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鴨川のささやき、西陣の影  作者: 久遠 睦


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第二章 御朱印の余白

瑞希は志津江に声をかけ、休憩へ入ると、店の奥から自分の御朱印帳を持ってきた。表紙は深緑色の和紙で、角が少し擦れている。

「宇治の工房で作られたものなんです。祖母に教えてもらいました」

東福寺、高台寺、建仁寺。ページをめくるたび、訪れた季節の話が一つずつ出てきた。瑞希は高台寺の夜間拝観で雨に降られ、墨書きが濡れないよう御朱印帳を上着の中へ入れて走ったという。

「その時、自分は濡れても帳面だけは守るんだなって、あとで笑いました」

「僕も同じことをすると思います」

「齋藤さんも集めて長いんですか」

名前を呼ばれ、海斗は一瞬、返事を忘れた。瑞希は彼の会社の入館証が鞄からのぞいていたのを見て、苗字を知ったらしい。

「五年くらいです。祖父の遺品に御朱印帳があって、それを見たのがきっかけでした」

祖父の帳面には、海斗が生まれるより前の日付が並んでいた。同じ寺を訪れても、今とは印の形が違う。祖父が何を考えてその列に並んだのかは分からない。残された紙に触れると、自分の知らない時間が確かにあったことだけは伝わった。

「書いてあるものより、書いていない時間の方が長いんですね」

瑞希がそう言った。海斗は御朱印帳を、集めた印の記録としてしか見ていなかった。だが、印と印の間には、祖父が仕事をし、家へ帰り、海斗の父を育てた日々がある。

「水上さんは、どうして集め始めたんですか」

「大学に入った頃、何をしても長続きしなかったんです。写真も、日記も、英会話も。祖母に御朱印帳をもらって、最初は一冊くらい埋めようと思いました。気づけば三冊目です」

瑞希は笑ったあと、表紙を撫でた。角の擦れは、鞄に入れて歩いた時間の跡だった。

二人の間に、無理に埋めなくてもよい沈黙が落ちた。窓の外では、楓の葉から落ちた雫が飛び石を一つ濡らした。志津江がカウンターで皿を重ねる音がした。

休憩を終える前、瑞希が改めて名乗った。海斗もフルネームを伝えた。

「齋藤海斗さん。漢字は、海に北斗七星の斗ですか」

「そうです。齋藤の齋が、書くのに時間のかかる方です」

瑞希は注文票の裏に名前を書いた。最初の一画を間違え、横にもう一度書き直す。

「本当に難しいですね」

「僕も、ときどき斎藤で済ませます」

次の火曜日、海斗が店へ入ると、瑞希は「齋藤さん、お疲れさまです」と声をかけた。正しい齋の字を覚えたことを報告するような響きだった。

それから、平日の持ち帰りにも短い会話が加わった。瑞希は宇治の出身で、大学進学を機に京都市内へ出たこと。海斗は伏見で育ち、現在は二条城の近くで一人暮らしをしていること。好きな寺の庭や、季節限定の御朱印について話した。

志津江は二人の会話に口を挟まなかったが、ある日、海斗の珈琲を淹れる瑞希へ「お湯、少し速いよ」と言った。瑞希の手が止まり、細い湯の線が一瞬だけ揺れた。

「すみません」

海斗が受け取った珈琲は、いつもより少し軽い味がした。まずいわけではない。瑞希が自分との会話に気を取られたのだと思うと、責任のないうれしさと申し訳なさが同時に湧いた。

休日の午後、常連客が途切れた時、瑞希は海斗の席に新しい豆の試飲を持ってきた。エチオピア産の浅煎りで、果物に似た酸味があるという。

「深煎りがお好きだから、これは苦手かもしれません」

海斗は一口飲んだ。舌の上に明るい酸味が広がり、後から花のような香りが抜けた。

「苦手ではないです。ただ、いつもの味を想像して飲むと驚きます」

「味も、先に決めつけない方がいいんでしょうね」

瑞希は自分の分を飲み、少し顔をしかめた。

「でも私は、やっぱり深煎りの方が好きです」

海斗は笑った。無理に好きになる必要はない。その当たり前のことが、彼女の口から出ると新鮮だった。

六月の最初の日曜日、海斗は寺町通の古書店へ寄った帰り、出町柳まで足を延ばした。鴨川と高野川が合流するあたりは、雨の前の風が強かった。河原には家族連れや学生が座り、飛び石を渡る人の列が途切れない。

石段の下に、見覚えのある深緑色の御朱印帳が置かれていた。その隣に瑞希がいる。膝の上に黒いノートを広げ、鉛筆で何かを書いていた。

店の外で会うのは初めてだった。海斗は声をかけるか迷った。仕事中の瑞希しか知らない自分が、休日の彼女へ近づいてよいのか判断できなかった。

そのうち瑞希が顔を上げ、先に海斗を見つけた。

「齋藤さん。お寺の帰りですか」

「今日は本屋の帰りです。水上さんは」

「考え事をしに来ました」

瑞希がノートを閉じた拍子に、挟んでいた紙が風にさらわれた。海斗は足元へ滑ってきた一枚を拾った。そこには、手描きの間取り図があった。



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