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変わらない明日を君と  作者: 夏露
第一章
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2話 5分後の世界(旭視点)

 その日は、世界を灰色に塗りつぶしたような土砂降りの雨だった。


 窓を激しく叩く雨音を聴いていると、まるで起きながらにしてあの夢の続きを見ているような錯覚に陥る。


 どうしてただの夢をそこまで気にするのか。

 理由は単純だった。今、目の前にある現実でも、あの夢と同じように雨音に混ざる『声』が聞こえているからだ。


 俺の耳はまたいつもの幻聴を捉えていた。

 安定剤を服用するようになってから症状は治まり、滅多に聞こえなくなってはいる。けれど、どうしてか薬の効きが鈍い日が稀にあるのだ。


 特に今のような梅雨時と重なると最悪だった。運が悪いとこうやって、脳をやんわり侵食していくこの声のせいで、どうしても仕事に集中できなくなってしまう。

 俺は周囲の人の声、雑然とした足音、そういう日常的な音の方へ意識を向けようと努める。

 でもたまに、誘惑のような思考が頭をもたげる。


 ――このまま耳を澄ませていれば、この声が誰のものか分かるのではないか?


 どこかで聞いた事のあるその声は、いつも雨のしゃの向こうから俺の名前を呼んでいた。

 呼ばれるたびに湧き上がる、肺を押し潰されるような息苦しさと、抉られるような胸の痛み。何か取り返しのつかない恐ろしいことが起きるのではないか、という根拠のない不安感が全身を支配する。


 いっそ耳を澄まし、この苦痛に耐え続けたならその先に答えがあるのかもしれない。夢の中だけではなく、この現実でもその答えに辿り着けるのかもしれない……。


 ただ、それはあまりにも恐ろしかった。

 得体の知れない暗闇のどこかへ堕ちて、もしこの穏やかな日常に戻ることが出来なかったら、俺は――。


「……ましたね。……旭さん?」


 現実に引き戻すような低く響く声に、俺はようやく自分が呼ばれていることに気がついた。

 ハッとして思考を中断し、声のした方へ振り向くと、そこには黒瀬が立っていた。


「……なんですか?」


 俺と目が合うと、黒瀬は怪訝そうな顔でそう尋ねた。小柄な自分より30センチほど背の高い彼の顔を見上げ、俺は尋ね返す。


「いや、それこっちのセリフなんだけど。そっちが俺を呼んだよね?」


 その強面の顔に似合わない優しい紺色の瞳が心配そうにこちらの様子を伺っていた。

 俺は今、何か不自然なことをしていただろうか。いや、確かに考えにふけってはいたが、今更職場で変な真似はしないはず。

 俺は自分のテンションを『通常値』まで強引に引き上げいつも通り微笑むと、彼の次の言葉を待った。


「……あー、えっと、急ぎで確認してもらいたい資料あるんで少しいいですか?」


「俺に? 俺でいいの?」


 自分に直接上がってくる話など、トラブル関係以外に思い浮かばない。


 様々な最悪の場面を頭の中でシミュレーションしながら、俺は彼に促されるまま資料があるという別室へ向かった。



◆◇◆◇



 案内されたB室に入ってみると、資料らしきものはどこにもない。室内をキョロキョロと見回す俺に、背後でドアを閉めた黒瀬が静かに言った。


「具合、悪いんじゃないですか?」


(ああ、そういうこと……)


 合点がいくと同時にわずかに警戒のスイッチが入る。

 黒瀬は部下ではあるが、ここ数年は友人としての付き合いもある。強面に反して性格は穏やかで繊細。人の心の機微をよく読むので、フォローやヘルプを任せれば期待以上の成果を出す優秀な人材だ。

 何事においても上を目指す貪欲さがもう少しあれば出世も早いだろうに、本人にその気はあまりないらしい。


 そして、たまにこういう余計な事をする。

 腹の中を探られたくない時には、注意を払わねばならない相手だった。


 少しでも気を抜けばここがどこなのか、自分は何なのかすら解らなくなってしまいそうな感覚がすぐそこまで来ている。目の前の光景が、やたらと遠くに見えた。


 かすかに響くあの声に、意識が引っ張られそうになる。同時に、肺の奥の息苦しさが増していく。

「なんとも無い」といくら説明しても、黒瀬は逃がしてくれなかった。


 数分の問答の末、結局俺が折れる形で少しの間だけ休憩を取る流れになってしまった。

 どうせ休むならと開き直り、俺は室内のソファに横になった。



◆◇◆◇



 雨音に混ざる声に気を向けないように、廊下の喧騒、足音、話し声――その一つ一つに意識を集中した。

 しかし、ふと外の気配が静まり、黒瀬との会話が途切れたその瞬間。クリアになったあの声が、まるでこの部屋の中から響いているように錯覚し、思わず視線で周囲を探してしまう。


 たまらず俺は彼に話を振った。

 黒瀬は少し考えると、自分の話をぽつりぽつりとし始めた。

 彼の低い声に集中するとあの声はまた遠くへ去り、エコーがかったノイズのように霞んでゆく。他愛ない雑談を交わすうちに、自分の感覚が少しずつ元に戻ってくるのが分かった。


 普段、大勢の中にいる時よりもわずかに饒舌になっている黒瀬は、最後にまた俺の胸の内を探るような素振りを見せた。彼の好奇心がそうさせるのか、それとも何か他に意図があるのか。

 彼との問答にこれ以上の意味を見出せなかった俺は、いそいそと仕事に戻る支度を始める。


 これは俺だけの問題だ。

 中途半端に他人に話して、誰かの負担を増やすような真似はしたくなかった。


「じゃあ、戻るよ」


 すれ違いざま、目の端に黒瀬の表情が映った。

 その切実で、何かまだ言いたそうな顔を見た瞬間、胸の奥にチリリとした小さな痛みが落ちる。


 俺はいつも通り、それを深呼吸で掻き消した。



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