第一章 余白のある一週間
齋藤海斗の一週間は、烏丸御池を中心に回っていた。三十二歳。生活用品を扱う会社の経理部で、仕入れ先から届く請求書と販売実績の数字を照らし合わせるのが主な仕事だった。数字は間違いを見つければ訂正できる。だが、人の気持ちは、どこが食い違ったのかさえ分からないことがある。言葉を選び過ぎて口にする時機を逃す海斗にとって、数字の並ぶ画面は気楽な相手でもあった。
月末の金曜日、営業部から回ってきた伝票に、同じ配送費が二度計上されていた。海斗が担当者の佐々木へ確認すると、相手は椅子の背にもたれ、「それくらい、来月で調整すればいいでしょう」と言った。
「来月に回すと、今月の部門別利益が変わります。訂正するなら今日です」
「齋藤さんは本当に数字に厳しいな」
冗談めいた声だったが、周囲の視線が一度だけ集まった。海斗はそれ以上説明せず、修正された伝票が戻るまで自分の机で待った。退勤時刻を二十分過ぎていた。窓の外には、雨を含んだ雲が御池通の上を低く流れている。
会社を出た海斗は、地下鉄の駅ではなく市バスの停留所へ向かった。平日の仕事帰り、週に二、三度だけ西陣へ寄る。目的は、細い路地の奥にある「茶房ことのは」の珈琲だった。
藍色の暖簾の脇には、雨に濡れるたび色を深くした木の看板が掛かっている。格子戸を開けると、土間の冷気が靴の裏から伝わり、焙煎した豆の匂いに古い木と畳の匂いが重なった。かつて機場だった店内には黒い梁が渡り、奥の窓から小さな坪庭が見える。雨の日は、飛び石の周囲だけ土の色が濃くなった。
カウンターに立つ水上瑞希は、海斗の顔を見ると、棚から持ち帰り用のカップを取った。
「いつもの深煎りでよろしいですか」
「お願いします」
それだけのやり取りが、一年近く続いていた。海斗は彼女の名前を、店主が呼ぶのを聞いて知った。二十六歳だということは、常連客が誕生日の話をしていた時に耳へ入った。瑞希は豆を量る時、秤の表示を必ず二度確かめた。一方で、忙しくなると注文票をエプロンのポケットに入れたまま探し回る癖があった。
その日も、瑞希はカウンターの下をのぞき込み、棚の上を見回していた。店主の相良志津江が、珈琲豆の袋を閉じながら言った。
「瑞希ちゃん、右のポケット」
瑞希は手を入れ、折れ曲がった注文票を取り出した。
「またやってしまいました」
志津江は慣れた様子で笑い、店の奥へ引っ込んだ。完璧な所作をする人だと思っていた海斗は、その小さな失敗を見て、かえって肩の力が抜けた。
「見つかったなら、問題なしです」
瑞希は注文票を指先で二つ折りにしながら、「そういうことにしておきます」と答えた。接客用に整えた微笑みではなく、眉尻を下げた笑い方だった。
店を出ると雨はやんでいた。海斗は蓋の飲み口から立つ湯気を見ながら、今の一言を言わなくても困る者はいなかったと考えた。それでも口にした。職場では必要なことさえ遅れるのに、ここでは不思議と声が出た。
休日は開店まもなく「ことのは」へ入り、窓際の席で本を読む。土曜日の朝、海斗は読みかけの随筆集と、小さなスケッチブックを鞄に入れた。寺社を巡った日に御朱印の意匠を写すためのものだった。絵が得意なわけではない。線を追っている間だけ、仕事や家のことを考えずに済んだ。
海斗の父は、伏見で小さな印刷会社を営んでいた。海斗が大学を卒業した年、主要な取引先が倒産し、代金の一部が回収できなくなった。食卓には未払い金と返済予定の話が並び、母は買い物袋の中身を一つずつ確かめるようになった。会社を畳んだあと、父は別の印刷所へ勤めたが、家族の会話はしばらく数字から離れなかった。
海斗が経理を選んだのは、数字を正しく扱えば混乱を防げると思ったからだった。実際に働いてみると、数字が正しくても会社が傾くことはあり、正しさを伝えるだけでは人が動かないことも分かった。それでも、少なくとも見ないふりはせずに済む。
「ことのは」では、正しい答えを出す必要がなかった。本を開いたまま坪庭を眺めても、志津江は急かさない。瑞希も、カップが空になれば水を足し、必要以上に話しかけなかった。その距離が海斗には心地よかった。
六月を前にしたその土曜日、坪庭の楓は若葉を重ね、雨上がりの光を細かく揺らしていた。海斗は午前中に訪れた柳谷観音の御朱印をスケッチブックへ写し始めた。朱印の輪郭を取っていると、空になったカップを下げに来た瑞希が、彼の手元に目を留めた。
一度通り過ぎかけてから、瑞希は戻った。
「それ、柳谷観音さんですね」
海斗はペン先を紙から離した。いつもの注文とは違う言葉を向けられ、返事が半拍遅れた。
「分かるんですか」
「私もいただきました。去年の紫陽花の時期に。紙の端に花が入っているでしょう」
瑞希はスケッチブックに触れないよう、両手をエプロンの前で重ねていた。話しかけたものの、仕事中に長居してよいのか迷っているらしい。海斗は隣の椅子に置いていた鞄を床へ移した。
「よかったら、少し見ますか」
その一言を境に、いつもの土曜日に、今までなかった余白が生まれた。




