~彼女とは~
彼女side
「起きて?」
声がきこえ、目を開けると彼が私の顔を覗き込んでいました。さらさらとした茶色の髪が私の目の前で揺れます。私はとりあえず、
「……おはよう」
と挨拶しました。彼はにっこりと微笑んで、「おはよう」と返してくれました。温かい手に引かれ、電車を降りて改札を抜けると、目の前に広がっていたのは黒い水が沢山溜まっている場所でした。
これが『海』なのでしょうか? 彼が言っていたものと随分違う気がします。
私は彼のことを何も知りません。夏休みの間だけ一緒に過ごす男の子。そのくらいの認識でした。その認識はいつ頃から変わったのでしょうか。いや、最初からだったかもしれません。
私は彼に『恋』をしました。
彼は全く、私の気持ちに気づいてくれませんでしたが。
彼が夏になって姿を現す度に、嬉しさが込み上げてきました。私の歌を静かに聴いてくれる姿を、愛していたように思います。私の歌が終わり、瞼を上げて「良かったよ」などと褒めてくれると、家での不満が何処かにいったような感覚がありました。
私の家はこの町で一番力のある名家です。その家の次の当主に選ばれたのが私でした。私しか跡継ぎ候補がいなかったのですから、しょうがないと言えばしょうがないです。そう思っていました。でも、それは彼に出会うまで。
彼に出会ったのは私が七歳になったばかりのときです。私が歌っていると、木の陰からぴょこんと現れて、いきなりこけたのがたのが彼でした。彼は
「ご、ごめんね。邪魔しちゃったよね……」
と笑いながら私を見上げていました。突然の観客に私は驚きましたが、
「大丈夫よ。それより貴方はこけていたけれど、何処か痛いところはない?」
と言いました。彼は
「大丈夫。ありがとう、心配してくれて」
と返し、
「歌上手だね! 僕に何か聴かせてよ」
とねだってきました。その愛くるしい姿、瞳にくらっときて、私は夕方まで歌い続けました。
日が傾き、私と彼の影が濃くなると、彼は
「また明日も来くるよ!」
と手を振りながら帰って行きました。
その夏も、その次の夏も、その次の次の夏も、その次の次の次の夏も、私たちは毎日一緒に過ごしました。
彼は「学校が会っても毎日これるから大丈夫」と言ってくれましたが、それはできませんでした。夏休み以外では私も学校に通い、次期当主として学ぶべきことが沢山あったからです。
彼と私の世界は違う。そう、言いきかせました。
第一、夏休み以外だと外に出してもらえるのは学校に行くときだけでした。交友関係すらも制限され、肩身の狭い毎日を過ごします。
夏休みになると彼と一緒にいられるので、そのことだけを楽しみに毎日を乗り切りました。
しかし、彼と過ごす四度目の夏。彼は夏休み最終日に引っ越しをすると言いました。そのとき、私には何と言われたのか理解できませんでした。それが理解できると、一気に今までの思い出が、頭の中を駆け巡りました。涙が出てきそうになり、一番星を探すふりをしました。彼も空を見上げました。
その夏から、彼は本当に来なくなりました。それから、私は彼を求めるように歌い続けました。夏休みになると毎日、毎日。でも、彼は帰っては来ませんでした。何度、彼を思い出して頬を濡らしたでしょう。もう、わかりません。わからないくなるほど泣きました。
そして、つい昨日。彼は戻って来ました。
彼は七年前に別れたときからかなり成長して、私より大分背が高くなり、おどけなさは残しつつ、たくましく育っていました。
けれど、私は彼を受け入れることはできませんでした。次期当主となるまで時間があまり残されてはいませんでしたし、親に結婚相手を探しておくと言われてしまったからです。いわゆる政治結婚とか、戦略結婚とかでしょう。私はもう、親に逆らうことが全くできなくなっていました。
だから、私は彼を拒みました。しかし、彼は次の日私の家まで来て、私をあの牢屋のようなところから連れ出してくれました。抱きしめてくれた体は、幼い頃何度も慰める為にしたことは、七年経っても感覚が同じでした。彼の確かな温もりが私の『今まで』を優しく崩していきました。
執事やメイド、御父様から逃げて、乗った電車で私は深い眠りにつきました。夢は見ませんでした。彼と別れ別れになってから見た、長い長い階段を登るだけの夢は見ることはありませんでした。そして、彼の声で目覚め、今、私は彼の背中の上で目をまた閉じています。運動不足にも関わらず走ったので、足が痛くてあまり歩くことができなかったからです。彼は私を見かねて、
「乗ってよ」
と言ってくれました。
彼の背中は落ち着きます。このまま一生、彼と一緒に生きていきたい。改めてそう思いました。




