52話 届いた思い
可南の瞼がうっすら開いた。虚ろな瞳に不安を覚えて龍はすぐに声をかける。
「大丈夫ですか?」
未だ夢の切れ端を引きずっているような速度
で可南は視線を龍に移した。
「これを見てもらいたいんです」
龍は可南に一冊のノートを差し出した。グダグダと説明をしているうちに可南の頭が働き始めたらまたよくない事になる。そう予想して、龍と薫は早々に物を渡すことにした。
そのノートは表紙に綺麗な蝶の写真が載っている、よく見るタイプの学習帳だった。
「……ノート?」
「そう、灯里さんの。貴方が知らなきゃいけないことが書いてあります」
可南はノートを受け取り、小学生らしい不器用な文字を追いながらめくっていく。
「これ、アイディアノート? 何してんのこんな所に……俺の、ことばっかり」
「灯里さんのお母さん言ってましたよ。今、可南さんが生きて幸せでいられるなら、灯里さんも嬉しいと思うって。だってこんなに貴方の事──」
「俺の事を……何? そんな事頼んでないんだよ!……どうして」
自分の命を投げ打ってまで向けられた無償の情愛は、可南にとって受け入れがたいものだった。
彼女のために初めて泣くだろうその姿を見ていられずに、龍と薫は目くばせをして寝室を出ようとした。
ドアを閉める間際、龍はふと手を止める。
「逆の立場だったら……きっと貴方も同じ事をした。そういう、事じゃないですか」
返事は返ってこなかった。それでも、聞こえてはいるはずだと思い龍は静かにドアを閉めた。
◆◇◆◇
「……キツいですね。何か変わるかな」
神妙な顔をして、ため息混じりに薫が零した。
「どうでしょうねぇ。人の感情っていうのは何とも、思い通りにはならんもんですから。今日明日でパッと切り替わるもんでもないでしょう?」
自分を守るために封じ込めていた記憶と真実をいきなり突きつけられたのだ。簡単に整理がつくはずがない。
二人は十分に時間を置いてから寝室へ戻った。
◆◇◆◇
寝室に入ると可南は何か考え込んでいるようだったが、こちらを見ずにポツポツと話し始めた。
「俺は灯里と一緒に帰ってた。すごい土砂降りの日で、俺が前を歩いてて、後ろに彼女がいた。それで、横断歩道の手前で彼女が俺を呼んだ……と思ったら突き飛ばされてた」
そこで一回言葉を切って、可南は目を伏せた。
「俺は水溜りを踏みながら歩いてて気が付かなかったんだけど……多分彼女には俺に向かってくる車が見えたんだ」
龍と薫は相槌を打つのも憚られ、静かに話に聞き入っていた。
「ものすごい衝突音がすぐ後ろからした。ひどい耳鳴りがして……何が起きたか分からなかった。振り向くと、彼女は塀と、車の間に。………髪も、手と、足の位置も、血も……もう。俺のせいで」
吐き出す言葉の一つひとつが、重くその場に沈んでいく。
「気づいたら公園にいた。ずぶ濡れだし足を擦りむいてて、変だなって思いながら家に帰った。その後はしばらく風邪ひいて寝込んでた。……公園にいた時点で、灯里のことは無理矢理忘れてたんだと思う」
絞り出す声の端々から罪悪感が溢れていた。龍はたまらず口を挟む。
「あのノートを見れば、彼女が貴方をどう思っていたのか分かる。本当に大事なものを守れたなら、それで何が起きたって『よかった』って思えます。自分からすすんで動いたのに、相手を恨んだりせんでしょう?」
「恨むなんて、灯里が思うはずなかった。でも……それでも、生きてて欲しかった。だって本当なら、今度は僕が助ける番だった。……僕が」
「……そうですね」
「今日はもう帰って」
今初めて、この過去と向き合ったのだ。記憶や感情を整理する時間が必要だろう。そう思った二人は軽く挨拶をすると可南の家を後にした。
◆◇◆◇
帰宅中、夜の湿った空気が薫と龍の間を通り抜けていく。歩調を合わせながら進む道すがら、薫が先に口を開いた。
「可南さん喋り方変じゃなかったです?」
「ええ。頭の中が散らかってるんでしょうね」
「龍さん動じませんね? 似た経験でもあるんですか?」
「や、ないっすよ。経験なんかないから分からない。でも……あの人自身のことなら多少は分かる。だから変化や差異から予想してるだけです」
「そんな何でもない事のように。大変なことですよそれ。本当に好きなんですね~。告白はしないんですか? 可南さんいつでもフリーですよ」
「何か薫さん楽しんでません? 目がニヤついてるのが気になるんですわ」
「だから元からこの顔ですって」
「でも、あの人はいつでもフリーとかでなく、そういう相手を欲していないのが見てて分かるんすよね」
罪悪感に苛まれ、自分を罰することでしか存在を保てなかった可南にとって、「愛する」「愛される」なんて感情は考える余裕がなかっただろう。その不器用さを龍は誰より感じていた。
「それでいいんですか?」
「……どうしますかねぇ」
静かな街灯の下、龍は遠くを見るように視線を泳がせた。見返りも進展も求めず、ただ可南の傍らに寄り添い続けること。それが今自分にできる唯一のことなのかもしれない。
そんな事を考えながら龍は夜道を歩いていた。




