3話 5分後の世界(黒瀬視点)
「雨、降ってきましたね」
なんとなくその人に声をかけたのだが、予想していた返事は返ってこなかった。
先程から窓の外、激しい土砂降りを見つめたままの旭はぴくりとも動かない。聞こえていなかったのだろうか。黒瀬はもう一歩踏み込み、少し声を張った。
「旭さん?」
「!……あぁ何?」
弾かれたようにビクリとし、振り返ったその人の顔を見て、黒瀬は違和感を覚えた。
どこか焦点の合わない表情。いつもは透明感のある色白な肌も、青ざめた色に見える。余計なお世話と分かっていても、ついその胸中を探りたくなってしまう。
「……なんですか?」
「いや、それこっちのセリフなんだけど? そっちが俺を呼んだよね?」
旭はすぐにいつものにこやかな表情を浮かべたが、その取り繕い方こそが怪しい。
「……あー、急ぎで確認してもらいたい資料あるんで少しいいですか?」
「俺に? 俺でいいの?」
「ええ。B室にまとめてあるんで、すみませんけどそこまで」
「あぁ、いいよ。……ん? 今黒瀬さんのところScene社の件だよね?」
「そうすね」
なんとなく腑に落ちない、という顔でぶつぶつと独り言を漏らす旭を促して、龍は彼とB室へ向かった。
◆◇◆◇
――ガチャ、と黒瀬が静かにドアを開ける。
「奥に」
「うん。……ん? どれ?」
旭が完全に室内へ足を踏み入れたのを見届け、龍は背後でドアを閉めた。パタン、と静かな音が部屋に響く。
「旭さん。具合、悪いんじゃないですか?」
直球の問いかけに、旭の動きが止まった。
自分がここに連れて来られた本当の意味を察したのだろう。彼は困ったように眉を下げ、さっきよりもさらに明るく笑ってみせた。
「なに言ってるの~? 全然大丈夫だし、余計なことはしなくていい。こんな所でサボってたら、木村さんにまた怒られるから行くよ!」
踵を返し、部屋を出ようとドアノブへ手を伸ばす旭。
その背中を見つめていた黒瀬の身体は、考えるより先に動いていた。背後から腕を伸ばし、旭の細い手首を強引に掴んで動きを止めさせる。
「すんません。真面目に聞いてくれませんか?」
思わず語気が強まった。いくら立場が偉くても、自分より30センチも背の高い厳つい男に見下ろされ、動きまで止められてしまえば普通なら少しは怯むはずだ。
しかし、旭は表情一つ変えず、ただ静かにその薄紅色の瞳で黒瀬を見ていた。動じる様子も無く事務的な声が返ってくる。
「聞いてる。その上で問題無いから業務に戻れと言っている」
感情のない、けれど明らかな拒絶の言葉。
その頑なな態度に、黒瀬は喉まで出かかった言葉を飲み込むと掴んでいた彼の手をそっと離した。
「したら、5分だけでも……休憩してって下さいよ」
半ば懇願するように黒瀬が告げると、これ以上拒むのは無下だと思ったのだろう。旭は諦めたように小さくため息をつき、部屋の奥へと歩き出した。
「……っていうか黒瀬さんさ、ちゃっかり自分も休憩しようとしてない?」
「ついでですよ、ついで(笑)」
図星を指されて苦笑いを返すと、旭の肩の力がほんの少しだけ抜けたように見えた。
◆◇◆◇
相変わらず激しく降り続ける雨が窓ガラスを伝い落ちていく。
ふと廊下からわずかに人の話し声が聞こえた。今人に見つかると変な噂をされかねない。俺はそっと立ち位置を変え、ドアのすりガラスを自分の身体で塞ぐようにして立った。
そんな俺の不自然な動きを悟られないように、ポケットからスマホを取り出して弄り始めると、ソファで横になっていた旭から、ボソリと声が飛んできた。
「そのゲーム、今どこ?」
「ふっ……なんで分かりました? 今、貴方が苦戦してた例のエリアまで行きました」
「ホント?? 早くない?」
「すぐ追い抜きますよ」
「黒瀬さんは流石だよなぁー……」
他愛のないゲームの話題に、旭の口元にいつもの柔らかな笑みが戻る。
それにしても、5分という時間はあまりにも短い。
少しでも旭が身体を休められるように、俺は静かにしようと思った。思ったのだが、まるで静寂を恐れるように旭はポツリポツリと話しかけて来る。
何度目かの会話が途切れ、廊下にあった人の気配もこの瞬間フッと消えた。室内にはザアザアと、ただ冷たい雨音だけが響き渡る。
俺はなんとなく視線を上げ、ソファに寝転ぶ旭を見た。
この状態の旭は徹夜続きの修羅場の時期にはよく見るが、今はさほど忙しいわけではない。大丈夫だなんて口では言っていても、やはり調子は良くないのだろう。
「……黒瀬、さん。なにか話してよ」
その声が、不自然に細く揺れた。
ハッとして旭の方へ目をやると、彼は寝転んだまま、何かを探すように天井へ視線を泳がせていた。
結局、旭の視線が何を追っているのか俺には分からなかった。ただじっと宙を見つめるその薄紅色の瞳からは、まるで光が消えたかのように何の感情も読み取れない。
「話ですか……。昔、独り暮らしを始めた頃、料理にハマったんです」
「うん」
横になったままの旭に、俺は静かに語りかけた。
「ある時ホットケーキを作ろうと思って、粉を買ったんですよ。いざ作ろうとしたら、説明書きに『泡立て器で混ぜる』って書いてあって。……今なら菜箸で適当に混ぜるんですけど、当時は泡立て器が無いからって理由だけで、作るのを止めたんです」
「えぇ? 応用力の欠如!」
旭から思わずといったように軽いツッコミが飛んで来る。それに小さく苦笑しながら、俺は本題へと移る。
「経験値不足です。人間、経験値が低いとその分野で困った時、他の選択肢なんて探そうとも思えないんですよ」
一呼吸置き、俺は旭の瞳をしっかりと捉えて続けた。
「例えば……『人に頼る経験をして来なかった人は、誰にどう頼るか考える以前に、最初から人に頼るっていう選択肢自体が存在しない』とかも同じです。圧倒的な、経験値不足。……違いますか?」
さすがに自分の痛いところを突かれて、気まずそうな顔でもするかと思った。――だが、旭の顔に浮かんでいたのは、いつもの見慣れた笑顔だけだった。
「へぇ、興味深い見方だ。じゃあ、時間だよ」
感情を乗せない声でそう言うと、旭は流れるような動作で立ち上がり、俺の方を一瞥もすることなくそのまま廊下へと出て行ってしまう。
バタン、と静かにドアが閉まった。
「……えらい頑丈な防壁で。どう言やいいんすか、もう」
誰もいなくなった殺風景な部屋に、俺のやるせない独り言だけが寂しく響いた。




