第8話 ハンコをください
「フェングラン様ぁぁぁ……魔王様ぁぁぁ……」
茂みが、いきなり喋った。
「うわ、出た」
「魔王様、化け物みたいに言わないでください……。ベリアルです……」
茂みをかき分けて這い出てきたのは、もはや人間なのか判別に困るレベルでボロボロになったベリアルだった。スーツは泥だらけ、片方の靴がない、髪には葉っぱが大量に刺さっている。おまけに白目を剥きかけている。
「お前、生きてたのか?」
「生きて……います……多分……」
言い切る前に、ベリアルはその場に崩れ落ちた。地面に突っ伏したまま、ピクピクと指先だけが動いている。カブトムシの末路みたいだ。
「セレナ、回復魔法」
「あら、わたくし敵にはあまり優しくしない主義なんですけど」
「敵っていうか、もう戦意ゼロだろこれ」
セレナが渋々といった様子で光を放つと、ベリアルの体がわずかに持ち直した。むくりと上体を起こし、まず最初に発した言葉が、
「ハンコを……」
だった。ブレない。
「まだ言うか?」
「言います……。私にとって、ハンコは命そのものなので……」
「重すぎる」
「魔王様、聞いてください……」
ベリアルが、涙目でエレンの足元に縋りついた。ドン引きするフェングランたちをよそに、切々と語り始める。
「魔王様が決裁をなさらないと、城の予算が一切執行できない仕組みになっておりまして……。今月分の、職員たちの給与が……」
「給与?」
「支払われていないんです。全員分」
一瞬、その場の空気が凍った。
「え、それってお前も含めて?」
「私も、です」
「うわ、ブラックすぎる」
「魔王領がホワイトなのは、あくまで治安面だけです……。経理は、ずっとこんな調子で……」
エレンの顔から、初めて茶化す余裕が消えた。
「……知らなかったわ、そんなの」
「知らなくて当然です。私が全部抱え込んでいましたから」
「じゃあ何、あんた、給料もらえてないのに、あたしを80キロで追いかけてきたわけ?」
「はい」
「バカじゃないの!?」
「よく言われます」
やけに晴れやかな顔でベリアルが言う。もはや達観の域だ。
「フェングラン様、名案はありませんか?」
セレナが無責任に話を振ってくる。
「なんで俺に振るんだよ……。まあ、あれだ。今すぐ城に戻れって言われても、俺たちも予定があるし」
「俺たち、って、あたしの予定に合わせただけでしょ」
「細かいことはいいんだよ。ベリアル、書類、持ってきてるだろ」
「もちろんです。常に持参しております」
ベリアルが泥だらけの鞄から、うんざりするほど分厚い書類の束を取り出した。異世界基準で見ても、なかなかの分量だ。
「これ全部?」
「今月の未決裁分、全てです」
「全部はさすがに無理だろ。とりあえず、給料関係のやつだけ出せ。それだけ、この場で片付ける」
エレンが露骨に嫌そうな顔をした。
「え、あたし今すぐ帰らなくていいの?」
「帰らなくていい。必要な分だけ、ここで押せ」
「本当? やった」
「その代わり、給料はちゃんと払え。ベリアルが可哀想すぎる」
「わ、私のために……!」
ベリアルが再び泣き崩れそうになるのを、セレナが冷静に押しとどめた。
「はいはい、感動シーンは後にして。時間がもったいないので、さっさと押しましょう」
道端に折り畳み式の携帯用文机(ベリアル私物)を広げ、エレンが渋々ハンコを構える。
「めんどくさ……。これ、何枚あるのよ」
「二十七枚です」
「多っ!」
「押すたびに『押したわよ』って言いながら押すの、やめてもらえます? 微妙に腹立つので」
「事実じゃない」
ゴン、ゴン、ゴン、と乾いた音を立てて、書類の山が次々と処理されていく。エレンは押すたびに「押したわよ」と呟き、セレナはそのたびに「はいはい」と流し、フェングランは横で人参をかじりながら見守っていた。異世界の路傍で繰り広げられる、実に地味な決裁風景。
「終わりました……。ありがとうございます、ありがとうございます……」
「重い重い。抱きつくな」
「魔王様ぁぁ……!」
がっちりとしがみつくベリアルを引きずりながら、エレンが振り払おうとする。
「離れろって。あと、あたしはまだ帰らないからな」
「承知しております。ですが」
ベリアルが、涙を拭いながら立ち上がった。心なしか、さっきより顔つきがしっかりしている。
「今後は、定期的な書類仕送りと、状況報告だけはさせていただきます。連れ戻すのは……もう、諦めました」
「諦め早くない?」
「80キロで走った先に、これですから。私の心は、もう折れる場所すら残っていないんです」
清々しいまでの折れっぷりだった。
「じゃあ、これからは何、お前? お目付け役?」
「便利屋、とでも思ってください」
「一番使いこなしにくい肩書きだな、それ」
ベリアルは満身創痍のまま、それでも律儀に一礼して、来た道を戻っていった。片方だけの靴で、器用に80キロは出さない普通の速度で。
「……なんか、あいつだけ苦労してんな」
「フェングラン様が言うことではないと思いますよ」
「否定できない」
俺たちは何事もなかったかのように、次の街を目指して歩き出した。ベリアルの給料問題という、地味だが確かな爪痕を残しながら。




