楽園追放
理性の眠りは怪物を生む。
ここはあの赤い空の桃色の雪原であった。どこまでも隙間なく雪で覆われている。
もうカラスたちも居なかった。再び私は小さな学生服の私に戻り、そこに立ち尽くしていた。
――畜生、なにをすべきなんだ。虎は一匹しか居ない? どういうことだ?
これは夢なのだから、虎の影でも見ることが出来れば御の字であったが、そうは問屋が卸さない。
仕方なく小さな銀鶏は雪原を歩いて行く。
その行為には何ら意味はなかった、立ち止まっていても仕方ないからだ。
すると唐突に目の前に「椅子」が現れた。
女教皇の椅子――それがなぜここに? 此処は彼女の部屋じゃない、私の雪原だ。
「おまへ、出会ってしまったね?」
耳元に生暖かい呼気を感じて、小さな私は雪の中へ飛びのいた。ぞっとした。
そこに居たのはまだ私が一度も描いていない「彼女」の全身像で、それは小さな私よりも背が高かった。青いベールは足元まで届き、その下の群青のローブを豊かな乳房が押し上げているのが見えた。
「出会った? 誰と出会ったというのだ」
「虎を追う者――それ以上におまへの運命と」
彼女は女教皇の名にあるまじき淫らな笑みで、私を挑発した。
「アオヒツギがか、どういうことだ。あいつが荒らしでないにしても私の運命だ等と適当なことを……」
現実ではないというのに、この女を目の前にしているとだらだらと冷や汗が流れる。
女教皇は椅子に横向きに座し手すりに身を預けると、ぞっとするような眸でこちらを見た。
「あれは此岸を照らし出す光、そしておまへの欲望」
「私の欲望……? そんなものはない、アイカがいなくなった以上」
いつの間にか女教皇は椅子から消えると、私を背後から抱きすくめた。むせかえるような性の感触に私は思わず畏怖する。そして彼女は耳元で再び囁く。
「アイカは死んだ」
「……!」
私はそこで漸く気が付いた。
大急ぎで私にしがみついている女を付き飛ばした、彼女は雪原に崩れ落ちる。
「消えろ"百頭女"!! お前は、お前は女教皇じゃない!」
「同じことよ、女教皇も百頭女も、それは『秘密を守る』」
雪原から女は尚も私に不思議なことを吐いたが、私は相手にしなかった。
「消えろ! 消えぬなら私が目を覚ますまでだ!」
そう言って私は目を覚ました。
『人間椅子』の個室シートの寝にくい座席だから、悪夢なんて見たんだ、畜生!
私はシャワーを借りて(借りるのは何度目だろう?)髭を剃り、昼間購入した下着に穿き替えた。
再び元の席に戻ると独言を呟いた。
「アイカが死んだだって? 莫迦も休みやすみ言え」
私が『人間椅子』でゲームに興じている間に12月20日になっていた。アイカなら今頃他の男を見つけて(相手には事欠かないだろうし)クリスマスの計画を宜しくやっている筈だ。死ぬわけがない。
彼女のような女が私と交際していたのも元はと言えばファッションの一部なのだから――理屈っぽく適度に知的で芸術家肌の男。この際容姿は置いておくが。
結局のところ私は彼女に見放されたし、もっと相応しい相手が現れただけのことだ、そう思えばいい。
言うなればアイカにとって私は特別ではなかったし、その逆もまた然りであったのだ。だからそれでいい。
創造の源泉となるような女はこの先生きていれば、また出会える機会もあるだろうし彼女との別離をそこまで惜しむ気もなかった。
まあ一つ残念といえばfifth dimensionsに行きづらくなるという事か、わたしはあの店を気に入っていたし、あの主人と話すのもやぶさかではなかったからだ。
それに「椅子」の原本はあそこにあるのだ、何故それをエステラが知っているのかは全くわからないが。
そのとき個室シートの入り口をノックされた。
何だ? 何も私は注文していない筈だが……?
「失礼ですが席を間違えてませんか? ここのシートはもう満席で――」
「分ってます、猪狩さん貴方にお会いに来たんです。ここにいらっしゃると聞いて」
それは聞き覚えのある声であった。
「わたしです、出口です」
この冬は終わらない。




