いかにも子供じみた響きに聞こえてしまう――そのおかしさに、耐えきれなかったのかもしれなかった。
「実際に、見ましたよ」
沢田が、横から口を挟んだ。
「バリケードの向こうから見ていましたが……あの女性の方が振るったバットで、遠く離れたゾンビまで斬れていくのを、確かにこの目で。それに、あちらの男性は、頭が弾け飛ぶような一撃を、何度も」
その言葉に、校長の表情が、一段と険しくなった。
「にわかには信じ難い話だが。沢田先生がそう言うのなら、疑う理由もない。それで……その力は、一体どこから」
「――それは、その」
赤堀が、珍しく言葉に詰まった様子で、視線を泳がせる。説明の糸口を探しあぐねているのか、口を開きかけては、また閉じることを繰り返していた。
その様子に気づいた俺は、隣に立つ紗夜と、一瞬だけ目を合わせた。彼女も、小さく頷き返してくる。
「欠片、です」
俺は、赤堀に代わってそう答えた。
「ゾンビを倒すと、石のようなものを落とすんです。それを口にすると、覚醒する。俺たちが持っている力は、全部、それが元になっています」
「――覚醒、ですか?」
校長が、その単語を確かめるように繰り返す。
「では、その石さえあれば、誰でも同じような力を?」
「可能性は、あります。ただ、どんな能力になるかは、人によって違うみたいで……正直、はっきりとは分かってないんです」
そう言いながらも、内心では、少し違うことを思っていた。
――多分、ある程度は、望んだ能力に近いものが出るんじゃないか。
自分自身がそうだったし、紗夜もそうだったように思える。だが、それを裏付ける根拠と呼べるものは、まだ何もなかった。だから、あえて口には出さなかった。
「なるほど……」
校長は、腕を組み、しばらく考え込むような様子を見せた。その視線が、ちらりと大宮と白鳥の方へ向く。二人もまた、その力によって覚醒した身なのだと、今更ながら思い至ったのかもしれない。
「――失礼ですが。その石、今もお持ちですか?」
「ええ、いくつか」
俺は頷き、インベントリを開いた。目の前の空間から、小さな紫色の欠片を一つ取り出す。
「これです」
手のひらに乗せたそれを、校長と沢田の前に差し出した。
二人の視線が、揃ってその小さな石に注がれる。校長は、しばらくの間、食い入るようにそれを見つめたまま、動かなかった。




